法事の昔話「佐賀に縁ある女たち」の生没グラフ

2018年02月13日

ゲランの香水ミツコ

ゲランの香水ミツコが欲しい・・・

というのは、明治維新150年記念として南里邸で開く「佐賀に縁ある女たち」で紹介する7人の女性の一人、クーデンホーフ光子と、ゲランの香水ミツコには深い関係があるからです。

ゲランは、小説『ラ・バタイユ(戦闘)』の魅力的なヒロインの日本人女性“ミツコ”から命名したと述べているそうです。
ゲランの『ミツコ』ができたのは1919年。このとき、クーデンホーフ光子は45歳です。
光子はオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理大使として赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ伯爵に見初められ、周囲の反対の中、19歳で正式な国際結婚をしました。長男・ハンス光太郎、次男・リヒャルト栄次郎の2人の子どもが東京で生れた後、夫の祖国オーストリアへ渡りました。クーデンホーフ家は広大な領地をもつ伯爵家で、一族は光子を奇異の目で見たのですが、夫は「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い放ち、光子を庇護しました。光子もこれに応え猛勉強をしました。
ところが、1906年、光子が32歳のとき、夫が心臓発作で急死したのです。以後、光子は夫の遺産を相続し、伯爵夫人として家政を取り仕切り、残された7人の子供たちの教育のため奔走し、ウィーンの社交界で注目されました。
第一次世界大戦では、オーストリアと日本は敵国として戦うことになり、光子への差別は強まりましたが、光子は赤十字社を通しての食糧供出に奔走するなど多難な時期を送りました。また、二男のリヒャルトがヨーロッパを統合する思想を持ち、ナチスから犯罪者扱いを受けるようになるのですが、このとき光子は日本政府に守られました。
リヒャルトはEUの礎を築いたので、光子は「パン・ヨーロッパの母」とも言われるようになりました。
小説『 ラ・バタイユ (戦闘) 』はフランスの小説家クロード・ファレルが、1909年に出版した小説で、この中に「ミツコ」という日本海軍提督夫人の名前が出てくるそうです。ファレルが、当時の社交界の華、クーデンホーフ・光子の名前を知っていても不思議ではないので、そこから、小説のヒロインの名前を付けたのかも知れません。

クーデンホーフ光子とゲランの香水「ミツコ」とはまことに歴史のロマンではないでしょうか?

ちなみに、ゲランのミツコについてはゲラン社のページをご覧ください。
香水ミツコです。

で、この光子さんのお父様が佐賀出身の商人で青山喜八なのです。光子は青山喜八の三女なのです。
それは、光子さんが手記の中でも語っているのだけれど、青山喜八についての調査が進みません・・・

ちなみに、私たちが欲しいゲランの香水ミツコは30mlで43200円(税込)・・・
大匙2杯分だ・・・

ゲランのミツコの香りに包まれる南里邸を創造しただけで、元気がでるのですが高すぎる・・・

bakumatusaga at 18:16│Comments(0)

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