2019年05月29日
鐘ヶ江晴朝、録子夫妻
今日は爽やかな佐賀でした。
東京青山霊園の鐘ヶ江晴朝、録子夫妻のお墓が、片付けられていた事を、教えてくださる方がありました。
鐘ヶ江晴朝は日本で最初の海水浴場を東京芝浦につくった医者です。佐賀出身の医者です。佐賀県立病院好生館で明治の初めのころ活躍した人でもあります。
録子はその妻です。晴朝亡き後、築地のカトリック教会で学び洗礼を受け、サンモール修道会に協力し、東京麹町に仏語学校をつくり、自ら校長となった人です。この学校は後の女子の名門校雙葉学園です。
夫妻の事を、私は偶然に知り、興味を持って調べ、好生館の記録や佐賀新聞にも名前を見つけました。
青山霊園の夫妻のお墓にもお参りしました。
数年前までは、佐賀ではすっかり忘れられた二人でしたが、少しだけでもまとめ、『佐賀医人伝』にも、紹介する事が出来ました。
在りし日のお墓の写真、再掲いたします。
92年3月にはしゃれた鉄の門扉と石の柵で囲まれた立派なお墓であったそうです。
私はこの写真を撮られた西村哲郎さんと一緒に、2012年10月1日にお墓を訪ねました。
修復された東京駅オープンの日だったのでよく覚えています。
お墓は無くなっても、二人の功績までは無くなりません。
『佐賀医人伝』には以下のように紹介しています。
鐘ヶ江晴朝 (?〜明治14年2月14日)
鐘ヶ江晴朝の出生年月日及び出生地は定かではないが、東京都公文書館に残る、明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」の申請者は現住所第一大区九小区惣十郎町五番地の長崎県士族鐘ヶ江晴朝で原籍は長崎県四拾大区弐小区佐賀郡点屋町五拾番地となっている。明治11年5月24日付の読売新聞によると、その広さは1万1800坪ほどとある。
この申請は受理され、明治11年9月15日、芝新濱町弐番地(現在、東京都港区芝浦一丁目)に日本初の海水浴場である芝浦海水浴場が開業した。
当時の海水浴は海水温浴の「塩湯治」「塩湯」であり、特にリウマチ治療として医学的効果を期待されていた。ポンペに師事し、後に初代陸軍軍医総監となった松本順が明治18年に開設した大磯照ヶ崎海岸海水浴場(神奈川県)が日本初の海水浴場といわることがあるが、芝浦海水浴場の開業はそれより早い。また、鐘ヶ江晴朝は、明治13年発行の「東京商人録」で、神田区佐久間町にも診療所を持っていたことが確認できる。
墓碑文には、明治2年に東京で医術を学び、明治7年に宗十郎町(現東京銀座七丁目)で開業。貧困にあえぐ患者の治療に当たっていたが、明治14年2月14日に志半ばで世を去ったとある。撰と書は友人相良頼善とある。
一方、佐賀での足跡を辿ると、明治5年に大木文部卿あてに提出された「県立好生館病院」の「医学校生徒正則其外御届出案」には小教諭鐘ヶ江晴朝、月給13円50銭とある。また県立好生館病院が月給500円で雇入れたアメリカ人医師ヨングハンスが明治6年任期満了となった時、後任にカナダ人医師スローンを見つけ出し、スローンの「医学校外国教師雇入願」を提出したのも鐘ヶ江晴朝である。佐賀藩の医学校「好生館」の教導方を務めた松隈元南の碑(明治11年6月建立、在佐賀市中の館町光圓寺)にも東京寄留者として相良知安等と並んで鐘ヶ江晴朝の名が刻まれている。これらのことにより、鐘ヶ江晴朝は、少なくとも明治4年から6年まで好生館の医師として活躍していたことがわかる。
医業免札姓名簿で幕末の佐賀藩には須古鍋島家に仕える鐘ヶ江姓の医者がいるが晴朝との関係は今のところ不明である。
芝浦海水浴場は、妻の鐘ヶ江録子に引継がれ、繁盛した。明治20年1月21日付けの佐賀新聞には、寡婦にして富有の佐賀県士族鐘ヶ江録子が東京麹町区下六番町に仏語女学校を設立したとの記事がある。この学校はカトリック系のサン・モール修道会が開いたミッションスクール、仏語女学校のことで、現在の学校法人雙葉学園の前身である。東京府庁に提出された開設願の名義人は、校長鐘ケ江録で、費用のいっさいを録が負担したようだ。
また、詩人の蒲原有明は幼少の頃、病に苦しんでいたところ、鐘ヶ江録子が経営する塩湯で養生し、録子自らの親切な介護を受け良くなったことを自伝的小説『夢は呼び交わす』の中に書いている。
明治時代には房総半島を見渡せる風光明媚な海岸であった芝浦一帯は、今は埋立地と運河が交錯し、保養地としての面影はないが、現在、この地に鐘ヶ江晴朝が開いた海水浴場があった事を知らせる説明板が設置されている。
鐘ヶ江晴朝と鐘ヶ江録子夫妻の墓は東京の青山霊園に並んで建っている。
◆出典:「日本初の海水浴場は芝浦海岸で開設」鈴木伸治、佐賀近代史年表(佐賀近代史研究会編)、有田歴史民俗資料館報『皿山』、佐賀県教育史、東京商人録、『信仰と教育と サン・モール修道会 東京百年の歩み』他
東京青山霊園の鐘ヶ江晴朝、録子夫妻のお墓が、片付けられていた事を、教えてくださる方がありました。
鐘ヶ江晴朝は日本で最初の海水浴場を東京芝浦につくった医者です。佐賀出身の医者です。佐賀県立病院好生館で明治の初めのころ活躍した人でもあります。
録子はその妻です。晴朝亡き後、築地のカトリック教会で学び洗礼を受け、サンモール修道会に協力し、東京麹町に仏語学校をつくり、自ら校長となった人です。この学校は後の女子の名門校雙葉学園です。
夫妻の事を、私は偶然に知り、興味を持って調べ、好生館の記録や佐賀新聞にも名前を見つけました。
青山霊園の夫妻のお墓にもお参りしました。
数年前までは、佐賀ではすっかり忘れられた二人でしたが、少しだけでもまとめ、『佐賀医人伝』にも、紹介する事が出来ました。
在りし日のお墓の写真、再掲いたします。
92年3月にはしゃれた鉄の門扉と石の柵で囲まれた立派なお墓であったそうです。
私はこの写真を撮られた西村哲郎さんと一緒に、2012年10月1日にお墓を訪ねました。
修復された東京駅オープンの日だったのでよく覚えています。
お墓は無くなっても、二人の功績までは無くなりません。
『佐賀医人伝』には以下のように紹介しています。
鐘ヶ江晴朝 (?〜明治14年2月14日)
鐘ヶ江晴朝の出生年月日及び出生地は定かではないが、東京都公文書館に残る、明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」の申請者は現住所第一大区九小区惣十郎町五番地の長崎県士族鐘ヶ江晴朝で原籍は長崎県四拾大区弐小区佐賀郡点屋町五拾番地となっている。明治11年5月24日付の読売新聞によると、その広さは1万1800坪ほどとある。
この申請は受理され、明治11年9月15日、芝新濱町弐番地(現在、東京都港区芝浦一丁目)に日本初の海水浴場である芝浦海水浴場が開業した。
当時の海水浴は海水温浴の「塩湯治」「塩湯」であり、特にリウマチ治療として医学的効果を期待されていた。ポンペに師事し、後に初代陸軍軍医総監となった松本順が明治18年に開設した大磯照ヶ崎海岸海水浴場(神奈川県)が日本初の海水浴場といわることがあるが、芝浦海水浴場の開業はそれより早い。また、鐘ヶ江晴朝は、明治13年発行の「東京商人録」で、神田区佐久間町にも診療所を持っていたことが確認できる。
墓碑文には、明治2年に東京で医術を学び、明治7年に宗十郎町(現東京銀座七丁目)で開業。貧困にあえぐ患者の治療に当たっていたが、明治14年2月14日に志半ばで世を去ったとある。撰と書は友人相良頼善とある。
一方、佐賀での足跡を辿ると、明治5年に大木文部卿あてに提出された「県立好生館病院」の「医学校生徒正則其外御届出案」には小教諭鐘ヶ江晴朝、月給13円50銭とある。また県立好生館病院が月給500円で雇入れたアメリカ人医師ヨングハンスが明治6年任期満了となった時、後任にカナダ人医師スローンを見つけ出し、スローンの「医学校外国教師雇入願」を提出したのも鐘ヶ江晴朝である。佐賀藩の医学校「好生館」の教導方を務めた松隈元南の碑(明治11年6月建立、在佐賀市中の館町光圓寺)にも東京寄留者として相良知安等と並んで鐘ヶ江晴朝の名が刻まれている。これらのことにより、鐘ヶ江晴朝は、少なくとも明治4年から6年まで好生館の医師として活躍していたことがわかる。
医業免札姓名簿で幕末の佐賀藩には須古鍋島家に仕える鐘ヶ江姓の医者がいるが晴朝との関係は今のところ不明である。
芝浦海水浴場は、妻の鐘ヶ江録子に引継がれ、繁盛した。明治20年1月21日付けの佐賀新聞には、寡婦にして富有の佐賀県士族鐘ヶ江録子が東京麹町区下六番町に仏語女学校を設立したとの記事がある。この学校はカトリック系のサン・モール修道会が開いたミッションスクール、仏語女学校のことで、現在の学校法人雙葉学園の前身である。東京府庁に提出された開設願の名義人は、校長鐘ケ江録で、費用のいっさいを録が負担したようだ。
また、詩人の蒲原有明は幼少の頃、病に苦しんでいたところ、鐘ヶ江録子が経営する塩湯で養生し、録子自らの親切な介護を受け良くなったことを自伝的小説『夢は呼び交わす』の中に書いている。
明治時代には房総半島を見渡せる風光明媚な海岸であった芝浦一帯は、今は埋立地と運河が交錯し、保養地としての面影はないが、現在、この地に鐘ヶ江晴朝が開いた海水浴場があった事を知らせる説明板が設置されている。
鐘ヶ江晴朝と鐘ヶ江録子夫妻の墓は東京の青山霊園に並んで建っている。
◆出典:「日本初の海水浴場は芝浦海岸で開設」鈴木伸治、佐賀近代史年表(佐賀近代史研究会編)、有田歴史民俗資料館報『皿山』、佐賀県教育史、東京商人録、『信仰と教育と サン・モール修道会 東京百年の歩み』他
bakumatusaga at 23:30│Comments(0)│