4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

3B

マイク・シュミット ~Super Phillie~

0829オハイオ大学で活躍し、1970年にはカレッジワールドシリーズに出場したシュミットは、1971年にドラフト2巡目でフィラデルフィア・フィリーズに入団した。

フィリーズの名スカウト、トニー・ルカデロはリトル時代からシュミットに注目していた。

1972年には早くもメジャー絵dビューを果たし、13試合に出場。シーズン終了後にフィリーズは正三塁手のドン・マネーを放出した。

サードのレギュラーとして迎えた1973年、打率.196ながら18HR、52打点を記録。長打力の片りんを見せつけた。

続く1974年には一気に成長を見せ、打率.282、36HR、116打点でHR王を獲得。オールスターにも選出され、一躍スターダムにのし上がった。

特に6月10日にアストロドームで距離100メートル、高さ10メートルの所に吊るされたスピーカーに打球が直撃。グランドルールでインプレーとなったが、スピーカーがなければ間違いなくHRであった。

三振が多いものの、凄まじい長打力とダイナミックな守備の持ち主で、ピート・ローズは"シュミットの体が手に入るなら全財産と妻とのトレードでもいい"とまで言った。

0830その後3年連続でHR王を獲得。1976年には4打席連続HRも達成。しかし3年連続三振王のおまけも付いてきた。

1976年にはゴールドグラブ賞を受賞。その後毎年選出され続ける。

1977年にはHR王こそ逃したものの、打率.274、38HR、101打点を記録し、オールスターとゴールドグラブ賞に選出された。

1978年には不調に終わり、ゴールドグラブ賞は受賞できたものの、オールスターには選出されなかった。しかしフィリーズの評価は高く、オフには4年3200万ドルの超大型契約を結んだ。

これはチームスポーツの選手としては史上最高年俸で、ペレすら上回る額であった。

1979年には45HR、114打点を挙げて復活。1980年には48HR、121打点で二冠とMVPを獲得。チームのワールドシリーズ制覇に大きく貢献した。

その後もフィリーズの誇る主砲として長年打ちまくったが、回旋筋を痛めたのがもとで1989年に現役を引退した。

普段はいたってクールなシュミットだったが、引退会見では無念さを熱く語った。

通算548HR、1595打点を記録し、HR王8回、打点王4回を記録。MVP3回、ゴールドグラブ賞10回、シルバースラッガー賞6回を受賞。言うまでもなくこれらはフィリーズの球団記録であり、背番号20は永久欠番である。

引退後は悠々自適の生活を送り、マイナーの指導者や解説者を少しやる以外には釣りやゴルフ、ワイン造りなどの趣味に没頭している。

1995年には資格取得1年目にして96.5%の得票率で殿堂入り。フィリーズの本拠地、シチズンズ・バンク・パークには銅像が飾られている。

ダレル・エバンス ~Howdy Doody~

0541シカゴ・カブス、ニューヨーク・ヤンキース、デトロイト・タイガース、フィラデルフィア・フィリーズに指名されたことがあったエバンスだったが、いずれも断り、1967年にドラフト7巡目でカンザスシティ・アスレチックスに入団した。

 

1968年にアトランタ・ブレーブスにトレードされ、1968年にメジャーデビュー。1972年にサードのレギュラーを獲得した。

 

抜群の長打力と選球眼を誇り、打率は高くないが、出塁率はルーキーイヤー以外三割を斬ったことがない。

 

1973年には打率.28141HR104打点、リーグ最多の124四球を記録し、オールスターに初選出。MVP投票で18位に入った。

 

その後も打率こそ低いがブレーブスの主砲としてならし、1976年シーズン途中にサンフランシスコ・ジャイアンツにトレードで移籍した。

 

ジャイアンツでは少し大人しくなったものの、1983年には30HR82打点を稼ぎ、オールスターに選出されている。

 

1984年にデトロイト・タイガースに移籍。この頃からファーストやDHでの出場も多くなり始めた。

 

移籍1年目こそ16HRに終わったものの、自身初のワールドチャンピオンに輝いた。

 

0542続く1985年には40HRを放ち、HR王のタイトルを獲得。初の両リーグでの40ホーマーであり、38歳でのHR王獲得は今なお最年長記録である。

 

その後ジャイアンツ時代以上のペースで打ちまくり、1987年には3チームでの100HRを達成。これはレジー・ジャクソン以来二人目の記録であった。

 

1988年には400HRも達成。1989年にブレーブスに復帰し、11HRを放ったのを花道に現役を引退した。

 

その後、1990年にヤンキースの打撃コーチを務め、さらに独立リーグの監督も歴任。現在はウィンターリーグのチームで監督を務めている。

 

400HRを放っているにもかかわらず、いまだに殿堂入りを果たせていない。あるライターいわく、最も過小評価されている選手だという。

エリック・ソーダーローム ~Jack pot~

05111968年に全体1位でミネソタ・ツインズに指名されたトッププロスペクト、ソーダーロームだったが、高卒ということもあって育成に時間がかかり、1971年にメジャーに初昇格し、サードのレギュラーを取ったのは1974年であった。

 

1975年に打率.28611HR58打点と活躍したものの、翌シーズンをひざの故障で全休。ツインズを解雇された。

 

このまま引退してもおかしくなかったが、11月にシカゴ・ホワイトソックスが獲得。ソーダーロームのそそいつを見込んでのことだったが、これはちょっとした博打であった。

 

結果、ホワイトソックスは博打に勝った。それも大勝ちである。ソーダーロームはサードのレギュラーとして130試合に出場し、打率.28025HR67打点を記録した。

 

カムバック賞を受賞し、翌シーズンも20HRを記録。ホワイトソックス下位打線をその長打力で盛りたてた。

 

しかし、1979年シーズン途中にテキサス・レンジャーズにトレード。

 

翌シーズンにレンジャーズからさらにニューヨーク・ヤンキースにトレードされ、主にDHとして出場。しかし怪我で1981シーズンは出場がなく、シーズン終了後に解雇された。

 

0512その後、トレーニングキャンプに参加した縁でシカゴ・カブスのスカウトに就任。ナ・リーグを担当する傍ら、自宅の庭にバッティングケージを作って野球教室を開いていた。

 

1985年にカブスを去り、シカゴでスポーツやコンサートのチケットバイヤーの事業を始め、方トラブルなどもあったものの、現在も2人の弟とともに事業を続けている。

 

通算102本のHRのうち、怪我を乗り越えホワイトソックスで打ったHR51本。ホワイトソックスはいい買い物をした。

ティム・ウォーラック ~poor man's Brooks Robinson~

0415カリフォルニア州立大学で活躍し、1979年にはゴールデンスパイク賞を受賞した名選手、ティム・ウォーラックは、1979年全体10位でモントリオール・エクスポズに入団した。

 

1980年に早くもメジャーデビュー。最初はほとんど活躍できなかったものの、1982年にサードのレギュラーを獲得。打率.26828HR97打点を記録。一躍エクスポズの主砲となった。

 

打撃もさることながら守備もうまく、名三塁手ブルックス・ロビンソンになぞらえて” poor man's Brooks Robinson”と呼ばれた。

 

1984年にはオールスターに初選出。1985年にはオールスターに加え、ゴールデングラブ、シルバースラッガー両賞を受賞。マイク・シュミットのゴールドグラブ連続受賞を9年で止めた。

 

1987年にはキャリアハイとなる打率.29826HR123打点を記録。チームも地区3.位ながらも91勝と好調で、オールスター、シルバースラッガー賞を受賞。MVP投票でも4位に入った。

 

その後もホットコーナーからエクスポズの屋台骨を支え続けていたが、だんだん成績を落としていき、1992年に打率.223に終わると、シーズン終了後にロサンゼルス・ドジャースにトレードされてしまった。

 

0414ドジャースでも移籍初年度は打率.222に終わり、完全に終わった選手となったかに思われたが、1994年に突如復活し、打率.28023HR78打点を記録。カムバック賞を受賞した。

 

その後は燃え尽きてしまったのか成績を再び悪化させ、1996年シーズン途中に解雇。エンゼルスに移籍するものの、その年限りで引退した。

 

その後は指導者に転じ、ドジャースで打撃コーチやマイナーの監督を歴任。今シーズンからドジャースの三塁コーチを務めている。

 

ゴールドグラブ3回、シルバースラッガー2回。誰もが認める80年代有数の名サードである。

サル・バンドー ~Captain Sal~

0347アリゾナ州立大学でプレーし、1965年のドラフト6順目でカンザスシティ・アスレチックスに指名され、翌1966年には早くもメジャーデビューを果たしたバンドー。

 

1986年からサードのレギュラーに定着し、パワフルで勝負強いバッティングを披露。1969年には打率自己最高の.28131HR113打点を記録。オールスターに選ばれた。

 

1970年には打率.26320HR75打点もMVP投票で2位に入り、続く1971年からはキャプテンに就任。続く1972年からのアスレチックスのMLB3連覇をホットコーナーから支えた。

 

プレーオフでは部類の勝負強さを発揮し、特にリーグチャンピオンシップゲームでは通算20試合で5HRを放っている。

 

1976年にも打率.24027HR,84打点と活躍したものの、シーズン終了後にFAでミルウォーキーブルワーズに移籍した。

 

ブルワーズでは本職のサードを中心に内野の全ポジションで起用され、1979年にはピッチャーまでやった。

 

1977年にア・リーグのサードとしてブルックス・ロビンソン以来二人目となる200HRを達成し、1981年に引退した。

 

0346引退後はフロントとして人生を歩み、1991年にはブルワーズのGMに就任。監督にアスレチックス時代の同僚フィル・ガーナーを据え、DHしかできないとしてポール・モリターを放出するなど、思い切った改革を実行するものの、思うような成績が残せず、1998年に退任した。

 

現在はアトランタ・ブレーブスのGM補佐を務める傍ら、故郷クリーブランドにほど近いコロンバスで会社を経営している。

 

1995年にイタリア系アメリカ人スポーツの殿堂入り。2006年にはシンプソンズに出演するなど、オークランドのキャプテンは今なお人気者である。

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