南部式銃比類なき抜群の小出千之助

2018年01月11日

明治の改元の前か後か・・・

佐賀は風が強く、とても寒い一日でした。
平野部の我が家の辺りでも、朝はうっすらと雪が積もっていました。

小出千之助について調べる一日でした。

明治の改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定められました。
だから明治時代とは新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指します。

小出千之助の位牌には、明治元年9月5卒とあるので、改元以前に亡くなっているのですが、佐賀藩の英学校の学頭に任命されたのは明治元年9月11日。いずれも旧暦です。

村瀬寿代さん著の『日本のフルベッキ』には、フルベッキの大阪の旅に、小出千之助はフルベッキの使用人として同行したことがかかれています。この旅は1868年10月18日午後2時長崎出航。25日頃この旅は終わり、小出は長崎から肥前へ向かう途中で落馬し、脊柱を打ってまもなく死亡したとあります。
村瀬さんの『日本のフルベッキ』はグリフィスの『日本のフルベッキ』の翻訳で、グリフィスの日付は全て陽暦。

小出千之助が亡くなったのは、明治に改元の前なのか後なのかはっきりしません・・・

位牌の日付、間違っていることがあるのだろうか・・・

bakumatusaga at 23:00│Comments(1)

この記事へのコメント

1. Posted by ヨシダ   2018年04月20日 15:25
参考になれば幸いです、末岡様。

慶応4年8月から明治元年9月にかけて
(1868年)の年表です。

ここには、小出千之助が亡くなったのは
1868.11.
明治1.9
としか記されていませんでした。
位牌の日付(明治元年9月5日)の記載はありませんでした。
年表通りに考えると、
旧暦1868年11月に亡くなっています。
が、既に明治元年9月の5日は過ぎていて、
計算が合いません。ましてや明治元年9月11日
に佐賀藩の英学校の学頭に任命されたのであれば,ますます腑に落ちません。
亡くなった祖母から、橋の落成式典でコウモリ傘を開き、落馬が原因で亡くなったと聞いていますが、これも正直ピンと来ません。
明治維新から150年経った今、様々なことが明らかになってくることを願っています。

合掌


1868.10.4 慶應4.8.19 鍋島直彬、佐賀蟻尾山で兵を鍛錬。

1868.10.17 慶應4.9.2 フルベッキ、小出千之助と大阪へ。

1868.10.17 慶應4.9.2 井上 馨、長崎府判事兼外国官判事を免じられ、佐渡知県事になるが、長崎を離れず。

1868.10.18 慶應4.9.3 神戸で米国水夫暴行事件発生、伊藤博文処理にあたる。

1868.10.19 慶應4.9.4 大隈重信、長崎着後佐々木高行らと殺傷事件詮議の相談。

1868.10.20 慶應4.9.5 鍋島閑叟、中納言の報告のため佐賀竜造寺八幡宮と松原神社で参拝。

1868.10.21 慶應4.9.6 フルベッキ、大阪で後藤象二郎・何礼之と会う。東京に英学校が出来ることを聞く。

1868.10.23 明治1.9.8 改元

1868.10.24 明治1.9.9 フルベッキ、大阪で京都から出向いた副島種臣と会う。

1868.10.27 明治1.9.12 フルベッキ、大阪を離れて長崎帰航の途に。

1868.11.3 明治1.9.19 フルベッキ、長崎帰着。

1868.11.4 明治1.9.20 天皇、東幸。大木喬任・木戸孝允、岩倉具視随行。

1868.11. 明治1.9. 致遠館の学頭小出千之助、帰藩の途上落馬して死亡。

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