4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

2011年10月

ボブ・カルス ~闘牛~

0735オクラホマ大学でオールアメリカンに選ばれたカルスは、1968年にドラフト9巡目でバッファロー・ビルズに入団した。

下位での指名であったが1年目からRGとして14試合に出場して9先発。チーム新人王に選ばれる活躍を見せた。

次代のビルズライン陣を担う存在として将来を嘱望されたが、余はベトナム戦争の渦中にあり、カルスは予備役将校としての義務を果たすために陸軍に入隊した。

少尉として第101空挺師団に配属され、ベトナムに赴き、作戦にあたっていたが、1970年7月21日、作戦中に迫撃砲による砲撃を受け、25歳にして還らぬ人となった。

カルスはベトナム戦争っで命を落とした唯一のプロフットボーラーであり、その死は全米に衝撃を与えた。

カルスが遺した妻と二人の子供はカルスのことを尊敬しており、その死にざまについて語ることはほとんどないという。

07362000年にビルズの殿堂入り。カルスの半生を描いたドキュメンタリー映画がエミー賞にノミネートされ、さらにイラクにある前線基地の一つには"カルス"の名が冠されている。

そのほかにも母校デルシティーハイスクールのホームスタジアムが"カルススタジアム"と名付けられるなど、母国のために命を失った英雄の名誉は、死してなおたたえられている。

ジェフリー・ハモンズ ~スピードスターの復活~

0743ハイスクールきっての快速外野手として知られ、1989年にドラフト9巡目でトロント・ブルージェイズに指名されたハモンズだったが、指名を断ってスタンフォード大学に進学した。

大学でひざを壊し、俊足を失ってしまったが、盗塁技術は折り紙つきで、PAC-10カンファレンスの盗塁記録を1年で塗り替え、4年間で盗塁死はわずか4回であった。

1992年にはアメリカ代表としてバルセロナオリンピックに出場。チームトップの打率.400を記録したが、チームはキューバ、台湾、日本に次ぐ屈辱の4位に終わった。

同年全体4位でボルチモア・オリオールズに入団。1993年にメジャーデビューを果たした。

続く1994年には68試合に出場し、打率.296、8HR、31打点を記録。新人王投票で6位に入った。

打撃センスに富んだ便利な選手であったがなかなか100試合出場を達成できず、初めて出場試合数が100を超えたのは1997年で、ライトのレギュラーとして118試合に出場し、打率.264、21HR、55打点、15盗塁を記録した。

翌シーズン途中にシンシナティ・レッズにトレード。同年は100試合を割り込んだものの、続く1999年は代打や守備固めを中心に123試合に出場した。

シーズン終了後にトレードでコロラド・ロッキーズに移籍。新天地でハモンズはキャリアハイを迎えることになる。

0744当時MLB最強を誇ったロッキーズ打線の主軸を担い、リーグ4位の打率.335、20HR、106打点、14盗塁を記録してオールスターに出場。

翌シーズン3年2100万ドルの大型契約でFAでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。前年320万ドル余りだった年俸は650万ドルまで跳ね上がった。

しかし故障が多く、移籍1年目はわずか49試合の出場に終わり、続く2002年も128試合に出場したものの打率.257と低迷した。

2003年シーズン開幕直後に解雇され、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。36試合で打率.277とそれなりの成績を残した。

翌2004年は打率.211に終わり、6月に解雇。同年12月にモントリオールから移転したばかりのワシントン・ナショナルズに移籍した。

ナショナルズでも活躍はままならず、シーズン途中に再び解雇。そのまま現役を引退した。

最後に記録した打点は奇しくもブルワーズからのものであった。

クリス・テレリ ~Mask~

0742ホッケーをよく知らない人のホッケーマスクのイメージは、おそらくいまだにジェイソンのそれで止まっているだろう。

しかし、現在のマスクはキャッチャーマスクのようにケージで作られ、視界が広くなるように工夫されている。

この手のマスクをかぶり始めた最初の選手が今回の主人公、クリス・テレリである。

1983年にドラフト5巡目でニュージャージー・デビルズに入団したテレリは、1986-1987シーズンにようやくNHLデビューを果たすものの、当初は控えであった。

1989-1990シーズンに35試合で15勝12敗と実績を残すと、翌1990-1991シーズンには自己最高の24勝21敗を記録。視界の広いマスクが幸いしたか、得点の方も3アシストを稼いでいる。

その後もデビルズの正ゴーリーとして活躍を続け、1994-1995シーズンには故障でわずかしか出場できなかったが、チームはファイナルを制し、スタンレーカップを獲得した。

1995-1996シーズン途中にサンノゼ・シャークスにトレード。シャークスでも正ゴーリーとして46試合で13勝29敗を記録。さらに5アシストを記録している。

0741翌シーズン途中にシカゴ・ブラックホークスにトレード。以後は控えゴーリーとして活路を見出した。1998-1999シーズンにデビルズに復帰。さらに2000-2001シーズン途中にニューヨーク・アイランダーズに移籍し、同年限りで現役を引退した。

引退後はデビルズ傘下のマイナーでコーチを務め現在はデビルズでゴーリーコーチを務めている。

テレリが現在のマスクを発明したわけではないだろうが、先鞭を着けたのは間違いなくテレリである。後輩のゴーリーはテレリに感謝せねばならない。

ジャック・ラマーズ ~Medal of Honor~

0733名誉勲章はアメリカ軍人に授与される最高の勲章であるが、この勲章を本人が得ることは滅多にない。というのも、戦死するほどの勇気を奮わねば得られない勲章だからである。

テキサスの綿農家に生まれ、ハイスクールではフットボールと陸上の選手として活躍していたラマーズだったが、最終学年に世界恐慌が起こり、中退を余儀なくされた。

その後奨学金を得てベイラー大学に進学。その傍ら野球もプレーし、マイナーリーグでは名センターとして鳴らした。

フットボールでも活躍を見せ、エンドとしてオールアメリカンに選ばれる活躍を見せた。

1941年に陸軍航空隊が勧誘に来たため、大学を中退して航空学校に入学。学業も優秀だったのですぐに卒業するつもりであった。

パイロットとして優秀な成績を収める一方でNFLニューヨーク・ジャイアンツのキャンプに参加。ロースターに残り、月100ドルの契約でプレーすることになった。

1941年12月7日、ライバルのブルックリン・ドジャースとの試合に出場し、ハーフタイムで太平洋戦争の開戦を知った。

同年リーグチャンピオンシップに進出したものの、シカゴ・ベアーズに9-37で敗れ、1942年1月30日に海兵隊に志願した。

サンディエゴで訓練を受け、アメリカ口の基地を転々。行く先々の野球チームで主砲として活躍したという。

1944年にタラワ島で訓練を受け、海兵隊第27連隊に配属され、硫黄島上陸作戦の第一波として1945年2月19日に上陸した。

塹壕にこもり、水際で必死に抵抗する日本軍と2週間にもわたる戦いの末ようやく海岸を突破。島の中心部にあるす擂鉢山へと進撃を開始した。

0734ラマーズ中尉率いる小隊は勇敢に戦い、日本軍の陣地を3つも破壊する活躍を見せたが、3月8日、ラマーズは地雷を踏んでしまった。

両足が吹き飛び、瀕死の状態になってもラマーズは部隊を指揮し続けたが、やがて力尽き、後方の野戦病院に運び込まれた。

名医として知られたブラウン医師のものとでラマーズは8リットルもの輸血を受けたが、やがてブラウン医師は天幕から出てきて、"ジャイアンツは無敵の名エンドを失った"と周りの人間に告げた。僅か29歳であった。

戦後、死に瀕してなお部下を指揮し続けたラマーズの勇気ある行動に対して名誉勲章が授与された。

だが、ラマーズはこの世にはいない。死んだあとに勲章をもらうよりも、ジャイアンツでもっと活躍した方が良かったのではないだろうか。

今は故郷テキサスに眠るラマーズ。彼の人生果たしては幸せな人生だっただろうか。

アル・ブロージス ~仲間のために~

0731ニュージャージー州に生まれ、高校では砲丸投げや円盤投げでも優秀な成績を残していたブロージスは、ジョージタウン大学に進学。1942年にドラフト5巡目でニューヨーク・ジャイアンツに指名され、入団した。

1942年、1943年と砲丸投げの全米チャンプに輝く一方、1942年には11試合に先発してオールスターに選出された。

1943年にも10試合に先発し、オールアメリカンに選出。カレッジフットボールに押されて低迷するNFLを代表するOTであった。

その頃第二次世界大戦は激化の一方をたどっており、愛国心に燃えるブロージスは1943年12月9日に陸軍に志願。訓練の手榴弾投げではアメリカ軍最高の94ヤード2フォートを記録した。

訓練の合間の休暇を利用して1944年シーズンも2試合に出場。いずれも先発出場であり、チームの仲間にとってはさぞや頼もしかったことだろう。

その後試験を受けて少尉に昇進してヨーロッパ戦線へ赴き、フランスでの戦いに参加した。

終戦も間近の1945年1月、二人の部下が敵地へ偵察に出たきり戻ってこなくなり、ブロージス自ら捜索に出たものの孤立。1月12日に戦死した。

0732ジャイアンツの誇る名OTの死はNFLのみならず全米に衝撃を与え、ジャイアンツはブロージスの背番号32を永久欠番に制定。その早すぎる死を悲しんだ。

フィールドで、戦場で、仲間を守るために戦い続けたブロージス。男たるものこうありたいものである。
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