4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

2011年03月

チャック・デイリー ~曲者の長~

ペンシルバニア州に生まれ、1952年にブルームズバーグ大学を卒業したデイリーだったが、NBAでのプレー経験はない。

 

10119955年にパンクスタウニー高校のHCとなり、8年で通算11170敗の成績を残した。

 

1963年に名門デューク大学のアシスタントコーチになって結果を残すと、1969年にボストン大学のHCに就任。まずまずの成績を残し、1971年にペンシルバニア大学のHCに就任した。

 

ペン大で本領を発揮し、就任から4年連続でアイビー・リーグ優勝を達成。

 

6年で12538敗の好成績を残し、1978年にフィラデルフア・76ersのアシスタントコーチに就任し、NBAの世界に足を踏み入れた。

 

1981年にクリーブランド・キャバリアーズのHCに就任したものの、開幕41試合で931敗と散々の成績に終わり、解任。

 

その後は解説者を務めていたが、1983-1984シーズンにデトロイト・ピストンズのHCに就任した。

 

ピストンズはNBA最古の歴史を誇りながらそれまで1回も2年続けて勝ち越したことがないという弱小球団だったが、デイリー就任1年目からいきなり4933敗で地区2位とし、プレーオフに進出。

 

凶暴さで知られ、“バッド・ボーイズ”と呼ばれた曲者たちをデイリーは上手くまとめあげ、9年連続で勝ち越してプレーオフに進出。1987-1988シーズンから3年連続でNBAファイナルに進出し、19891990シーズンとファイナル連覇を達成。ピストンズをリーグ屈指の強豪へと育て上げた。

 

1992年にはバルセロナオリンピックアメリカ代表、いわゆる“ドリームチーム”の監督に抜擢。スター中のスターばかり12人をまとめられるのは、荒くれ者揃いのピストンズを操るデイリー以外にないというのが抜擢の理由であった。

 

0120前評判の通り、ドリームチームは圧倒的強さで見事金メダルを獲得。デイリーは大役を無事果たした。

 

1993年からニュージャージー・ネッツのHCに就任・2年でチームをプレーオフに進出できるまでに育て上げたが、1993-1994シーズンを持ってコーチ業をいったん引退。

 

1997年にオーランド・マジックのHCに就任し、チーム立て直しに成功。1998-1999シーズンを持って勇退した。

 

1997年にはNBAの偉大なコーチ10人に選出されている。

 

NBAでは選手経験はないが、ピストンズはファイナルの制覇回数にちなみ、背番号“2”をデイリーの永久欠番としている。

 

200959日、曲者達をまとめ続けた名将デイリーはこの世を去った。78歳であった。

ジョン・ルクレア ~Johnny Vermont~

バーモンドの田舎町に生まれ、ニューイングランドでも有数の選手として知られていたルクレアは、1987年に全体33位でモントリオール・カナディアンズに指名された。

 

0102バーモンド大学に進学したため、入団は1990-1991シーズンの終盤になったが、徐々に才能を開花させ、1992-1993シーズンには19ゴール、25アシストを記録し、チームはプレーオフに進出。

 

プレーオフではリーグ最多の3決勝ゴールを決めた。特にファイナルではオーバータイムに決勝ゴールを決める活躍で、チームのスタンレー・カップ獲得に大きく貢献した。

 

その後も安定して活躍したが、1994-1995シーズン途中にフィラデルフィア・フライヤーズに移籍。

 

すぐにチームになじみ、移籍1年目にわずか37試合で25ゴール、49ポイントを稼ぎ、本格的に才能を開花させた。

 

その後もミカエル・レンバーグ、ロド・ブリンダとともにリーグ屈指のフォワードラインを結成し、その圧倒的な得点力と存在感でNHLを震え上がらせた。

 

1995-1996シーズンにはキャリアハイとなる51ゴール、97ポイントを記録し、オールスターに初選出。

 

1996-1997シーズンも50ゴールを記録するとともに、出場時の得失点差を現すプラス・マイナス統計でリーグ最高の+44を記録し、NHLプラス・マイナス賞を受賞。

 

01031997-1998シーズンも51ゴールを記録し、アメリカ人として始めて3年連続で50ゴールという金字塔を打ち立てた。

 

その後も2年連続で40ゴールを記録し、フライヤーズに無くてはならない重要な得点源としてチーム歴代5位となる通算333ゴールを記録したが、ロックアウト後導入されたサラリーキャップの影響で放出され、ピッツバーグ・ペンギンズに移籍。

 

1年目の2005-2006シーズンは22ゴール、51ポイントとまずまずの活躍をしたものの、翌2006-2007シーズン途中に解雇され、そのまま引退した。現在は運送会社を経営している。

 

アメリカ一の点取り屋、ジョン・ルクレア。2009年にアメリカホッケー殿堂入りを果たしている。

ジム・リーランド ~名監督、名選手ならず~

日本でプロ野球の監督と言えば、名選手でないと納得されない風潮がある。現役時代地味だった人物が監督になると文句を言う人間が少なからずいる。

 

0111MLBではそんなことはない。メジャー経験のない監督も多く、むしろ名選手が監督になって成功した例の方が少ないくらいである。

 

ジム・リーランドはまさにMLBならではの監督と言えよう。名選手どころか、マイナーでも三流選手だったのだから。

 

1963年に捕手としてデトロイト・タイガースと契約したリーランド。マイナーで6年間過ごしたが2Aが最高で、その間の通算打率はなんと.222である。

 

成績はともかく野球理論は一流だったリーランドは、引退後すぐにタイガース傘下のマイナーのコーチに就任した。

 

1971年に26歳の若さでマイナーの監督となり、以後11年マイナーで指揮を執り、ポストシーズン進出は6回、地区優勝3回を数えるマイナーの名将となった。

 

1982年、トニー・ラルーサ率いるシカゴ・ホワイトソックスのサードベースコーチに就任。ラルーサのもとで監督としての人心掌握術を学んだという。

 

1985年、弱小球団だったピッツバーグ・パイレーツの監督に就任。ラルーサ譲りの人心掌握術を誇るリーランドのもとでバリー・ボンズ、ボビー・ボニーヤ、ティム・ウェイクフィールド、ジェイ・ベルら多くの名選手が育っていった。

 

好物のタバコをくゆらせながら指揮を執るリーランドのもと、パイレーツの成績はだんだん上昇していき、19909192年と3年連続で地区優勝を達成。1990年、1992年の最優秀監督賞を受賞した。

 

1996年に創設まもないフロリダ・マーリンズの監督に就任。1年目からいきなりワイルドカードでプレーオフに出場。ワールドシリーズを制覇し、チームにとってもリーランドにとっても初の世界一を果たした。

 

しかし、マーリンズ名物の世界一後の主力の放出の影響で1998年シーズンは54108敗に終わり、責任を取って退任。

 

0112翌シーズンはコロラド・ロッキーズの監督に就任したものの、すっかりモチベーションを失ってしまい、3年契約を2年残して1年限りで退任した。

 

その後はセントルイス・カージナルスのスカウトを務めていたが、2006年に古巣タイガースの監督に就任した。

 

タイガースは強豪だった往時の面影はなく、弱小球団になり下がっていたが、リーランドはチームにはびこった負け犬根性を叩き直した


その効果は1年目から現れ、タイガースは開幕から台風の目となり快進撃を続け、ワイルドカードでプレーオフに出場。

 

プレーオフでも新生タイガースの勢いは止まらず、ヤンキースを31敗、アスレチックスを4連勝で下し、ワールドシリーズに出場。カージナルスに14敗で敗れたものの、リーランド自身は最優秀監督に選ばれた。

 

その後も現在に至るまでタイガースの指揮を執っているが、今一つ乗りきれないシーズンが続いている。

 

何とかワールドシリーズを制覇し、両リーグ制覇を果たしてもらいたいものである。

クラレンス・ウェザースプーン ~Baby Barkley~

サザン・ミシシッピ大学で素晴らしいPFとして活躍したウェザースプーン。3年連続でオールカンファレンスに選ばれ、1991年にはNCAAトーナメントに出場。スポーツ・イラストレイテッドに5ページの特集が組まれるなど、大いに注目された。

 

0106平均1805得点、大学レコードとなる11.3リバウンドを記録。背番号“35”はサザン・ミシシッピ大の永久欠番である

 

1992年にドラフト全体9位でフィラデルフィア・76ersに入団。“メトロ・カンファレンスのチャールズ・バークレー”と呼ばれ、ドラフト直後に放出されたバークレーの後釜として大いに期待された。

 

ウェザースプーンは期待に見事にこたえ、1年目から平均15.6得点、チームトップの7.2リバウンドを記録し、オールルーキーのセカンドチームに選ばれた。

 

アグレッシブでリバウンドの技術に長け、少し小柄なPFというところまでバークレーとよく似ているウェザースプーンは、いつしか“ベビー・バークレー”と呼ばれるようになった。

 

キャリアハイは2年目の1993-1994シーズンで、82試合にフル出場し、チームトップの平均18.4得点、10.1リバウンドを記録。

 

特筆すべきはその安定感で、82試合中80試合で2ケタ得点、ダブルダブルを46回、トリプルダブルも達成と、毎試合安定して成績を残し続けた。

 

1994-1995年にPFからSFにコンバート。そのせいか平均18.1得点を記録したものの、自慢のリバウンドはわずか6.9に終わり、チームもわずか24勝しかできなかった。

 

01071995-1996シーズンにはジェリー・スタックハウスが入団し、平均19.2得点を記録。対してウェザースプーンは16.7得点で得点力では負けてしまったが、ダブルダブルと20得点を30試合ずつ記録し、安定感でスタックハウスをしのぐものがあった。

 

1996-1997シーズンにはアレン・アイバーソンが入団。ウェザースプーンの価値はさらに低下し、そのせいか12.2得点、8.3リバウンドと不調に終わった。

 

1997-1998シーズンにはトレードを巡ってチームと対立。シーズン途中にゴールデンステート・ウォリアーズに移籍。わずか9.3得点に終わった。

 

このまま終わっていくかに見えたウェザースプーンだったが、シーズン終了後にFAでマイアミ・ヒートに移籍すると、自己最高のFG成功率.534を記録し、チームに無くてはならないシックスマンとして復活。初のプレーオフにも進出した。

 

その後、クリーブランド・キャバリアーズ、ニューヨーク・ニックス、ヒューストン・ロケッツと渡り歩き、2004-2005シーズンを持って引退。

 

けんか別れしてしまった76ersだが、76ersで記録した6867得点は90年代のチーム記録である。

ダリル・シドア ~Sid in Dallas~

0109WHLで素晴らしい成績を残し、1990年に全体7位でロサンゼルス・キングスに指名されたシドアだが、2年間WHLに残り、キングスに加入したのは1991-1992シーズン終盤であった。

 

1992-1993シーズンはフルに出場。6ゴール、23アシストとまずまずの成績を残し、プレーオフに出場。プレーオフでは23試合で3ゴール、8アシストの成績を残し、ファイナルまで進出したが、モントリオール・カナディアンズに敗れ、スタンレー・カップ獲得はならなかった。

 

その後もキングスは強豪として名をはせたが、カップを獲得できず、シドアも1995-1996シーズン途中にダラス・スターズへトレードされた。

 

ダラスで本格的に全盛期を迎え、1996-1997シーズンには82試合にフル出場し、自己最高の40アシスト、48ポイントを記録。プレーオフにも進出した。

 

その後もデリアン・ハッチャー、セルゲイ・ズボブらとともにスターズの強力ディフェンス陣の一角を担い、1997-1998シーズンは11ゴール、35アシストでオールスターに初選出。

 

1998-1999には14ゴール、34アシストの好成績でプレーオフに進出。3ゴール、9アシストの好成績でついにスタンレー・カップを手にした。

 

01101999-2000シーズンもプレーオフファイナルに進出。連覇を狙ったが、ニュージャージー・デビルスに敗れた。

 

その後は少しずつ成績を落としていき、2003-2004シーズンはコロンバス・ブルージャケッツに移籍。さらにシーズン途中にタンパベイ・ライトニングに移籍。

 

ライトニングではプレーオフに進出。見事ファイナルを制し、2回目のスタンレー・カップを手にした。

 

2006-2007シーズンはスターズに復帰。シーズン終了後にFAでピッツバーグ・ペンギンズに移籍したが、2008-2009シーズン途中に三度スターズに移籍。

 

2009-2010はセントルイス・ブルースに移籍し、7番目のディフェンスマンとして活躍。そのまま引退した。

 

移籍はプロスポーツの常とはいえ、3回も同じチームに移籍したのはこのシドアくらいだろう。

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