4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

ショーン・アレキサンダー ~大切な仲間~

0977ハイスクールで3年間通算6657ヤード、110TDという虚位的な成績を残し、多くの大学からオファーを受けたアレキサンダーだったが、兄がブラスバンドをしているノートルダム大学と最後まで悩んだ末に、温暖な気候を理由にアラバマ大学に進学した。

大学でもハイズマン賞候補に選ばれるなど素晴らしい成績を残し、2000年に全体19位でシアトル・シーホークスに入団した。

1年目はリッキー・ワターズの控えとしてプレーし、313ヤードしか走れなかったものの、翌シーズンワターズが引退すると正RBとなり、1318ヤード、リーグトップの14ラッシングTDを記録。オークランド・レイダーズ戦ではチームレコードの226ヤードを走るなど、一躍シーホークスオフェンスの中心に上り詰めた。

その後もシーホークスが誇る強力ラインに守られて好成績を上げ、2003年にはプロボウルに初選出された。

続く2004年にはニューイングランド・ペイトリオッツのカーチス・マーチンとリーディングラッシャー争いを展開し、最終戦を前にしてマイク・ホルムグレンHCにボールキャリーの機会を増やしてくれるように直訴したが却下され、惜しくも1ヤード差で敗れた。

これで発奮したのか、2005年はリーグトップの1880ヤード、NFL記録の27ラッシングTDを記録し、MVPに選出。チームのスーパーボウル進出の原動力となった。

オフにRB史上最高額となる8年6200万ドルの契約を結び、マッデンNFLのカバーに選ばれるなどバラ色のオフを過ごしたが、プロボウラーOGのスティーブ・ハッチソンの移籍でラインが弱体化したこともあってか開幕3試合目で左足を骨折。戦線を離脱した。

結句よくこのシーズンは896ヤード、7TDと先発定着以来自己最悪の成績に終わり、マッデンの呪いに引っかかった形となった。

0978翌シーズンはセンターのロビー・トベックが引退。ラインがさらに弱体化し、開幕戦にアレキサンダー自身も左手首を骨折。前年よりさらに成績を落とし、翌シーズン開幕前にシーホークスを解雇された。

同年10月にワシントン・レッドスキンズと契約したものの、全盛期の姿は見る影もなく、そのまま解雇され、現在に至るまで移籍先を探しているが、契約には至っていない。

ラインが弱体化するにつれて成績を落としていくアレキサンダーの姿は、ラインがいかに大切かを教えてくれた気がする。

ケン・グリフィー.Jr ~Super .Jr~

097370年代を代表する名手ケン・グリフィー.Srの息子としてスタン・ミュージアルと同じ町、同じ誕生日で生まれ、タフィー・ローズと家族ぐるみの付き合いがあったというジュニアだが、苦悩の多い少年時代を過ごした。

ハイスクールでは野球とフットボールで活躍したが、黒人であること、二世選手であることに負い目を感じ、薬物自殺を図ったことすらあったという。

1987年に全体1位でシアトル・マリナーズに入団。1989年にメジャーデビューし、そのままセンターのレギュラーに定着。打率.264、16HR、61打点を記録し、新人王投票で3位につけた。

翌シーズンには打率3割を記録し、ゴールドグラブ賞とオールスターに選出。さらに父シニアがマリナーズに加入。親子でチームメイトとなるのはグリフィー親子が初であった。

その後も華麗な守備とたぐいまれな長打力でファンを魅了し、短縮シーズンとなった1994年には60試合で30本という驚異的ペ200ースでHRを量産し、最終的に111試合で40HRを放ち、HR王を獲得した。

翌シーズン開幕直後、試合中に外野フェンスに激突してチームを離脱。8月に復帰したものの72試合で17HRと自己最低の成績に終わったが、翌シーズンは49HRを放って復活。さらに1997年シーズンは56HR、147打点で二冠王となり、MVPも獲得。

その後3年連連続でHR王を獲得。1999年オフに8年1億3500万ドルの契約を提示されたものの、家族と過ごす時間がほしいのを理由にトレードを志願。その後引き取り手を探すのに手間取ったものの、最終的にシニアが全盛期を過ごしたシンシナティ・レッズに移籍した。

しかし、レッズ入団を機に衰えが始まり、ゴールドグラブ賞受賞が10年連続でストップ。2001年にはオールスター連続選出も11年で止まった。

2002年には肩の脱臼で53試合しか出場できず、40本を当たり前に打った全盛期は見る影もないほど衰えてしまった。

2004年には復調し、オールスターに選出されたものの、直前になって右足を故障。その後故障はさらに悪化し、オフには右足に3本もボルトを埋め込む大手術を行った。

その影響か翌シーズンも開幕直後は不調だったが、徐々に調子を上げていきHRを量産。打率.301、35HRと全盛期並の成績を残し、カムバック賞を受賞した。

翌シーズンはWBCのアメリカ代表に選出。打率.524、3HR,10打点の大暴れを見せたものの、チームは優勝を逃した。

09742006年のオフにバハマで手首を故障。その影響もあって長年守ってきたセンターを若手に譲り、ライトに転向した。

2008年シーズン途中にシカゴ・ホワイトソックスにトレード。さらにオフに古巣マリナーズへ復帰。ライトにはイチローがいたため、今度はDHに転じた。

そのせいもあってかイチローには最初傲慢な態度で接したが、やがて打ち解けて親友となった。

復帰1年目はそれなりの成績を残したものの、続く2010年には33試合しか出場できず、同年限りで現役を引退。引退試合は親友イチローがサヨナラヒットで花を添えた。現在はマリナーズのフロント職に就いている。

マリナーズ史上最高の選手に選ばれ、現在は歴代5位の630HRは言うに及ばず、あらゆる面でビッグな男だった。

Akihiro N.様フォロー記念

いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。

最近生活環境の変化で更新がほとんどできていませんが、どうかご勘弁願います。


様がフォローしてくださいましたので特集を組みます。

NFLとMLBの選手を紹介予定ですのでどうぞお楽しみに

バリー・サンダース ~雷神~

0970ハイスクールではそれなりの活躍をしたものの、小柄だったことからあまり奨学金のオファーを得ることができなかったサンダースは、数少ないオファーの中からオクラホマ州立大学を選び、入学した。

当初はサーマン・トーマスの控えであったが、トーマスがプロ入りした1988年に先発に定着すると、NCAA記録となる2850ヤード、42TDというとてつもない成績を残し、トロイ・エイクマンを抑えてハイズマン賞を受賞。同年全体3位でデトロイト・ライオンズに入団した。

ライオンズは当初ディオン・サンダースの指名を検討していたが、デトロイトでのプレーを嫌がっていたディオンは拒否を考えており、ウェイン・フォンテスHCの進言もあってばりーを指名した。

とはいえ天然芝のフィールドでは活躍できないのではという懸念があり、さらに契約が遅れてキャンプに参加できなかったが、サンダースのポテンシャルは群を抜いていた。

身長173センチにもかかわらず体重が93キロあるのは足が異常なまでに太いせいで、重心が低く、爆発的な加速力とクイックネスでフィールドを疾走。シーズン通して1470ヤード、14TDを走る大活躍で新人王を獲得。プロボウルとオールプロにも選ばれた。

翌1990年シーズンには1304ヤードを走ってリーディングラッシャーとなり、1991年には16TDで最多TDを記録。フランチャイズレコードの12勝を挙げて地区優勝を達成し、弱小ライオンズを一躍プレーオフの常連に仕立て上げた。

脆弱なライオンズラインを問題とせず、一人の力で距離を稼いでしまうサンダースはライオンズにとってかけがえのない宝であり、サンダースなしでは90年代前半のライオンズは成り立たなかったといってもいい。

0969その後しばらく低迷したものの、1994年には1883ヤードを走ってリーディングラッシャーとなり復活。最優秀攻撃選手に選ばれた。

その後4年連続で1500ヤードを走る快挙を達成し、特に1997年には歴代3位の2053ヤードを走り、ブレット・ファーブとともにMVPを受賞。90年代最高のRBの名を不動のものとした。

しかし、この頃から練習や勝利への意欲を巡ってチームと対立するようになり、1998年に1491ヤード、4TDと自己最低の成績に終わると、翌シーズン開幕前に引退を表明。ウォルター・ペイトンの持つラッシングヤード記録に1500ヤードまで迫っての引退であった。

まだ4年も契約が残っていたため、サラリーの一部を巡って球団と裁判沙汰となり、550万ドルの支払いを命じられるなど、晩節を汚す形になってしまったのが悔やまれる。

だが選手としての実績はずば抜けており、15269ラッシングヤードは歴代3位、1試合当たり99.8ラッシングヤードは2位となっており、2004年には殿堂入りを果たしている。

デトロイトのスピードスターサンダース。背番号20はライオンズの永久欠番である。

マーシャル・フォーク ~羊馬~

0971ニューオーリンズで生まれたフォークは、サンディエゴ州立大学で1429ラッシングヤードの1年生記録を樹立。オールアメリカンに3回選ばれ、NCAA歴代8位となる通算62TDを記録。1994年に全体2位dえインディアナポリス・コルツに入団した。

1年目からたぐいまれなスピードとレシーブ能力を披露し、1282ラッシングヤード、52レシーブで522ヤードを記録。攻撃新人王とプロボウルMVPを同時に獲得する快挙を達成した。

翌シーズンも1078ヤードを走る活躍を見せたが、プレーオフで首を故障。AFCチャンピオンシップゲームを欠場し、ランオフェンスの要を欠いたコルツはピッツバーグ・スティーラーズに敗れた。

翌シーズンはかかとの故障で13試合、587ラッシングヤードと不本意な成績に終わったものの、1997年シーズンには復活。続く1998年シーズンには1319ラッシングヤード、86レシーブ、908ヤードでリーグトップの計2227ヤードを記録した。

しかし、若返りを図るチーム方針の影響で翌シーズン開幕前にセントルイス・ラムズへトレード。本人いわく"何かの誤解"というほど衝撃的なトレードであった。

7年4520万ドルというラムズ史上最高額の契約を結んで迎えたシーズン、カート・ワーナーとともにラムズ大躍進の両輪となり、1381ラッシングヤード、RBの最高記録となる1048レシービングヤードの計2429ヤードでNFL記録を更新。スーパーボウル制覇の原動力となった。

0972翌シーズンは故障で2試合欠場したにもかかわらず、リーグトップの18TDラン、8TDレシーブでNFL記録の計26TDを記録し、MVPを受賞。2001年シーズンもワーナーに次ぐ2位の得票を得て、ラムズ黄金時代の象徴となった。

しかし、その後は故障と年齢から衰えが激しくなり、2006年にはシーズンを全休して解説者として活動。結局復帰することはなく、2007年に引退を表明した。

通算19154ヤードは歴代4位であり、10000ラッシングヤード、5000レシービングヤードは他にマーカス・アレンとティキ・バーバーしか達成していない。

背番号28はラムズの永久欠番となり2011年には殿堂入りを果たしている。
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