4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

2011年09月

ポール・リンドブラッド ~9人目~

0615ピッチャーはよく9人目の野手と呼ばれる。打撃について使われることが多い言葉だが、これは守備においてもそうである。ピッチャーはキャッチャーを除けば一番バッターに近い位置、それも真正面に居るのだ。

 

1962年にカンザスシティ・アスレチックスと契約した論度ブラッドは、1965年にメジャーデビュー。1年目は防御率11.05と散々だったが、翌1966年は14先発で510敗、防御率4.17とまずまずの成績を残した。

 

翌シーズンも10試合に先発したがしっくりこず、用シーズンからリリーフに配置転換。これが功を奏した。

 

いわゆる左殺しとして毎シーズン50試合前後の登板をこなす頑丈な投手であったが、その最大の売りは守備で、388試合連続失策なしのMLB記録を保持している。

 

1969年には60試合に登板し、防御率4.14ながら969セーブを記録した。

 

1972年にはリーグ最多の66試合に登板。1973年にはニューヨーク・メッツを迎え撃ってワールドシリーズに進出し、3試合に登板し世界一に貢献した。

 

特に第3戦ではリリーフとして910回をパーフェクトピットングで抑え込み、勝ち投手に。さらに同年限りでバットを置いたウィリー・メイズの最後の打席の相手を務めた。

 

06161971年シーズン途中にワシントン・セネターズにトレード。チームがテキサス・レmmジャーズに変わった翌シーズン終了後にアスレチックスに出戻った。

 

さらに1977年にレンジャーズに戻り、翌シーズン途中に今度はニューヨーク・ヤンキースに移籍。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズで1試合に登板し、2度目の世界一の栄誉を手に入れた。

 

これを花道に現役を引退。引退後はマイナーでコーチを務めていたが、2006年に64歳でこの世を去った。

 

左投手として歴代7位となる655試合に登板。しかしエラーは14年の現役生活でわずか6つだけであった。

グレッグ・ミレン ~Igloo~

06131977年にドラフト102位でピッツバーグ・ペンギンズに入団したミレンは、1978-1979シーズンにNHLデビューを果たした。

 

徐々に出場機会を増やし、1980-1981シーズンは正ゴーリーとして63試合に出場。25勝を記録するものの、リーグ最多敗の27敗を喫してしまった。

 

1981-1982シーズンからハートフォード・ホエーラーズに移籍。55試合で1130敗と大きく成績をおと知ったが、”Igloo(イヌイットの氷の家のこと)”と呼ばれ、ホエーラーズの重要な戦力であった。

 

1982-1983シーズンには最多敗の38敗を記録。防御率が4.81と悪いというのもあったが、そもそも他の選手も成績が悪いので、ミレンのせいばかりではない。

 

セーブとプレイタイムが公式記録となった1983-1984シーズン、いずれもリーグ最多の60試合、1596セーブ、3583分出場を記録。成績は2130敗であった。

 

翌シーズン途中にセントルイス・ブルースにトレード。チームをまたいで29敗の最多敗を喫した。

 

ブルースでは防御率を3点台半ばで安定させ、1987-1988シーズンには10年目にして2119敗と初めて勝ち越した。

 

0614翌シーズンも2220敗と勝ち越し、ようやく安定感が出始めたと思いきや、1989-1990シーズン途中にケベック・ノルディクス、シカゴ・ブラックホークスと渡り歩き、シーズン通じて1925敗と再び負け越した。

 

1990-1991シーズンは3試合の出場に終わり、翌シーズンはデトロイト・レッドウィングスに移籍。10試合の出場ながら32敗と勝ち越し、同年限りで現役を引退した。

 

通算215284敗と、実に69も負け越している。しかし、それだけ負け越してもチームに必要とされたのである。

 

かけがえのない男、ミレン。現在は解説者を務めている。

ボン・ヘイズ ~Purple Hayes~

0611セントメリー大学から1979年にドラフト7巡目でクリーブランド・インディアンスに入団したヘイズは、1981年にはメジャーデビューを果たした。

 

新人王資格を残してのぞんだ 1982年、ライトのレギュラーを獲得し、打率.25014HR,82打点、32盗塁を記録。新人王投票で8位につけた。

 

当然期待されていたが、シーズン終了後に5人もの選手とのトレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍した。この交換相手の一人が、フリオ・フランコである。

 

フィリーズでも外野のポジションを確保し、俊足巧打の外野手として活躍。1984年には自己最高の42盗塁を記録した。

 

1985611日のニューヨーク・メッツ戦、1番レフトで先発したヘイズは1回の裏に2本塁打を放ち、第1回に2HRというMLB新記録を打ち立てた。

 

1986年にはセンターからファーストにコンバート。この年HR王、打点王、MVPを獲得したシュミットの前の3番を打ち、キャリアハイの打率.30519HR98打点、24盗塁を記録。107得点、46二塁打はリーグ最多で、MVP投票では8位につけた。

 

自分の名前に引っ掛けて” Purple Haze”BGMに登場し、バッターボックスの端から端まで目一杯足を広げて快打を放つヘイズは、間違いなくシュミットと並ぶフィリーズの打の顔であった。

 

06121989年には再び外野に戻り、4月の月間MVPを受賞。オールスターに選出。代打でレフト前ヒットを放ち、1打点を記録した。

 

1989年はメッツのレニー・ダイクストラとのトレードのうわさも浮上したが、ダイクストラは結局他の選手との交換でフィリーズに移籍。ヘイズの心配は杞憂に終わった。

 

その後、1991年にデッドボールで腕を故障。これ以降満足にプレーできなくなり、1992年にカリフォルニア・エンゼルスに移籍。同年限りで現役を引退した。

 

引退後はマイナーや独立リーグで監督を歴任。現在は独立リーグで監督を務めている。

ドワイト・スティーブンソン ~Big Wave~

0609アラバマ大学で活躍し、名将ポール・ブライアントをして今までに指導した最高の選手とまで言わしめたスティーブンソンは、1980年にドラフト2巡目でマイアミ・ドルフィンズに入団した。

 

身長188センチとラインマンとしては小さく、入団当初はスペシャルチームでの出場で会ったが、徐々に先発の機会を増やし、ダン・マリーノが入団した1983年に全試合に先発。QBレーティングの新人記録を作ったマリーノを守り切り、プロボウルに出場を果たした。

 

オフェンスチームのキャプテンとしてリーダーシップを発揮し、スティーブンソンを中心としたドルフィンズライン陣は1982年から1987年までサック数をリーグ最少に抑え込んだ。

 

1984年、スティーブンソンに守られたマリーノはパスに関する6つのNFL記録を塗り替え、チームをスーパーボウルに導き、ススティーブンソンはプロボウルとオールプロに選出された。

 

プロボウルに5年連続、オールプロに4年連続で選ばれ、1983年から1985年にかけて地区3連覇を達成。さらに人徳とチャリティーでの功績を認められ、1985年にはウォルター・ペイトン賞を受賞。NFL最高のセンターの座を不動のものとした。

 

0610しかし、1987年に9試合の出場に終わり、プレーオフ進出を逃すと引退を表明。プロボウルを花道に現役を引退した。

 

スティーブンソン亡き後も最小サック数の記録は続き、1990年まで9年連続の最小サックはNFL記録である。

 

引退後もチャリティーに熱心で、2005年にはそれを認められてウォルター・キャンプ賞を受賞している。

 

1998年にプロフットボール殿堂入り。スティーブンソンが守ったマリーノの通算61361パッシングヤードはブレット・ファーブに抜かれるまでNFL記録であった。

 

マリーノをを敵の手から守り続けたスティーブンソン。彼なくしてマリーノの活躍はない。

オーランド・ウーリッジ ~Pre Jordan~

0608マイケル・ジョーダン登場以前のブルズは、1970年代はなかなかの強豪だったものの、1980年代はたまにプレーオフに進出する程度のドアマットチームであった。

 

では、そのドアマット時代を支えたのは誰だったか。今回の主人公、オーランド・ウーリッジである。

 

ノートルダム大学で活躍し、19801981年ともにNCAAトーナメントに出場。オールアメリカンに選ばれたウーリッジは、1981年に全体6位でブルズに入団した。

 

1年目から75試合に出場し、平均16.6得点、6.9リバウンド、2.5アシストの好成績を記録。ウーリッジの活躍は34勝に終わったブルズの数少ない明るい話題であった。

 

身長206センチのビッグマンであったが身体能力が高く、その巨体に見合わないスピードを持ち、ダンクはNBAでも随一の名人であった。

 

その後平均20得点、5リバウンドを計算できるブルズのリーダーとして飛躍を期待されたが、1984年に転機が訪れる。

 

1983-1984シーズンを28勝というボロボロの成績で終え、全体3位の指名権を得たブルズは、アキーム・オラジュワン、サム・ボウイらプロスペクトがひしめくドラフトで、マイケル・ジョーダンを指名した。

 

大学ではさほど目立つ存在ではなかったジョーダンだが、ルーキーイヤーにして全試合に先発し、平均28.2得点と言う驚異的な成績をマーク。平均22.9得点を稼いだウーリッジの活躍はかすんでしまった。

 

翌シーズン、ジョーダンが故障している間にウーリッジは20.7得点を稼いだものの、シーズン終了後にニュージャージー・ネッツにトレード。ジョーダンを中心にチームを作り直すためであった。

 

追い出されるようにしてネッツに放出されたウーリッジは精彩を欠き、ネッツでの2シーズンはいずれも平均20得点を割り込み、さらに1987-1988シーズンは薬物問題もあり、19試合しか出場できなかった。

 

1988-1989シーズンからFAでロサンゼルス・レイカーズに加入。マジック・ジョンソンのアシスト役として渋い働きを見せ、シックスマンとして復活を果たした。

 

06071990-1991シーズンにデンバー・ナゲッツに加入。スターターに返り咲き、驚異的ペースで得点を量産。得点王ペースの平均25.1得点をマークしていたが、故障でリタイヤし、53試合の出場にとどまり、チームはウーリッジの活躍むなしく弱いままであった。

 

その後は徐々に成績を落とし、1992-1993シーズンにはデトロイト・ピストンズに移籍。シーズン中にミルウォーキー・バックスに移籍し、さらに翌シーズンはフィラデルフィア・76ersでプレーした。

 

翌シーズンからはイタリアでプレーし、1995-1996シーズンにイタリアで現役を引退した。引退後はWNABABAのコーチを歴任している。

 

ジョーダンと比べればどんな選手でも見劣りするのは当たり前である。ウーリッジも間違いなく名選手であった。

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