0997スロバキアで生まれたミキタだったが、幼少期に社会主義を嫌ってカナダへ亡命した。そのせいで訛りがひどく、いじめられて少年時代を過ごした。

だが、ホッケーの才能があったミキタはいじめをはねのけるためにホッケーに熱中し、ジュニアチームで活躍。1958-1959シーズンにシカゴ・ブラックホークスと契約を果たした。

2年目の1959-1960シーズンから先発に定着し、67試合で8ゴール26ポイントを記録。翌シーズンには53ポイントを記録し、プレーオフではプレーオフ最多の6ゴールを記録。チームのスタンレーカップ獲得に大きく貢献した。

僚友ブレット・ハルの隠れがちだが、たぐいまれなテクニックを持ち、数知れない賞を受賞している選手であり、1966-1967シーズンには当時のNHL記録である97ポイントを記録している。今や100ポイントは珍しい数字ではないが、当時は信じられないことであった。

若いころは乱暴なプレーが多く、ペナルティが多い選手であったが、娘の指摘でプレースタイルを改めるとペナルティは激減。1967年、1968年のレディービング記念賞を受賞している。

また、当時は義務化されていなかったヘルメットをミキタは率先してかぶっていたことでも知られている。

099860年代最高のセンターであり、その後も長きにわたって軽く80ポイントを稼ぐブラックホークスの中心として活躍を続け、数多い記録を塗り替えていったが、長年背中の故障を抱えており、それがもとで1979-1980シーズン途中に引退を表明。1394試合はヨーロッパ人フォワードとして歴代最多記録である。

引退後はホークスの大使を務め、背番号21はホークスの永久欠番になり、1983年にはホッケーの殿堂入り。さらには2002年にはスロバキアホッケーの殿堂入りを果たしている。

2011年に口腔がんであることを公表。現在闘病中である。一日も早い回復を祈りたい。