4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

2012年01月

ローレンス・テイラー ~L.T~

0936もともとは野球のキャッチャーだったテイラーがフットボールを始めたのは15歳の時で、これはほかの一流のフットボーラに比べてかなり遅い。

最初はDLだったが、ノースカロライナ大学でLBにコンバートされ、カンファレンスMVPに選ばれるなど活躍。1981年に全体2位でニューヨーク・ジャイアンツに入団した。

トレーニングキャンプの時点でテイラーの存在は際立っていて、"スーパーマンだからベンチではなく電話ボックスで出番を待つべき"という冗談がささやかれたほどであった。

1年目から9.5サックを記録し、守備新人王と最優秀守備選手賞を受賞。前年425失点を喫したジャイアンツディフェンス陣はテイラーの加入で257点まで失点を減らした。

自分勝手でトラブルメーカーだったが、2歩でトップスピードに達する加速力と野獣のようだと形容されたブリッツとボールへの嗅覚でNFLにセンセーションを巻き起こした。

今なおジャイアンツの伝説となっている1982年のサンクスギビングゲーム、デトロイト・ライオンズ戦ではライオンズQB、ゲーリー・ダニエルソンが投げ捨てたボールを素早く察知してこれをINT、そのまま97ヤードのINTTDを決めた。

2年連続で最優秀守備選手に輝いて迎えた1983年シーズン、USFLへ移籍騒ぎを起こしたり、同僚の相次ぐ故障でILBでのプレーを強いられたりと苦戦しながらも9.0サックを記録。3年連続でプロボウルとオールプロに選出された。

その後もさらにサックを増加させ、1985年には13.0サックを記録。11月のワシントン・レッドスキンズ戦ではジョー・サイズマンをサックし、右足を骨折させた。

トラブルメイカーのテイラーにも人の心はちゃんとあるようで、サイズマンが骨折したと知って悲鳴を上げ、取り乱しながらスタッフを呼び寄せた。

この骨折でサイズマンは引退に追い込まれたが、サイズマンはテイラーを恨んではいないという。

1986年には驚異の20.5サックを記録してMVPを獲得。その勢いでスーパーボウルまで突き進み、デンバー・ブロンコスを39-20で破ってチャンピオンリングを獲得。一気にフットボーラーの頂点に上り詰めた。

その後もフィル・シムズと並ぶジャイアンツの柱として輝かしい成績を残し続けたが、1988年にNFLが行った薬物検査でコカイン服用が明るみに出て30日の出場停止となった。

0937この頃には毎日数千ドル分ものコカインを服用し、ホテルの部屋に何人ものコールガールを呼んで乱痴気騒ぎをしていたというのだから恐ろしい。

そのせいかこのころから故障が増え始めたが、麻薬漬けでも平気で2ケタのサックを記録するのが凄いところで、1990年にも10.5サックを記録してスーパーボウルを制覇。10年連続のプロボウルに選出された。

しかし、その後はさすがにがたが来はじめ、同年を最後にプロボウルには選出されず、7年続いた2ケタサックも途切れ、1993年を持って現役を引退した。

通算132.5サックは歴代9位。背番号56はジャイアンツの永久欠番に制定された。

テイラーの活躍はフットボールの戦術そのものにも影響を及ぼし、テイラーの登場以降、ブリッツを仕掛けてくるLBをブロックする役目としてOGよりもOTが重視されるようになった。

引退後もしばらくは自堕落な生活を送っていたようで、レッスルマニアに参加したり、解説者として活動する以外に麻薬で3回も投獄された他、株で多額の損失を被っている。

素行は最悪とあって、1999年に殿堂入り資格を得た際には投票の行方が注目されたが、無事殿堂入りを果たした。

それからしばらくは麻薬もやめて真面目に生きていたが、2010年になって16歳の少女に対する婦女暴行の容疑で逮捕された。

NFL史上有数のLBであることは間違いないだけに、こう悪事を重ねるのは実にもったいない話である。

encyclopector様フォロー記念 ~Gargantua~

いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。

様がフォローしてくださいましたので、今日から3日間特集を組ませていただきます。

さらに、様の運営するブログ、Any given sundey様もリンクさせていただきます。

ニューヨーク・ジャイアンツのファンでらっしゃるということで、ジャイアンツの選手を特集します。どうぞお楽しみに。

0937


フィル・ジャクソン ~Zen Master~

0934モンタナの田舎町で牧師の良心の間に生まれたジャクソンは、厳格に育てられた。テレビやダンスといった娯楽は禁止されていて、初めて映画を見たのはハイスクール時代だったという。

しかしスポーツは禁止されていなかったので、ジャクソンはスポーツに熱中した。バスケット以外にもフットボール、野球、円盤投げの選手として活躍。バスケットで奨学金を得てDev.Ⅱのノースダコタ大学に進学した。

PF/Cとして1967年に2巡目でニューヨーク・ニックスに指名されて入団。得点力には乏しいものの、長身と長いリーチを生かしてディフェンス面でチームに貢献。シックスマンとしてニックスでも有数の人気選手となった。

1969-1970シーズンは背中の故障でロースターから外れたものの、バスケット理論を生かしてコーチとして登録。チームのNBAチャンピオンに貢献した。

翌シーズンから選手に復帰し、1973年にもリングを獲得。1978年にニュージャージー・ネッツに移籍し、1979-1980シーズンを持って現役を引退した。

引退後はネッツのコーチを1年務め、翌シーズンは解説者として活動。さらに次のシーズンからは独立リーグやプエルトリコのリーグでコーチを歴任した。

このころ名将ジャクソンの基礎はできたわけだが、コーチをやめようかと思ったこともあったという。

独立リーグでは好成績を残した選手はNBAに引き抜かれてしまい、かと思ったらNBAで通用せずに自信を失って戻ってくる。プエルトリコでは英語が通じない選手やそもそも基礎ができていない選手が少なくなく、観客もガラが悪く、発砲騒ぎも珍しくなかった。

NBAのコーチになる機会が得られず転職を画策し、職業適性検査を受けたところ、弁護士にやや適性があるとされたため、大学で弁護士の資格を取得しようとした矢先にシカゴ・ブルズのジェリー・クラウスGMからコーチの誘いがかかった。


0933ブルズはコーチが開幕直前になって引き抜かれてしまい、チャンピオンリングを2個持っているのが決め手になり、ジャクソンに白羽の矢が立てられた。1987年のことである。

1989-1990シーズンにHCに昇格。それまでマイケル・ジョーダンに頼り切っていたチームを生まれ変わらせるために、"トライアングルオフェンス"と呼ばれる新戦術を採用した。

複雑な戦術であり、しかもジョーダンを納得させる必要があったが、ジャクソンはなんとかチームを説得し、選手たちもこの戦術をものにした。

これが功を奏し、翌シーズンからブルズはスリーピートを達成。その後ジョーダンの引退で優勝は途絶えたが、復帰した1995-1996シーズンから再び三連覇。しかしクラウスと確執を作り、オフに退任。1年の受電を経てロサンゼルス・レイカーズのHCに就任した。

レイカーズでも就任1年目から三連覇を達成。3度もスリーピートを達成したのは言うまでもなくジャクソンだけである。

東洋の禅の思想に影響を受け、チームケミストリーを重視する采配を取ったことから、"Zen Mastar"と呼ばれた。

その後もプライドの高いスター選手たちをなんとかまとめあげながらレイカーズ王朝を確固たるものにし、2007年には殿堂入り。2008-2009シーズンから二連覇を記録。2010-2011シーズン終了後に退任した。

持っているチャンピオンリングは実に13個。次にHCに就任するチームがあるとするならば、間違いなく優勝する。

エイブリー・ジョンソン ~Little General~

0931ハイスクール時代には35勝無敗という圧倒的活躍でルイジアナ州のチャンピオンに輝き、サウザン大学では1987-1988シーズンにNCAA記録の平均13.3アシストをマークしたジョンソンだったが、180センチの身長が災いしてかドラフトで指名されず、USBLに進んだ。

1988-1989シーズン途中にシアトル・スーパーソニックスと契約。PGとして43試合に出場し、翌シーズンの契約を勝ち取った。

翌シーズンも53試合に出場し、平均3.1アシストを記録したものの、シーズン終了後にデンバー・ナゲッツにトレードで移籍した。

しかしシーズン途中にウェーバーになり、サンアントニオ・スパーズに移籍。しかし翌シーズンにはウェーバーとなり、ヒューストン・ロケッツと10日間のトライアウト契約を結び、そのままシーズンを過ごした。

オフにスパーズと再び移籍し、75試合出場のうち49先発。平均11.6リバウンド、9.9アシスト、1.5スティールの好成績を残した。

翌1993-1994シーズンにゴールデンステート・ウォリアーズに移籍。70先発でスターターの座をつかみ、オフに三度スパーズに復帰した。

ようやくスパーズに腰を落ち着け、1995-1996シーズンにはキャリアハイとなる平均13.1得点、9.6アシスト、1.5スティールを記録。親友の"提督"デビッド・ロビンソンにちなんで"Little General(小さな将軍)"と呼ばれた。

1998-1999シーズンにはNBAチャンピオンに輝き、その後もスパーズのバックコートを引き締めていたが、2001-2002シーズンにナゲッツに移籍。さらにシーズン途中にダラス・マーベリックスに移籍し、翌シーズンはウォリアーズに移籍。同年限りで現役を引退した。

0932翌シーズンからドン・ネルソンHCのもとマブスのコーチに就任。シーズン終了間際にHCに昇格し、16勝2敗の好成績で月間最優秀コーチのタイトルを獲得した。

翌シーズンには60勝22敗の成績で2年目にしてファイナルまで進出。しかしマイアミ・ヒートに4連敗し、マブスの初優勝はお預けとなったが、最優秀コーチ賞を受賞した。

翌シーズンは67勝を記録して地区優勝を達成。翌シーズンも51勝を記録したものの、このシーズンのサウスウェストディビジョンは激戦区で、地区4位に終わり、プレーオフもファーストラウンドで敗退。このシーズンを持って退任した。

その後解説者を務めていたが、2010-2011シーズンからニュージャージー・ネッツのHCに就任。24勝しか記録できなかったが、翌シーズンの巻き返しが期待される。

コーチとしても一流だが、選手としても一流で、背番号6はスパーズの永久欠番となっている。

エリック・スノウ ~Blizzard~

0929兄のパーシーはNFLでもプレーしたLBだったエリックは、ハイスクールでチームMVPを獲得するなど活躍し、ミシガン州立大学へ進学した。

1995年には第3シードでNCAAトーナメントへ出場するなど活躍し、同年ドラフト2巡目でミルウォーキー・バックスが指名。直後にシアトル・スーパーソニックスにトレードされた。

ソニックスでは控えPGであったが、1997-1998シーズン途中にフィラデルフィア・76ersに移籍すると翌1998-1999シーズンからPGのスターターとなり、1999-2000シーズンにはキャリア肺の平均7.6アシストを記録。さらに巧みなディフェンスでも名を売るようになった。

SGのアレン・アイバーソンと強力なバックコートを結成。守備に難ありだが爆発的な得点力を持つアイバーソンと、得点力には乏しいが守備に定評があるスノウのコンビネーションは絶品であった。

09302000-2001シーズンにはひざの故障で長期離脱したものの、プレーオフには復帰し、チームのファイナル進出に大きく貢献。しかしファイナルはロサンゼルス・レイカーズに敗れ、リング獲得はならなかった。

それまで平均得点は一貫して一ケタだったスノウだが、翌シーズンからは得点力を増加させ、2003-2004シーズンには自己最高の12.9得点を記録。さらに3.8リバウンド、6.6アシスト、1.6スティールを記録し、キャリアハイのシーズンを送った。

2004年にクリーブランド・キャバリアーズに移籍。キャブスでは再び得点力は落としたものの、ディフェンスは健在であり、さらにチームのまとめ役としても貢献。2006-2007シーズンにはスターターとしてチームのファイナル進出に貢献した。

2007-2008シーズンにはチームキャプテンに指名されたものの、ひざの故障を悪化させて22試合の出場に終わる。しかし、アシスタントコーチとして若手の指導を行い、ベンチから選手にげきを飛ばす姿がしばしば見られた。

このシーズンを最後に現役を引退。現在は解説者を務めている。
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