4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

MLB

バリー・ボンズ ~Homerun Monster~

0975ボンズがスーパースターになるのは宿命だったのかもしれない。父のボビー・ボンズは60年代を代表する強打者で、母方の従弟はレジー・ジャクソン、叔母のロジーはハードル競技で東京オリンピックに出場、バリーという名前はボビーの同僚だったウィリー・メイズ名付けたという。

ハイスクールではバスケットやフットボールでも活躍。だが一番すぐれていたのは野球で、オールアメリカンにも選ばれるなど実績を残し、1982年にサンフランシスコ・ジャイアンツにドラフト2巡目で指名されたものの拒否。アリゾナ州立大学に進学した。

大学でもカレッジワールドシリーズで7試合連続安打のレコードを樹立するなど輝かしい成績を残し、1985年に全体2位でピッツバーグ・パイレーツに入団した。

甘やかされて育ったため性格は最悪で、ルーキーイヤーにマイナーで監督室にノックもせずに入ってきてぶしつけな挨拶をして監督に一喝されたというエピソードもある。

しかし、ボンズを厳しく教育する監督のエド・オットーにボンズは徐々に敬意を示すようになり、性格は治らなかったものの1986年にはメジャーデビュー。打率.223ながら16HR、36盗塁を記録し、新人王投票で6位につけた。

名将ジム・リーランドをもってしても性格の悪さはどうにもならず、チームメイトと喧嘩ばかりしていたが、成績の方は超一流であった。

1990年には打率.301、33HR、114打点、52盗塁の成績でオールスター、ゴールドグラブ賞、シルバースラッガー賞MVPをそれぞれ初受賞。1992年にも7MVPを獲得し、オフにボビーが現役時代を過ごしたジャイアンツに移籍した。

パイレーツ時代に着けていた背番号"24"をジャイアンツでも要求。しかし既にメイズの永久欠番となっていたので、ボビーと同じ"25"に落ち着いたが、ここに至るまでにかなりの批判を浴びた。

移籍1年目から打率.336、46HR、123打点の成績でHRと打点の二冠王を獲得し、3回目のMVPを受賞。それ以降も打ちまくったものの、徐々に地味な存在となっていった。

当時のボンズは走攻守、すべてに秀でた万能選手であった。鋼のような見事な肉体を躍動させる姿は絵になったが、時代がボンズを狂わせた。

097690年代はMLBをステロイドが席巻した時代であった。マーク・マグワイアとサミー・ソーサのHRに全米が熱狂した。そんな時代の流れにあって、HRが特別多いわけではないボンズは洗練されていながらもいささか地味な感が否めなかった。

それがボンズは許せなかったのかもしれない。足も守備もボンズはかなぐり捨てて、ステロイドに我が身を染めた。

ボンズに異変が生じたのは1999年のことであった。体重を増やして臨んだそのシーズンは不調に終わり、限界説もささやかれたが、102試合しか出場していないにも関わらず32HRを放っていた。

ボンズが明らかにおかしくなったのは翌シーズンだった。打率.306、46HR、106打点の成績でMVP投票はソーサに次ぐ2位を獲得した。

続く2001年、ボンズは73HRを放った。マグガイアが記録した70HRの記録を塗り替え、MLB最強のスラッガーの座を不動のものとした。

ただでさえ悪い性格がステロイドの副作用かますます悪くなり、チームメイトと対立を繰り返すばかりか、ロッカールームに自分用のテレビとソファを設置。友人といえるのは特別製の人間である新庄剛志だけであった。

毎年MVPを獲得し続け、2004年には120敬遠、出塁率.609というとてつもない成績をマーク。最も有効なボンズ対策は"全打席満塁でも敬遠すること"で、実際全打席敬遠した方が失点が少なくなるというデータがある。

本拠地AT&Tパークでライト場外の海にHRをたたき込む"スプラッシュ・ヒット"はジャイアンツの名物で、ボンズの打席ともなればHRの落下予想地点にはボートに乗って網を持ったファンがひしめき合った。

ちなみにAT&Tパークは左打者には圧倒的に不利な球場で、本当はスプラッシュヒットは滅多に見れない大技のはずなのだが、ボンズが35本も打ってしまったせいで世間一般には簡単だと思われている節がある。

7度目のMVPを獲得した2004年以降は徐々に成績を落としていったが、2007年にはハンク・アーロンの持つ755HRの記録を塗り替え、756号HRをスプラッシュヒットで達成。HRボールはオークションで約75万ドルの値段が付いた。

ちなみにこのボールは参考記録を意味する"*"マークが書き込まれたうえで野球殿堂に飾られている。

長年薬物疑惑はささやかれていたが、同年には薬物使用に関する大陪審での偽証が明るみに出て起訴される事態となり、ただでさえ悪いボンズのイメージはどん底まで落ちた。

同年限りでジャイアンツはボンズとの契約を解除。その後移籍先を探したものの引き取り手は現れず、そのまま現役を引退した。

私はパイレーツ時代のあのボンズが今でも忘れられない。HRは多くなくても、輝いて見えた。あのボンズが私はもっと見たかった。

ケン・グリフィー.Jr ~Super .Jr~

097370年代を代表する名手ケン・グリフィー.Srの息子としてスタン・ミュージアルと同じ町、同じ誕生日で生まれ、タフィー・ローズと家族ぐるみの付き合いがあったというジュニアだが、苦悩の多い少年時代を過ごした。

ハイスクールでは野球とフットボールで活躍したが、黒人であること、二世選手であることに負い目を感じ、薬物自殺を図ったことすらあったという。

1987年に全体1位でシアトル・マリナーズに入団。1989年にメジャーデビューし、そのままセンターのレギュラーに定着。打率.264、16HR、61打点を記録し、新人王投票で3位につけた。

翌シーズンには打率3割を記録し、ゴールドグラブ賞とオールスターに選出。さらに父シニアがマリナーズに加入。親子でチームメイトとなるのはグリフィー親子が初であった。

その後も華麗な守備とたぐいまれな長打力でファンを魅了し、短縮シーズンとなった1994年には60試合で30本という驚異的ペ200ースでHRを量産し、最終的に111試合で40HRを放ち、HR王を獲得した。

翌シーズン開幕直後、試合中に外野フェンスに激突してチームを離脱。8月に復帰したものの72試合で17HRと自己最低の成績に終わったが、翌シーズンは49HRを放って復活。さらに1997年シーズンは56HR、147打点で二冠王となり、MVPも獲得。

その後3年連連続でHR王を獲得。1999年オフに8年1億3500万ドルの契約を提示されたものの、家族と過ごす時間がほしいのを理由にトレードを志願。その後引き取り手を探すのに手間取ったものの、最終的にシニアが全盛期を過ごしたシンシナティ・レッズに移籍した。

しかし、レッズ入団を機に衰えが始まり、ゴールドグラブ賞受賞が10年連続でストップ。2001年にはオールスター連続選出も11年で止まった。

2002年には肩の脱臼で53試合しか出場できず、40本を当たり前に打った全盛期は見る影もないほど衰えてしまった。

2004年には復調し、オールスターに選出されたものの、直前になって右足を故障。その後故障はさらに悪化し、オフには右足に3本もボルトを埋め込む大手術を行った。

その影響か翌シーズンも開幕直後は不調だったが、徐々に調子を上げていきHRを量産。打率.301、35HRと全盛期並の成績を残し、カムバック賞を受賞した。

翌シーズンはWBCのアメリカ代表に選出。打率.524、3HR,10打点の大暴れを見せたものの、チームは優勝を逃した。

09742006年のオフにバハマで手首を故障。その影響もあって長年守ってきたセンターを若手に譲り、ライトに転向した。

2008年シーズン途中にシカゴ・ホワイトソックスにトレード。さらにオフに古巣マリナーズへ復帰。ライトにはイチローがいたため、今度はDHに転じた。

そのせいもあってかイチローには最初傲慢な態度で接したが、やがて打ち解けて親友となった。

復帰1年目はそれなりの成績を残したものの、続く2010年には33試合しか出場できず、同年限りで現役を引退。引退試合は親友イチローがサヨナラヒットで花を添えた。現在はマリナーズのフロント職に就いている。

マリナーズ史上最高の選手に選ばれ、現在は歴代5位の630HRは言うに及ばず、あらゆる面でビッグな男だった。

ラリー・ウォーカー ~Boogie~

0961バンクーバーの郊外に生まれたウォーカーは、多くのカナダの少年がそうであるようにNHL選手を志し、野球は夏場にだけプレーしていた。

ゴーリーとしてジュニアリーグでプレーしていたが、16歳の時に競争に敗れてチームを去り、このころから野球に専念。ほぼ素人だったがが身体能力を武器にユースのカナダ代表に選ばれ、そこでの活躍がモントリオール・エクスポズのスカウトの目に留まり、1984年にドラフト外でエクスポズと契約した。

元ゴーリーだけあって動体視力に優れ、速球には強かったが、変化球がまるで打てず、膝のけがもあって1年目から解雇を心配していた。

しかし、フロリダの教育リーグに送られてそこで一気に成長。故障も癒えたことで徐々に出世し、1989年にメジャーデビューを果たした。

新人王資格を残して臨んだ1990年、打率.241、19HR、51打点、21盗塁の成績で新人王投票に9位に入りブレイク。1992年には打率.301、23HR、93打点、18盗塁を記録し、オールスター、ゴールドグラブ賞、シルバースラッガー賞を受賞。MVP投票でも5位につけた。

強打者にして好打者で、足が速く、守備もうまく、肩も強い万能選手であり、1994年にはリーグトップの44二塁打を記録。オフにコロラド・ロッキーズに移籍した。

打者有利のクアーズ・フィールドはウォーカーのベストプレイスだったのだろう。1997年には打率.366、49HR、130打点、33盗塁という圧倒的成績でMVPを獲得。さらにいずれもリーグトップの出塁率.452、長打率.720、12捕殺、さらにスタン・ミュージアルの持つリーグ記録の409塁打を記録した。

さらに同年のオールスターではランディ・ジョンソンと対戦。頭の後ろを通る暴投を食らったが、ヘルメットを前後逆に被り、左打ちでありながら右打席に入るパフォーマンスで対抗した。

0962翌シーズンは打率.363で首位打者を獲得し、最優秀カナダ人アスリートに贈られるル・マーシュ賞を野球選手として初受賞。翌シーズンも打率.379で首位打者を獲得し、年俸は1200万ドルを超えた。

続く2000年は故障で87試合しか出場できず、打率.309とやや数字を落としたものの、2001年には打率.350で首位打者に返り咲き、MLB最強を誇ったロッキーズ打線の中心としてその名をとどろかせた。

しかし、その後は徐々に成績を落としていき、2004年シーズン開幕前にはテキサス・レンジャーズへのトレードが打診されたが、ウォーカーは拒否した。

同年打率.298を打ったものの怪我で82試合しか出場できず、結局シーズン途中にセントルイス・カージナルスにトレードされた。

"毎日クリスマスの朝のよう"と評されたに陽気な性格で、チームにすぐなじんだが、チームはリーグチャンピオンシップシリーズでヒューストン・アストロズに敗れ、それを最後に現役を引退した。

引退後は趣味のサッカーを楽しむ傍ら、2008年にカージナルスのキャンプで臨時打撃コーチを務め、フルタイムでもオファーを受けるなど指導者の才能を発揮。2009年にはWBCカナダ代表のコーチを務め、2011年にはパンアメリカン大会カナダ代表のコーチを務めている。

通算打率.313、383HR、230盗塁、ゴールドグラブ賞7回の実績は金字塔である。カナダ人史上最高の野球選手と言っていいだろう。

バーニー・ウィリアムズ ~Guitarist~

0958プエルトリコで生まれ、少年時代から野球の他にもクラシックギターと陸上競技で才能を発揮。特に陸上競技では15歳にして世界大会で4個も金メダルを獲得するなど、同世代では世界最高の400メートルランナーであった。

1985年に17歳でニューヨーク・ヤンキースのマイナーと契約。1991年にメジャーデビューを果たし、1993年にセンターのレギュラーを獲得した。

しかし、打率は高いが長打力に乏しく、守備は上手いが肩が弱く、足は速いが盗塁はできない中途半端な選手で、扱いにくいためスタインブレイナーオーナーはトレードを画策した。

バック・ショーウォルター監督らの進言でトレードは阻止され、1995年には打率.307、18HR、82打点を打ち、173安打、93得点、8盗塁でそれぞれチームトップを記録。一皮むけて主力に躍り出た。

さらにプレーオフでは大暴れを見せ、シアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズでは打率.429を記録した。

翌シーズンはさらに成績を伸ばし、打率.305、29HR、102打点を記録。テキサス・レンジャーズとのディビジョンシリーズでは打率.497を打ち、守備面でも勝利に貢献。

続くボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦の延長11回にサヨナラHRを放ち、MVPを獲得。

0957アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでは6試合で4安打に終わったが、4打点を記録。勝負強さを見せてチームの世界一に大きく貢献した。

1997年にはオールスターとゴールドグラブ賞に初選出。1998年にも両方に選出され、打率.339首位打者のタイトルも獲得。2回目の世界一を達成し、オフに7年8750万ドルの超大型契約を結んだ。

その後ゴールドグラブ賞は4年連続、オールスターは5年連続で選出され、2002年にはシルバースラッガー賞を獲得。チームは1年も欠かさずにプレーオフに進出し続け、ヤンキース外野陣の主役として君臨。イチローもウィリアムズには憧れを抱いていたという。

しかし、契約最終年の2005年には打率.249とキャリア最低の成績に終わり、オフの契約延長では単年150万ドルの契約しか結べなかった。

2006年にはWBCプエルトリコ代表に選出。しかしオフにFAとなり、その後はしばらくメジャーから遠ざかった。

2008年にはプエルトリコの国内リーグに参加。2009年には再びWBCに出場したものの、目立った成績は残せず、表舞台から姿を消した。

その後は引退を発表せずにギタリストとして活動。ジャズ、クラシック、ポップス、ボサノバと幅広い分野でその腕前を披露していたが、2011年、アンディ・ペティットの引退会見に同席し、自らも引退を表明した。

プレーオフでの成績は素晴らしく、121試合出場、80打点、83得点といった多くの通算記録を保持している。

ラモン・マルチネス ~弟には負けられない~

0959ペドロ・マルチネスは少し野球に詳しい人なら大抵知っているが、ペドロの兄のラモンを知っているのはオールドファンかよほどのマニアだろう。

ペドロより3年早く生まれたラモンは1984年に16歳でロサンゼルス・ドジャースと契約。マイナーで順調に成長し、1988年には20歳にしてメジャーデビューを果たした。

リーグ最年少選手として迎えたルーキーイヤーは1勝3敗に終わったものの、翌シーズンは6勝4敗、防御率3.19を記録。2完投はいずれも完封とポテンシャルの高さを見せつけた。

翌1990年、20勝6敗、防御率2.92の好成績を残して一気にブレイク。リーグトップの12完投、2位の223三振を記録し、オールスターに初選出。サイ・ヤング賞の投票でも2位に入った。

ペドロ同様剛速球の持ち主で、身長193センチとペドロよりもだいぶ長身だったが、制球難を抱えており、三振も四球も多い粗削りなピッチャーであった。

波はあるもののポテンシャルは弟同様ぴか一で、1993年にはペドロとともにローテーションを守り、10勝12敗を記録したが、リーグワーストの104四球もおまけもついてきた。

ペドロのほうが自分より才能があることを知っていて、そのことを公言していたが、上背がないことを理由にペドロはオフにトレードされてしまった。

その後のペドロの活躍は知ってのとおりであるが、ラモンも1992年に8勝に終わったほかは2ケタ勝利を続け、野茂秀雄とともにドジャースのエースとして活躍。1995年にはノーヒッターを達成している。

0960しかし1998年は故障で7勝3敗に終わり、契約延長を勝ち取れずFAに。ボストン・レッドソックスに移籍し。再びペドロとチームメイトとなった。

移籍1年目はマイナーでリハビリを続け、8月に昇格。2勝1敗、防御率3.05を記録した。

翌シーズンはローテーションに入り、10勝8敗を記録したものの、防御率6.13と不安定な内容で、オフに解雇。ピッツバーグ・パイレーツに移籍したものの4試合の登板に終わり、再び解雇された。

2002年はドジャースのキャンプに参加したもののロースターには残れず、同年限りで現役を引退。現在はドジャースのアドバイザーを務めている。

通算135勝88敗、防御率3.67という数字はまさしく一流の数字であり、ペドロの兄ということを抜きにしても立派な選手である。
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