4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

TE

スティーブ・ジョーダン ~土台~

0760無名のブラウン大学で活躍し、土木工学を学んだジョーダンは、1982年にドラフト7巡目でミネソタ・ヴァイキングスに入団した。

下位指名とあってあまり期待はされておらず、入団してしばらくはスペシャルチームでの起用がほとんどであったが、1984年にTEのレギュラーを獲得し、14試合で38レシーブ、414ヤード、2TDを記録した。

190センチとTEとしてはやや小柄だったが、ブロッキングとレシーブの両方に長けたバランスのいい選手で、バイキングスオフェンスのキープレイヤーであった。

1986年には58レシーブで859ヤード、6TDを記し、プロボウルに初選出。以後プロボウルの常連となった。

その後6年連続でプロボウルに選出され続ける活躍を見せ、3回プレーオフに進出した。

1992年にはプロ某の選から漏れたが、28レシーブで394ヤード、2TDを記録。以前バイキングスパスオフェンスの中心であった。

0759プロレスが好きで、1993年にはWWEのMr.パーフェクトことカート・ヘニングのヒール転身のギミックに登場した。

1994年には4試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退。498レシーブはチーム歴代3位。TEとしてはトップの数字である。

引退後は大学時代の経験を活かして土木関係のエンジニアとして活躍している。

息子のカメロンもフットボーラーで、カリフォルニア大学バークレー校でDEとしてプレーし、2011年に全体24位でニューオーリンズ・セインツに入団した。

文字通り土台がしっかりできているから、親子でのプロボウルも十分にあり得る。いまから楽しみである。

ジャック・ラマーズ ~Medal of Honor~

0733名誉勲章はアメリカ軍人に授与される最高の勲章であるが、この勲章を本人が得ることは滅多にない。というのも、戦死するほどの勇気を奮わねば得られない勲章だからである。

テキサスの綿農家に生まれ、ハイスクールではフットボールと陸上の選手として活躍していたラマーズだったが、最終学年に世界恐慌が起こり、中退を余儀なくされた。

その後奨学金を得てベイラー大学に進学。その傍ら野球もプレーし、マイナーリーグでは名センターとして鳴らした。

フットボールでも活躍を見せ、エンドとしてオールアメリカンに選ばれる活躍を見せた。

1941年に陸軍航空隊が勧誘に来たため、大学を中退して航空学校に入学。学業も優秀だったのですぐに卒業するつもりであった。

パイロットとして優秀な成績を収める一方でNFLニューヨーク・ジャイアンツのキャンプに参加。ロースターに残り、月100ドルの契約でプレーすることになった。

1941年12月7日、ライバルのブルックリン・ドジャースとの試合に出場し、ハーフタイムで太平洋戦争の開戦を知った。

同年リーグチャンピオンシップに進出したものの、シカゴ・ベアーズに9-37で敗れ、1942年1月30日に海兵隊に志願した。

サンディエゴで訓練を受け、アメリカ口の基地を転々。行く先々の野球チームで主砲として活躍したという。

1944年にタラワ島で訓練を受け、海兵隊第27連隊に配属され、硫黄島上陸作戦の第一波として1945年2月19日に上陸した。

塹壕にこもり、水際で必死に抵抗する日本軍と2週間にもわたる戦いの末ようやく海岸を突破。島の中心部にあるす擂鉢山へと進撃を開始した。

0734ラマーズ中尉率いる小隊は勇敢に戦い、日本軍の陣地を3つも破壊する活躍を見せたが、3月8日、ラマーズは地雷を踏んでしまった。

両足が吹き飛び、瀕死の状態になってもラマーズは部隊を指揮し続けたが、やがて力尽き、後方の野戦病院に運び込まれた。

名医として知られたブラウン医師のものとでラマーズは8リットルもの輸血を受けたが、やがてブラウン医師は天幕から出てきて、"ジャイアンツは無敵の名エンドを失った"と周りの人間に告げた。僅か29歳であった。

戦後、死に瀕してなお部下を指揮し続けたラマーズの勇気ある行動に対して名誉勲章が授与された。

だが、ラマーズはこの世にはいない。死んだあとに勲章をもらうよりも、ジャイアンツでもっと活躍した方が良かったのではないだろうか。

今は故郷テキサスに眠るラマーズ。彼の人生果たしては幸せな人生だっただろうか。

ジョン・マッキー ~Plan 88~

0626フットボールは過酷な競技である。NFLのスーパースターであっても、多くは引退後にも現役時代の怪我で苦しみ続け、若くして世を去る選手も多い。

 

だが、選手会はそういった選手に対してどうも冷たいところがある。今回のジョン・マッキーも、選手会会長を務めながら、かなりひどい目に遭った。

 

シラキュース大学で活躍し、1963年にドラフト2巡目でボルチモア・コルツに入団したマッキーは、1年目から先発TEの座を獲得し、35レシーブで726ヤード、7TDを記録。プロボウルに選ばれた。

 

たぐいまれなスピードとレシーブ力でジョニー・ユナイタスとホットラインを結成。レシーブ当たり10ヤードを割ったことは1回もなかった。

 

1966年から3年連続でオールプロに選ばれ、1968年には自己最高の55レシーブで644ヤード、5TDを記録し、チームの地区優勝に貢献。しかし、ジョー・ネイマスの予告勝利に沸く第3回スーパーボウルに敗れ、醜態をさらすことになった。

 

しかし、マッキーのスーパーボウルと言えば、やはりダラス・カウボーイズとの第5回スーパーボウルである。

 

13-13で迎えた第4クォーター終盤、ユナイタスの投じたパスはコルツのWRエディ・ヒントンの手に収まるかに思われたが、ヒントンはこれを弾いてしまった。

 

これをカウボーイズの名CBメル・レンフロがキャッチしようとしたが、レンフロも弾き、結局マッキーがキャッチした。

 

このスーパープレーの直後、コルツは残り5秒で勝ち越しのFGを決め、ビンス・ロンバルディトロフィーをボルチモアに持ち帰った。

 

06251972年にサンディエゴ・チャージャーズに移籍し、同年限りで引退。現役時代から選手会会長を務めており、年金問題をめぐってのストライキを主導した。

 

1992年にTEとしてマイク・ディトカに次ぐ殿堂入り。その後は悠々自適の生活を送っていたが、若かりし日の無理がマッキーをむしばみつつあった。

 

無理が肉体に来た選手はまだいい。マッキーは認知症になったのだ。

 

疑り深くなって財産を気にするようになり、コルツのマービン・ハリソンが自分の着けていた背番号88を着けているのを見て激怒したともいう。

 

症状が進んで老人ホームに入ることになったが、選手会は選手生活と認知症の関連を否定し、年金を出し渋った。

 

これにファンが立ち上がり、”Plan 88”と呼ばれる運動がおこり、選手会に年金の支払いに応じさせ。

 

安心して老後を過ごせるようになったマッキーは、201176日、69歳でこの世を去った。

 

NFLはとてつもなく儲かっている。年金ぐらい気前良く出しても良いではないか。

トッド・クリステンセン ~スターへの道~

0488子供のころから驚異的な身体能力を誇り、9歳児の陸上競技世界記録をもつというクリステンセンは、RBとしてブリカムヤング大学で活躍。3回オールカンファレンスに選ばれる活躍を見せた。

 

1978年にドラフト2巡目でダラス・カウボーイズに入団。FBとして起用されたが、プレーシーズンに足を骨折してカットされた。

 

1979年にニューヨーク・ジャイアンツと契約。1試合プレーしたが、シーズン途中途中にオークランド・レイダーズに移籍。レイダーズでTEにコンバートされた。

 

レイダーズでも最初の3年間は芽が出なかったが、1982年シーズンから先発の座をつかみ、9試合に短縮されたシーズンで42レシーブ、510ヤード、4TDを記録。苦節5年、やっとスターへの一歩を踏み出した。

 

04871983年にはリーグ最多の92レシーブ、1247ヤード、12TDを記録。プロボウルとオールプロに選出され、チームのスーパーボウル制覇に貢献し、チャンピオンリングを手にした。

 

リーグ有数のTEとしての地位を獲得したクリステンセンの勢いはとどまるところを知らず、毎年プロボウルに選出され続け、1986年には95レシーブで2度目の最多レシーブを記録した。

 

しかし、その後は成績を落としていき、それに伴ってチームの成績も下降線をたどるようになり、1988年、先発の座を失い現役を引退した。現在は解説者を務めている。

 

5回もプロボウルに選ばれた正真正銘のスター、クリステンセンだったが、キャリア序盤はポジションやチームを転々とし、恵まれたものではなかった。こういうことがあるから人生は楽しい。

ベン・コーツ ~Big Ben~

0417高校時代はフットボールをプレーせず、Div.Ⅱのリビングストン大学でフットボールを始めたコーツは、大学の記録をことごとく塗り替え、1991年にドラフト5巡目でニューイングランド・ペイトリオッツに入団した。

 

5巡目指名ということもあってあまり期待はされておらず、最初の2年はたまに先発する程度の控えにすぎなかった。

 

しかし、3年目の1993年にジム・パーセルHCQBドリュー・ブレッドソーが加入するとその運命は変わった。

 

ブレッドソーとホットラインを結成し、チームトップの53レシーブで659ヤード、8TDを記録。一躍チームの重要なパスターゲットに上り詰めた。

 

続く1994年には当時のTE記録となる97レシーブ、1174ヤード、7TDを記録。オールプロとプロボウルに選ばれた。

 

1995年にもプロボウルとオールプロに選ばれ、1996年には62レシーブ、682ヤード、9TDを記録。レギュラーシーズン最終戦のジャイアンツ戦では23-23で迎えた試合終盤に12ヤードのTDレシーブを決め、チームを勝利に導いた。

 

0416チームはプレーオフも順調に勝ち進み、スーパーボウルに進出。コーツは6レシーブで66ヤード、1TDと気を吐いたものの、チームはグリーンベイ・パッカーズの前に敗れた。

 

その後も1998年まで5年連続でプロボウルに選ばれるなど活躍したが、1999年に32レシーブで370ヤード、2TDに終わり、シーズン終了後にボルチモア・レイブンズに放出された。

 

レイブンズでは控えに回ったものの、チームはスーパーボウルに進出し、勝利。チャンピオンリングを手にコートを去った。

 

引退後は大学に復学し、その後はNFLヨーロッパやブラウンズ、カウボーイズ、ペイトリオッツでコーチやディレクターを歴任している。

 

シャノン・シャープと並ぶ90年代最高のTEコーツ。90年代のオールディゲートチームに選ばれている。

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