0765イタリア系とフランス系の両親を持ち、ロジャー・クレメンスに憧れていたペティットは、1990年にドラフト22巡目でニューヨーク・ヤンキースに指名されたものの、下位指名に不満を持ち、拒否して短大に進学した。

勉強が苦手だったので短大に進学したのだが、1年後にはドラフト外でヤンキースと契約。大リーガーへの道を踏み出した。

マイナーで51勝22敗の好成績を残し、1995年にメジャーデビュー。12勝9敗、防御率4.17を記録し、新人王投票では3位に入った。

続く1996年には21勝8敗、防御率3.87という圧倒的な成績で最多勝を獲得。オールスターにも選出され、サイ・ヤング賞投票もパット・ヘントゲンに次ぐ2位に入った。

195センチの長身からカーブ、スライダー、シンカー、チェンジアップ、カッターと多彩な変化球を投げ込み、それらを針の穴を通す制球力でコーナーに決めた。

ワールドシリーズでも2登板で1勝を挙げ、2年目にして世界一の栄冠を手にした。

翌シーズンも18勝7敗、キャリアハイの防御率2.88を記録。被本塁打率はリーグ最高の0.3であった。

1999年には少年時代のヒーローであったクレメンスがヤンキースに加入。弟子入りしてトレーニングを共にした。

ヤンキースで4回世界一に輝き、2004年に3年3150万ドルの大型契約でヒューストン・アストロズに移籍。同年引退を表明したクレメンスを説得し、復帰させ、アストロズに入団させた。

0766アストロズでは1年目こそ低迷したものの、クレメンスの代名詞である背番号"21"を着け、"22"を着けたクレメンスとともに左右のダブルエースとして活躍。2005年にはワールドシリーズに進出した。

2006年シーズン終了後に単年1600万ドルでヤンキースと契約。リーグ最多の34先発で15勝9敗、防御率4.05を記録し、契約延長を勝ち取った。

同年オフに"ミッチェルリポート"が公開され、ペティットも2002年に人成長ホルモンを使用したという疑いがかけられた。

ペティットはこの事実を潔く認め、ファンの好感を得ることに成功。シーズンも14勝14敗を記録した。

続く2009年にも14勝8敗を記録。ポストシーズンでも4勝を挙げ、5度目の世界一に大きく貢献した。

2010年も11勝3敗を記録し、プレーオフに進出。ミネソタ・ツインズとのディビションシリーズで1勝を挙げ、MLB記録となるポストシーズン通算19勝を挙げた。

その後テキサス・レンジャーズとのリーグチャンピオンシップゲームで敗退し、翌シーズン開幕前に気力の衰えから現役を引退した。

プレーオフ通算19勝だけではなく、通算263投球回もMLB記録となっている。