12歳の時からずっと愛用している古めかしいヘルメットがトレードマークのゴーリングは、1969年にドラフト5巡目でロサンゼルス・キングスに指名された。



 



0243当初はマイナーとNHLを往復したが、1971-1972シーズンからNHLに完全定着。21ゴール、50ポイントを記録した。



 



ペナルティが少ないジェントルマンで、1976-1977シーズンには30ゴール、85ポイントを記録。対してペナルティはわずか6分であった。



 



その後も実力、人徳共に一流のキングスの顔として活躍を続け、1977-1978シーズンにはビル・マスタートン記念賞とレディー・ビング記念賞をダブル受賞。いかに人間性が優れていたかの証明といえよう。



 



才能や人徳はともかく、ファッションセンスは皆無だったようで、ある時、宿泊先のホテルに泥棒が入り、ゴーリングとルームメイトの持ち物が根こそぎ盗まれてしまった時も、クローゼットに入っていたゴーリングの私服だけは無傷だったという逸話が残っている。



 



1978-1979シーズンには当時WHL所属だったエドモントン・オイラーズから100万ドルのオファーが来たが、これを拒絶。NHL陣営の喝さいを浴びた。



 



1979-1980シーズン途中にニューヨーク・アイランダーズにトレード。12試合で11ポイントを稼ぎ、オールスターに選出され、チームのプレーオフ進出に貢献。



 



プレーオフでも21試合で19ポイントを稼ぎ、移籍1年目にしてスタンレー・カップ制覇を果たした。



 



1980-1981シーズンは23ゴール、60ポイントに対しペナルティは0と持ち味を大いに発揮。プレーオフでは18試合で20ポイントを荒稼ぎし、スタンレー・カップ連覇に大きく貢献。コーン・スマイス賞を受賞した。



 



その後もポイントこそ減ったが、ここぞという場面で見せる勝負強さとリーダーシップでアイランダーズのスタンレー・カップ4連覇に貢献。



 



0242ちなみに、NHLの選手はプレーオフになるとゲンを担いで髭をそらなくなるが、このゲン担ぎを最初に始めたのはゴーリングだと言われている。



 



1984-1985シーズン途中にボストン・ブルーインズにトレード。同年限りで解雇された。



 



その後すぐにブルーインズのHCに就任。翌シーズン途中まで務め、退任後にAHLで現役復帰。同年引退した。



 



その後は指導者の道を歩み、1999-2000にはアイランダーズのHCに就任。翌シーズン途中まで勤め上げた他、マイナーやヨーロッパでコーチを務めている。



 



NHLの歴史にユニークな足跡を残したゴーリング。通算ペナルティ102分は1000試合以上出場した選手では最少記録である。