ツンデレblog

淡路島の弁護士が考えたこと

カテゴリ : 時事ネタ

 現在、国立公文書館で、「平成29年春の特別展 誕生 日本国憲法」という展示会が開かれているようである(5月7日まで)
http://www.archives.go.jp/exhibition/
 ツンデレは行くことはできないが、展示図録は通販が可能だったので購入してみた。
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 内容は、昭和21年1月1日の「新日本建設に関する証書」(人間宣言)とか、西山記者のスクープした毎日新聞とか、松本私案とか、日本国憲法の原本とか、まあ「目で見る憲法」の日本国憲法の誕生版ですな。
 ところで、ツンデレは、これに関連して、4月3日に次のようなツイートをした。


 これについては、その後、フェイスブックの方で少し議論があったので、それを踏まえてもう一度この問題(日本国憲法の正統性)を考えてみる。憲法記念日も近いし。ただし、ケルゼン読むとかシュミット読むとか本格的に勉強したわけではないので、普通の人よりちょっと詳しいくらいの人の思いつきですよ、為念。

 まず、出てきた議論が「日本国憲法の主権者は本当に天皇だったのか?」という疑問。天皇機関説は「戦前も主権者はナシオンであり、ポツダム宣言受諾で日本国は機関設計の変更義務を負ってそれを履行しただけではないのか」ということなんだが、ツンデレは、天皇機関説の詳しい内容をよく知らないんだよね。
 事務所に美濃部博士の本はなかったが、昭和11年に発行された、佐藤丑次郎東北帝国大学教授の「帝国憲法講義(増訂改版)」という書籍があったので、それを見ると、「以上説明シタルガ如ク、帝国憲法上統治ノ主体ハ天皇ニシテ国家ニ非ズ。然ルニ学者或ハ国家ヲ以テ統治ノ主体トナシ、天皇ハ国会ノ最高機関ニシテ国家ニ代リテ統治権ヲ行フモノナリト説キ、又ハ国家ヲ統治ノ主体ト認ムルト同時ニ天皇ヲ以テ統治ノ主体トナシ、従テ統治ノ主体タルニ於テ天皇ト国家ト同一ナリト論ズ。」と書いてある。ナシオンには国民とか国家という意味があるらしいが、国家が主権者って意味がわからん。天皇主権か国民主権かっていうのは、誰が「憲法をつくる権力」の担い手かっていう話のはずなんで、ピントのずれた議論に思える。問いに素直に答えておらず、話をそらしている。ノモスの主権みたいな感じ。長谷川三千子の理性による政治とも似ている。
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 続いて、憲法改正の限界について改正限界説に立つ限り、どのような理屈をこねても、明治憲法からみた日本国憲法の正統性を肯定することはできないだろうなという話。だから、改正無限界説に立つというのも一つの立場かなあと思う。阿部照哉京大名誉教授はそのような見解をとられているようだ。たしか、長尾龍一「憲法問題入門」もそういう立場じゃなかったかな。
 この立場(無限解説)に立つなら、主権者というか、神であった天皇が国民に主権を譲渡したという構成が可能だろう。大政奉還に似てるかな。王権神授説ならぬ、国民主権神授説。これは天皇の権威を認めたうえで国民主権を説明できるので、保守層に受けるかもしれない。

 それから革命が新憲法の正統性の根拠になるかという話
 まず、国際法の本を見たのだが、革命やクーデターを通じて非合法的に政権の交代が行われた場合には、新政権を、その国を正式に代表する政府として承認する政府承認が外国によって行われることがあるという記述があった(杉原高嶺ほか現代国際法講義)。なるほど、新政権、新体制が合法か非合法は、内国法の問題か。そりゃそうか。
 そこで憲法の本を見たのだが、小嶋和司「憲法概観」107頁に、改正限界説の立場からの解説があって、限界説から現行憲法を無効とする見解に対して、「この見解は、実定憲法は、その制定手続と内容とが論理的に整合する場合にのみ効力をもちうるとするものであるが、この前提に不当がある。憲法は、論理上の正統性や合法性によってその効力を承認される場合もあるが、革命軍司令官の一片の布告が現実の憲法典を廃止し、あたらしい憲法を有効ならしめることも多いのであって、現実の憲法典の効力は、それを妥当せしめるべき社会による承認と需要によって決せられる。制定手続と制定物の内容の論理的不整合を根拠として、現行の憲法の効力を否認するのは実定法学の立場ではない。」という記述があった。
 そして、尾吹善人「日本国憲法ー学説と判例ー」には、「憲法改正権に限界があるかどうかという問題は、限界があるとする者も、だいたいにおいて限界突破の改正行為は、それが実効性をもっても、「改正」として元の憲法から効力を受けつぐものではなく、法的連続性のない法律的意味での「革命」と見るべきであるとするにとどまり、裁判所が限界をこえた改正憲法の無効を宣言しうるとする者は、少なくともわが国ではいないから、憲法の本質にかかわるもっぱらアカデミックな問題である。」という記述もあった。
 尾吹先生の解説は、まことにごもっともな話で、仮に、明治憲法に照らして日本国憲法が無効な存在だったとしても、現在、それを確認する機関は存在しない。かつて石原慎太郎が「国会で決議して日本国憲法を停止すればいい」と言っていたことがあるが、現在の国会も、日本国憲法に基づく法律や選挙によって権能を認められた存在であり、自らの権能の根拠を自らが否定することは自己矛盾であり、不可能だろう。かつて、最高裁判所に、「日本国憲法の無効を確認せよ」という訴えが提起されたことがあったのだが、最高裁は、「裁判所の有する司法権は、憲法七六条の規定によるものであるから、裁判所は、右規定を含む憲法全体の効力について裁判する権限を有しない。」と判示して、訴えを却下した(最判昭和55年5月6日判時968号52頁)。あるいは昭和天皇であれば、明治憲法における主権者としてそういうことが可能だったかもしれないが、崩御されてから30年近く経つ。今上天皇も日本国憲法に基づく即位であるから、昭和55年の最判と同じことになるのではなかろうか?なお、日本国憲法の制定に関する昭和天皇の関与については、江橋崇「日本国憲法のお誕生第5回 昭和天皇の日本国憲法」参照。
 つまり、革命だから合法だ、クーデターだから非合法だという話ではなくて、結局、生の実力による統治が実効性を有するときは、それが法的に正統性を有するかどうかは、新しい権力者を裁く主体が存在するかどうかという法的な判断とは全く別のところで決まるということらしい。小嶋説のいう、「社会の承認と需要」も、無効を確認・宣言する機関が実効的なものとして存在しない場合、新憲法は社会によって承認されたとみなされるという意味で、結局は、無効を宣言する機関が実効的なものとして存在するかどうかと同じ判断になるのではなかろうか(なお、これについて調べてるとき、チャウシェスクが、裁判の無効を訴え、「私はルーマニアの大統領だ」と叫びながら処刑されたという話を見つけた。)。
 結局、いくら日本国憲法の無効を叫んだところで、それを実現する手段は、革命やクーデターしかなく、だからこそ保守の人たちは改憲を訴えているということなのだろう(日本国憲法96条に基づく改憲というのは、日本国憲法を認めることにほかならない。)。こうして、日本国憲法改正の是非という問題が、法解釈の問題でなく、政策決定の問題に過ぎないというのであれば、それは国民それぞれが判断すべき問題である。国民の一人として、ツンデレはツンデレなりに意見を持っているが、少なくとも今はブログに書くことは控える。

 
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19年前の殺人事件 告白した矢野治死刑囚を逮捕 警視庁 死刑囚逮捕は極めて異例
http://www.sankei.com/affairs/news/170410/afr1704100010-n1.html
 平成10年に失踪した会社役員の斎藤衛さん=当時(49)=を殺害したとして、警視庁組織犯罪対策4課は10日、殺人容疑で、元暴力団組長の矢野治死刑囚(68)=ほかの殺人罪で死刑確定=を逮捕した。
 確定死刑囚の逮捕は極めて異例。

 いやあ、裁判所やってくれますわw 勾留までいくのかどうか注視したい。
 刑事訴訟法上、逮捕状による逮捕の要件は、刑事訴訟法199条に規定されている。
1項 検察官、検察事務官又は司法警察職員は、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは、裁判官のあらかじめ発する逮捕状により、これを逮捕することができる。ただし、30万円(刑法、暴力行為等処罰に関する法律及び経済関係罰則の整備に関する法律の罪以外の罪については、当分の間、2万円)以下の罰金、拘留又は科料に当たる罪については、被疑者が定まった住居を有しない場合又は正当な理由がなく前条の規定による出頭の求めに応じない場合に限る。
2項 裁判官は、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると認めるときは、検察官又は司法警察員(警察官たる司法警察員については、国家公安委員会又は都道府県公安委員会が指定する警部以上の者に限る。以下本条において同じ。)の請求により、前項の逮捕状を発する。但し、明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、この限りでない。
3項 検察官又は司法警察員は、第1項の逮捕状を請求する場合において、同一の犯罪事実についてその被疑者に対し前に逮捕状の請求又はその発付があったときは、その旨を裁判所に通知しなければならない。
「嫌疑の相当性(199条1項本文)」と、「逮捕の必要性(199条2項ただし書、刑事訴訟法規則143条の2)」が要件とされているわけだ。
 逮捕には、逮捕状による逮捕のほか、現行犯逮捕と緊急逮捕というのがあるが、19年前の殺人に現行犯逮捕があるわけはないし、緊急逮捕の要件は、「急速を要し、裁判官の逮捕状を求めることができないとき」となっているので、どちらも考察の対象外とする。
 したがって、この死刑囚が逮捕されたということは、この死刑囚に、「嫌疑の相当性」と「逮捕の必要性」が認められたことを意味する。
 ツンデレが、なんだこりゃと思ったのは、このうち、刑事訴訟法199条2項ただし書の「逮捕の必要性」については、一般に、「逃亡のおそれまたは罪証隠滅のおそれがある等のため身体の拘束が相当であることをいう。」と解されているからである(刑事訴訟規則143条の3が、「明らかに逮捕の必要がない場合」について、「逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。」と定めている。)。
 ということで、死刑囚が逮捕されたということは、この死刑囚に、「逃亡の虞がない」とか、「罪証を隠滅する虞がない」と認められなかったことになるからである。
 
 いや、本当にすごいわ

 死刑囚って、拘置所にいる人ですぜ、逮捕しなかったら娑婆で自由にしてる人と違うんだよ。24時間体制で監視されているというのに、どうやって逃亡するの?逃亡のおそれを心配しなくちゃいけないような人なの?
 罪証を隠滅する虞って、どうやって? 死刑囚の外部との連絡は、未決のまま勾留されてる被疑者よりはるかに制限されてるんだけど… 勾留したら、弁護人との接見に原則として制限なくなるとしたら、死刑囚のままのときより罪証隠滅しやすくなるんと違うか? 誰か××や●●に入る語句を教えてくれよ。
××に照らせば、被疑者が●●に対して自己に有利な供述を得ようと働きかけたり、共犯者との間で共謀状況について口裏を合わせたりするおそれが十分あり、罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由が認められる。
 この死刑囚については、もうすでに勾留請求がされているかもしれないが、勾留の要件は、刑事訴訟法60条1項が規定している(60条は起訴後の勾留についての規定だが、要件については207条で起訴前の勾留に準用されている。)。
第60条  裁判所は、被告人が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある場合で、左の各号の一にあたるときは、これを勾留することができる。
一  被告人が定まつた住居を有しないとき。
二  被告人が罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由があるとき。
三  被告人が逃亡し又は逃亡すると疑うに足りる相当な理由があるとき。
実際の勾留状は、どれに当たるのか、チェックする欄がある。
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 勾留請求を受けた裁判官、準抗告を受けた裁判所が、逃亡のおそれの相当理由や、罪証隠滅の相当理由について、どのような判断をするか非常に興味深い。

 まあ、多分、捜査の便宜のために警察の留置場で勾留してほしい(拘置所までいくのがめんどう)というのが捜査機関の本音なんだろうなあ。





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 後述する理由により、ネタとして取り上げるのがずいぶん遅くなったが、1週間とちょっと前、教科書検定において、登場人物の職業がパン屋であることに不適切であるとの意見がつき、和菓子屋に変更したところ検定が通ったというニュースが報道された。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG24HGS_V20C17A3CR0000/
 高齢者を尊敬する気持ちを育むため「消防団のおじさん」が「おじいさん」に、国や郷土を愛する態度を教えるため「パン屋」が「和菓子屋」に――。24日に文部科学省が公表した小学校の道徳教科書の検定では、教科書会社が細部にわたって記述を修正するケースがみられた。学習指導要領で示した内容に照らし、申請時の記述が不適切とされたためだ。

 小1の教科書では散歩中に友達の家のパン屋を見つけた話を取り上げた。こちらも全体として「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着を持つ」点が足りず不適切とされ、パン屋を「和菓子屋」に修正した。
 ツンデレは、このニュースを聞いて、学生時代に定期購読していた「ショートショートランド」という雑誌に掲載された嵐山光三郎の「アンパンの受難」という小説を思い出した。現在のネット炎上を予言するディストピア小説とも言える(以下、ネタバレを含む)。

 ある日、M新聞に、進歩的作家N氏の「アンパン風潮を排す」と題する論文が掲載された。自身の戦後飢餓体験を下敷きに、現代のテレビや雑誌の甘ったるさを非難する内容であった。
 それを皮切りに、アンパン批判の世論が巻き起こる。
 ・O女史「アンパンは女性蔑視の元凶」(婦人団体の機関誌)「アンパンの創始者は、女性のおへそを見てアンパンを発想したのだから、アンパンを食べる行為は女性を食する発想につながり、それはつまり売春行為を連想する。」
 ・左欲系A紙日曜版「アンパンは軍国主義」「アンパンは元来、甘いものであるのに、その甘い本質を一見甘そうでないパンで包む方法が、実に軍国主義そのものである。これはナチスの擡頭期と同じである。」
 などなど
 アンパン店の主人は、ここに至って社会的責任を痛感し、アンパンという名に代えて、砂糖味煮小豆混入西洋饅頭という名をつけた。
 しかし、Tテレビの朝の放送に登場した和服姿の反戦女性作家がヒステリー声をあげつつ、「こんなことは許せません」と泣き出した。「アンパン労働者は、このカニ工船の女工哀史同様、搾取に搾取を受けていたんです。アンコの入れ方が悪いといってはムチで叩かれ、それでもゆーことを聞かないと浣腸されていたんです。」
 テレビの影響は大きく、主人公のアンパン店にまで抗議の電話が殺到した。そこで主人公は、アンパンが基本的に持っている「悪の構造」を自覚し、大いに反省工夫を繰り返した結果、シオパンなるものを発明した。
 すかさずNテレビのニュース解説で批判された。
 解説委員は、「アンコの中に入った砂糖がよくないことは次の表を見てください」と解説し、糖分とりすぎのため肥満体となって死亡した症例をあげ、「かといって、塩がいいかと言うと、これまた悪いのであって、次の表を見てください。」
 ・文化勲章受章の大思想家K先生の論説「近ごろ思うこと」(右欲系新聞S紙)「近ごろの世相は金太郎飴よろしく、どこを斬っても同じである。砂糖味煮小豆混入西洋饅頭がダメだと言って、岩塩混入西洋饅頭を発売し、急場をしのごうという業者が出現したが笑止千万。アンをシオにしたところで、本質の変化はない。こういう、目先にのみとらわれる商人の登場は、二十一世紀をむかえる日本の将来にとってはなはだくやまれる。」
 主人公は、自分の無知を恥じ、家族会議で一家心中をしようとしたが、そこに市民団体のデモ隊が押し寄せてきた。
 市民団体のリーダーは、「一家心中すれば、一家の犯罪が許されるというものではない。まず、公開の集会において自己批判し、自己改造し、大衆へ謝罪することが先決である。それがすんでから死になさい」。
 主人公は、妻、長女、長男、次男とともに「アンパンの軍国主義を許すな」の横断幕が張られた糾弾集会へ。
 一家が中央壇上に上がると、石や槍がとんできて、槍は長女の目につきささる。それを合図に「愛する者たちのために」の歌がわきあがる。
 主人公はさかさに吊されて
 「もうアンパンは二度と作りません。そのようなものは作りません。申し訳ありませんでした」
 と自己批判し、続いて、長男次男も逆さに吊されて
 「何と言っても、父の犯罪は許されません。兄弟ともども、この集会後一家心中をもっておわびします」
と、泣きつつ自己批判し、アイスピックを投げられつつ、盛大な拍手を浴びた。
 集会後、市民団体は、「友情」のマークの入ったTシャツを記念にもらってから、それぞれの家に帰り晩御飯を食べたとさ。

 ツンデレは、これをもう一度読み直したいと思い、ネットで探したのだが、「ザ・エンターテイメント1985-2」という書籍に掲載された後、どこの文庫に所収されているわけでもなく、入手が非常に困難になっていることを知った。先日、神戸に行く機会があったので、途中、「ザ・エンターテイメント1985-2」を所蔵している明石市の県立図書館に立ち寄り、ようやくコピーを入手した次第である。これたしか、この年の「なんとか大賞」をもらったような気がするのだが…。名作をここまま埋もれさせるのは大変惜しいので、嵐山先生には、是非この傑作を文庫にいれて出版してほしいのでR(上記のとおり、現在入手困難なことを考慮して、ネタバレを含む詳細なあらすじを載せました)。
 今回の検閲(教科書検定)のばかばかしさは、元のニュースを読めば分かるだろうし、もう他の人がさんざん語っているのところで、それに付け足すことはない。


関連エントリ
愛国教育の強制って憲法違反じゃね?
【悲報】2~3年後、小中学校において「道徳心」「愛国心」に成績をつける、と文科省が決定。


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 斎藤茂太「精神科医三代」(岩波新書)を読んでいたところ、最後の方に「ルポ精神病棟」の話が出てきた。
 「精神科医三代」の方は、まあ「楡家の人々」の実録版なわけだが、ツンデレが楡家を読んだのは中一のときでもう40年も前のことになるので、ああ、そういえばこんな話あったなあとか、医学者としての茂吉ってこんなんだったのかあなどと思いながら読んでいた。ただまあ、当然のことながら医者の立場からみた精神病院の話である。
 これに対してモタ先生が「精神科医三代」の中で取り上げた「ルポ精神病棟」は、患者からみた精神病院の話である。これは昭和45年に朝日新聞の大熊一夫という記者がアル中患者をよそおって精神病院に入院し、その様子をルポしたもので、朝日新聞の夕刊に連載されたものだそうだ。これは新聞連載の分だけでなく、その後の取材も含めて書籍になっている。
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 こちらもツンデレの蔵書の中にあり、積ん読状態になっていたので、「精神科医三代」に引き続いて読んでみた。内容は、不衛生な保護室とか、薬漬けの患者とか、電気ショックによる拷問とか、作業療法と称して病院幹部の選挙の手伝いをさせるとか、不味く冷めた食事とか、鉄格子とか、まあこれでもかこれでもかと人権侵害の実態が明らかにされており、当時、社会に相当な衝撃を与えたようである。
 逆に、攻撃の対象となった精神科医の反発も強かったようで、「ルポ精神病棟」の方には、医療関係者から朝日新聞に当てた抗議の手紙なども収録されている。彼らにしてみれば、「一生懸命やってるのに」というところであろう。「予算も限られた中で精一杯のことをやってるんだ。」「オレたちが受け入れなかったらアル中や痴呆老人なんかをかかえた家族はどうなるんだ。」「ナチのように精神病の患者は抹殺した方がいいのか?」「中には新聞で紹介されたみたいなのもないわけじゃないが全部が全部そんなじゃない。」みたいな感じ。病気を偽って入院した記者への個人攻撃みたいなのもあった。冷静にみて、ルポを事実に反すると言い切れないところに病院側の弱さは感じた。
 で、ツンデレが注目したのは、「ルポ精神病棟」のあとがきに引用された、やはり斎藤茂太先生の文章である。
「たとえばある新聞の精神病院攻撃である。書くほうは、精神病院をやっつければ、病院が向上すると考えている。ところが事実が逆なことは、スタンフォード大学の社会心理学者レオン・フェスティンガー教授の指摘しているとおりなのである。教授によれば、新聞が精神病院のいいところをとりあげ、報道すると、病院の内容は32パーセント、レベルアップするという」
 このモタ先生の指摘は正しいのだろうか? これが正しいとすると、ツンデレがこのブログで年がら年中やっている裁判所の対応批判は無意味なんだろうか?上記の病院側の反発は、ツンデレの批判に対する裁判所側の反発に似ていると感じる。ツンデレは、おかしなところを指摘することで裁判所が変わっていくことを期待しているのだが…

 もう一つ指摘しておきたいのは、大熊記者の入院から約50年を経た現在、おそらく精神病院は昔とは異なっているであろうと思われることである。それは、ツンデレが修習生のとき刑事裁判修習の一環として精神病院見学をしたこと(中宮病院だったかな?)や、もう一つ、吾妻ひでお先生の「失踪日記」「アル中病棟」に出てくる精神病院の中の描写などから推測できる(ツンデレの修習も、吾妻先生の入院もおよそ20年前のことであるが。)。
 精神病院見学では、職員の方に「比較すること自体がおかしいことは分かっているうえで質問させていただくのですが、刑務所とずいぶん雰囲気が違うんですね?」と、だいぶ気を使って質問したことを覚えている。患者を閉じこめておくような設備もなく、そういう質問をするくらい雰囲気が違っていたのだ。質問に対する回答は、「患者には逃げようとする精神的余裕すらないのです。」みたいな感じだったな。そのほか、引率の故杉田宗久判事が、医師に対し、責任能力の判定にかかわる突っ込んだ質問をしていたことなんかを思い出す。あと、もの珍しい修習生の訪問が、患者たちを刺激したらしく、いろいろと話しかけられ、患者たちの境遇を思い、なんだか悲しい気持ちになったなあ。帰ってから配属部の部総括と話をして、「そうなんだよ、オレも悲しくなるんだよ」みたいに意気投合した。
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 そうすると、日本の精神病院は30年の間に、飛躍的に患者に対するサービスが向上したということになる。これはいったい何によるものなのか。モタ先生やレオン・フェスティンガー教授のようにマスコミが精神病院をやっつけたせいなのか、そうでないのか。日本の精神病院のサービスが向上したように、ツンデレも裁判所の(とくに裁判官の)レベルを向上させたいのだ。

 「精神科医三代」の中で、茂太先生は次のように書いておられる。裁判所の職員(とくに裁判官)の方々も、同じように冷静な目でツンデレの指摘に声を傾け、ツンデレの指摘が誤っているかどうかを見極め、国民が納得できるレベルの高い裁判所になってもらいたいと思うのである。
 私はこの文章を書くに当って、このルポの切抜きをもう一度読み返してみた。このルポが新開にのった当座はやはり感情がさきに立って心騒ぎ、「何という悪意にみちた文章」と思わないでもなかった。しかしいま比較的冷静な目でみてみると、「金はホテルなみに取るのによお」と患者に言わせるのなどは困るが(入院料が平均的ホテル料金より安いのは文明国では日本くらいのものだ)、筆者はなかなかに勉強していることがわかる。たださきにも書いたように、センチメンタリズムとセンセーショナリズムがいささか目ざわりになるが。しかし、少しものを見る目のある人なら、その中にえがかれた病院の様相がわが国全体に通じるものでないことはわかるであろうが、多くの人びとに精神病院とはああいうところという印象を強烈に与えたことは否めないであろう。そうかといって、このルポで取り上げられた病院以外に何の問題もないといえばウソになる。ルポで指摘された問題点は強弱の差こそあれ多かれ少なかれ、私の病院をも含めて日本全国の病院に存在していると申してよかろう。



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 事件としてはちょっと前のことなのであるが、マスコミで量刑占いのおじいさんを最近見かけないなあということで、検索したところ、どうもこれが最後のコメントらしいというのが見つかったので。
 起訴状によると、シンザト被告は2016年4月28日夜、沖縄県うるま市の路上で会社員女性(20)を乱暴しようと、頭を背後から棒で殴ったうえ、草むらに連れ込んだ。さらに、ナイフで首などを刺して抵抗できないようにしたが、目的を遂げられないまま女性を殺害したとしている。
   シンザト被告は、那覇地裁で沖縄県民による裁判員裁判を受けることになったが、弁護人を務める弁護士が2016年7月4日、県内で記者会見を開き、管轄移転を最高裁に求めたことを明らかにした。

 この管轄移転の請求の根拠条文は刑事訴訟法17条である。
Ⅰ 検察官は、左の場合には、直近上級の裁判所に管轄移転の請求をしなければならない。
 ① 管轄裁判所が法律上の理由又は特別の事情により裁判権を行うことができないとき。
 ② 地方の民心、訴訟の状況その他の事情により裁判の公平を維持することができない虞おそれがあるとき。
Ⅱ 前項各号の場合には、被告人も管轄移転の請求をすることができる。

 実は、受験生のころ、この条文読んだとき、全く意味が分からなかった。

「裁判所が地方の民心により裁判の公平を維持することができない虞おそれがあるとき」ってどういう状況なんだ? キャリア裁判官が社会の意見になんか耳を貸すわけないじゃん。

 ツンデレが刑事訴訟法を勉強したのは鈴木茂嗣先生の教科書で、簡単に条文丸写しのこういう制度があるよっていうだけの記述だったし(というか、今から思えば、こんなところを細々と説明する教科書なんかあるはずはないのだがw)。
 で、なぜ今さらこの事件、この条文を取り上げるのかというと、弁護士になってからのことがだが、この条文は陪審制度を前提としているのではないかと思いついたからである。陪審員なら、地方の民心の影響を受けてもやむを得ない。それに対して配慮した規定じゃなかろうか。そう考えたのだ。
 いうまでもなく、現行の刑事訴訟法は、民法や民事訴訟法などと違って、戦後に新しく作り直されたものであり、そこでは戦前の大陸法系の刑事訴訟から英米法系の刑事訴訟への転換があったとされるのだが、この管轄移転の規定は、大正11年制定の刑事訴訟法16条(大正11年法律第75号「いわゆる大正刑訴」)をほぼそのまま引き継いだものであるようだ。
Ⅰ 検察官ハ左ノ場合ニ於テ直近ノ上級裁判所ニ管轄移転ノ請求ヲ為スヘシ
 ① 管轄裁判所又ハ裁判所構成法第十三条第二項ノ規定ニ依リ定メタル裁判所ニ於テ法律上ノ理由又ハ特別ノ状況ニ因リ裁判権ヲ行フコト能ハサルトキ
 ② 被告人ノ地位、地方ノ民心、訴訟ノ状況其ノ他ノ事情ニ因リ裁判ノ公平ヲ維持スルコト能ハサル虞アルトキ
Ⅱ 前項第二号ノ場合ニ於テハ被告人亦管轄移転ノ請求ヲ為スコトヲ得

 もちろん、陪審制度は英米法系に特有の制度ではなく、わが国においても戦前、陪審制度が存在したこと周知の事実である。そこで、陪審法を調べてみると、これが大正12年制定の法律であることがわかった(大正12年法律第50号)。

 おお、大正刑訴の翌年じゃん。大正刑訴のときから陪審制度の導入が決まっていたんだな。なるほどなるほど。

などと一人納得したのだが、さらに大正刑訴の前の明治刑訴を調べてみると
明治23年制定の刑事訴訟法(明治23年法律第96号。「いわゆる明治刑訴」)第34条
 犯罪ノ性質、被告人ノ身分、員数、地方ノ民心其他重大ナル事情ニ因リ裁判ニ対シ紛擾又ハ危険ヲ生する恐アルトキハ公安ノ為メ其事件ヲ同等ナル他ノ裁判所ニ移スコトヲ得

あれ?

 陪審と関係ないのかよ。ついでに調べたから書くと、明治13年公布、明治15年施行の治罪法には、管轄移転に関する規定自体が見つからなかった。
 これはどういうふうに考えたらいいのだろう?正直、現在の裁判官を見てると、地方の民心ごときで裁判官の判決に影響が出るとは考えづらいのだが(それは原発訴訟なんかをみればわかる。)。実は裁判官はナイーブなんですよということか?目玉が上の方にしかついてなさそうなのばっかりなんだがなあ。


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