4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

2012年06月

スコット・スカイルズ ~助ける人~

0985ハイスクール時代から有名選手だったスカイルズは、ミシガン大学でもたぐいまれな得点力で暴れに暴れ、カンファレンスMVPを獲得し、同大学のシーズンと通産の得点記録を樹立した。

しかし素行はあまりよくなく、麻薬や飲酒運転での逮捕歴があり、15日服役したこともある。

1986年に全体22位でミルウォーキー・バックスに入団。しかしルーキーイヤーは13試合しか出場できず、1年でインディアナ・ペイサーズにトレード。さらに1988-1989シーズン終了後にエキスパンションドラフトでオーランド・マジックに移籍した。

マジックでは控えとして積極的に起用され、わずかなプレイタイムで平均7.7得点、4.8アシストを記録。翌シーズンからはスターターに抜擢された。

PGとしては出色の得点力も魅力だったが、なんといってもスカイルズはパスセンスが優れていた。1989-1990シーズンは12月30日のデンバー・ナゲッツ戦で1試合30アシストのNBA記録を樹立。平均17.2得点、8.4アシストの大活躍を見せてMIPを受賞した。

一躍名を知られる存在となったスカイルズの活躍は目覚ましく、1992-1993シーズンにはキャリアハイの平均9.4アシストを記録した。

1994年にワシントン・ブレッツに移籍。翌シーズンはフィラデルフィア・76ersに移籍したものの、肩の故障で10試合しか出場できず、シーズン終了後に解雇。NBAからは誘いを受けず、スカイルズはヨーロッパへ渡った。

ギリシャの名門PAOKテッサロニキに入団したが、故障もあって思うような成績を残せず、フランス人のミシェル・ゴメスHCと対立し、シーズン途中に解雇。しかし、これが思わぬ形でスカイルズを救った。

当時PAOKは低迷しており、そのため球団はゴメスHCをシーズン途中に解任。後釜に選ばれたのはなんとスカイルズであった。

0986スカイルズはここで思わぬ好成績を収め、ギリシャリーグ優勝を達成したうえ、ユーロリーグにも出場。シーズン終了後にこの実績を手土産にフェニックス・サンズのコーチに就任した。

1999-2000シーズンからHCに昇格。1年目からいきなりプレーオフに進出し、ディフェンディングチャンピオンのサンアントニオ・スパーズを撃破する大番狂わせを見せるなど手腕を発揮し、3シーズンで2回プレーオフに進出。しかし2001-2002シーズンを最後に解任されてしまい、シカゴ・ブルズのHCに就任した。

当時のブルズは若いチームであり、スカイルズはこの若いチームを堅守のチームに育て上げた。

26試合連続100失点以下のNBA記録を樹立するなど有能であったが、2007-2008シーズン途中に解任。ジョン・パクスソンGM曰く難しい選択だったらしいが、その後のブルズを見る限り、悪い選択ではなかったようだ。

一方スカイルズは翌シーズンから古巣バックスのHCに就任。2009-2010シーズンにはプレーオフ進出を果たしたものの、現在に至るまで苦しいシーズンが続いている。

@aokeshi様フォロー記念特集

いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。長い間更新を休んでしまい申し訳ありません。

様がフォローしてくださいましたので、今日から特集を組みます。

リクエストの通りNBAの選手を紹介予定です。どうぞお楽しみに

チャールズ・バークリー ~空飛ぶ冷蔵庫~

0983バークリーといえば横幅の大きい体型であるが、これはどうやら生まれつきのものらしい。ハイスクールでは1年時は身長が178センチしかなかったにも関わらず、体重はなんと99.8キロもあったという。

その後身長は198センチまで劇的に伸び、オーバーン大学に進学。当初はあまり目立つ選手ではなかったが、体型を生かした支配力と意外なまでの跳躍力を武器に頭角を現し、ロサンゼルス五輪の候補にもなった。

1984年に全体5位でフィラデルフィア・76ersに入団。当時のシクサーズはスターのそろった強豪であったが、バークリーは1年目からPFのレギュラーを獲得。3年目の1986-1987シーズンには平均14.6リバウンドでリバウンド王を獲得し、オールスターに初選出された。

193センチとも言われる低身長でありながら体重は120キロもあり、それでいてスピードもスタミナも一級品という稀有な存在で、攻守どこを見ても非常にうまく、隙のない万能選手であった。

2メートルに満たないバークリーがフロントコートで大男を跳ね飛ばす姿は爽快の一言で、日本でも人気があり、カップラーメンのCMに出たり、ナイキのCMでゴジラと闘う姿を覚えている読者も多いだろう。

しかし、バークリーの活躍とは裏腹にチーム成績は落ち込み、チームと確執を作ったバークリーは移籍を志願。ドリームチームに選ばれた1991-1992年シーズン終了後にトレードでフェニックス・サンズに移籍した。

サンズではPGケビン・ジョンソンとともにチームをけん引し、62勝20敗という驚異の成績をマーク。これはジョーダン率いるシカゴ・ブルズすらしのぐ数字であった。

バークリーはMVPを受賞し、チームはファイナルに進出。しかし、ブルズ相手には分が悪く、初優勝はならなかった。

その後バークリーは故障で休みがちとなり、チームにもそれが伝染したのか負傷差者が続出。ブルズに引けを取らないスター軍団でありながらサンズはなかなか勝ちきることができず、バークリーはここでもオーナーと確執を作りだした。

0984そして1995-1996シーズン終了後、チャンピオンリングがどうしても欲しいバークリーは、目下二連覇中のヒューストン・ロケッツに移籍。しかし、このシーズンジョーダンがブルズに復帰し、ロケッツはファイナルに進出できず、バークリー自身も故障の影響か得点力を大きく落とした。

その後ひざの故障を悪化させたバークリーは68試合、42試合と年々出場が減り、1999-2000シーズンにはついに20試合まで出場が減り、同年を持って現役を引退した。

リングはついに手にできなかったが、通算20000得点、10000リバウンド、4000アシストを超えた選手はバークリーを含めて5人しかいない。

2004年に殿堂入り、背番号34は76ersとサンズで永久欠番になっている。

引退後は趣味のギャンブルを存分に楽しむ他(通算で1000万ドル以上も損をしているらしい)、アラバマ州の知事選挙に出馬するという噂が選挙のたびに聞かれる。

相方のジョンソンがサクラメント市長になったくらいなので、バークリーも出馬すれば知事になれるかもしれない。
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