4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

FB

クリスチャン・オコイエ ~The Nigerian Nightmare~

0562ナイジェリアで生まれ、投擲競技の選手として頭角を現し、1981年に20歳でアズサパシフィック大学に留学したオコイエだったが、英語はほとんどしゃべれなかったという。

 

この頃フットボールを始めて知るが、その時の感想は乱暴で退屈なスポーツというものであった。

 

円盤、砲丸、ハンマー投げで大学のタイトルを総なめにしたが、何故かオリンピックの代表に選出されず、フットボールを始めた。

 

当初は乱暴なフットボールを嫌がったオコイエだったが、友人の説得で続けるうちに素質を開花させ、1987年にドラフト2巡目でカンザスシティ・チーフスに入団した。

 

1年目から先発FBとして起用され、660ヤード、3TDを稼いだが、翌シーズンは故障で473ヤードしか稼げなかった。

 

万全の状態で臨んだ3年目についに真価を発揮し、リーグ最多の370キャリーで1480ヤードを走り、リーディングラッシャーに。オールプロとプロボウルに選出された。

 

身長185センチと当時のRBとしてはかなりの巨漢であったが、その巨体に見合わないスピードと驚異的パワーを兼ね備えており、タックルされてもディフェンダーを引きずってそのままエンドゾーンへ突進する姿は相手チームの恐怖の対象であった。

 

0561手のつけられないパワーの証拠に、ついたあだ名は” The Nigerian Nightmare(ナイジェリアの悪夢)”であった。

 

1991年にも1031ヤードを走ってプロボウルに選出。その後はひざの故障を悪化させて出場機会を減らしたが、ここぞという場面の爆発力は衰えておらず、もっぱらエンドゾーン付近で起用された。

 

1992年に現役を引退。6年のキャリアで走った4897ヤードはチーム歴代2位の記録である。

 

引退後に語ったところによると、練習が辛いのでフットボールは仕事と割り切っていたという。

 

現在はハイスクールのコーチを務める傍ら、野球の独立リーグに出資したり、サプリメントを販売したりと手広く活動している。

ラリー・センターズ ~最後のFB~

0518現在NFLのフルバックと言えば、最大の仕事はRBのリードブロックとパスプロテクションである。ボールキャリーの機会は少なく、たまにパスレシーブをする程度である。

 

しかし、昔はランもパスレシーブもFBの大事な仕事であった。ボールキャリーとして最高にして最後のFB、ラリー・センターズが今回の主人公である。

 

ステファン・F・オースティン州立大学で活躍し、1990年にドラフト5巡目でフェニックス・カージナルスに指名されたセンターズだったが、最初の2年はKRとしてプレーした。

 

3年目の1992年に50レシーブ、417ヤード、2TDを稼いで頭角を現すと、66レシーブ、77レシーブとレシーブを確実に増やしていった。

 

1995年、412敗と散々の成績に終わったカージナルスの数少ない明るい話題がセンターズの成長であった。

 

成績はなんと101レシーブで962ヤード、2TD101レシーブはFBとしてシーズン最多の記録である。

 

さらにランで254ヤード、2TDを稼ぎ、プロボウルに初選出。古き良きFBの晴れ舞台であった。

 

1996年にも99レシーブで766ヤード、7TDでプロボウルに選ばれ、リーグ有数のFBとなった。

 

1999年にワシントン・レッドスキンズに移籍。第16週のサンフランシスコ・49ers戦ではオーバータイムに33ヤードのTDパスをレシーブするなど、ボールキャリアーとして活躍。

 

一方で時代の流れにもしっかり乗り、この年大ブレイクしたステファン・デービスのリードブロッカーとしても活躍。デービスはリーグ最多の17ラッシングTDを記録した。

 

05172001年にはバッファロー・ビルズに移籍。80レシーブで620ヤード、2TDを記録し、5年ぶりにプロボウルに返り咲いた。

 

2003年にニューイングランド・ペイトリオッツに移籍。先発は退いたもののここぞという場面でのレシーブは健在。さらにブロッカーとしても円熟味を増し、スーパーサブとしてチームに貢献。

 

チームは第38回スーパーボウルに進出。カロライナ・パンサーズとの激戦を制し、センターズは初のスーパーボウルリングを手にした。

 

同年限りで現役を引退。通算827レシーバーはFBとして史上最多。WR以外のポジションとしてはTEのトニー・ゴンザレスに次ぐ大記録である。

ダリル・ジョンストン ~エミットのために~

0091RBの影には必ず素晴らしいリードブロッカーがいる。今回の主人公、ダリル・ジョンストンはその最たる例と言えよう。

 

シラキュース大学で1988年、1989年にオールアメリカンに選出され、1989年のドラフト2巡目でダラス・カウボーイズに指名されたジョンストン。

 

FBとしてのランもさることながら、レシーブやパスプロテクションの名手でもあり、1年目から16レシーブで133ヤード、3TDを記録している。

 

2年目の1990年にエミット・スミスが入団してくると、リードブロッカーとして真価を本格的に発揮し始めた。スミスに立ちはだかるディフェンダーを跳ね飛ばすジョンストンの姿にダラスのファンは熱狂した。

 

その活躍ぶりはダラスにとどまらずNFL全体に衝撃を与え、1993年にはプロボウルの投票にFBの枠が新設され、記念すべき1人目にはもちろんジョンストンが選ばれた。

 

固い友情で結ばれたスミスとジョンストンは二人三脚でラッシングヤードを稼いでいったが、やがて2人にも別れの時は来た。

 

0092首の故障でジョンストンはだんだん試合に出られなくなり、1999年、ついに引退した。

 

ジョンストンの出場機会が減っていくにつれてスミスの成績もだんだんと落ちていった。

 

しかし2002年、スミスは偉大な記録を達成する。ウォルター・ペイトンが持っていたラッシングヤードのNFL記録を塗り替えたのだ。

 

記録達成の瞬間、解説者に転じていたジョンストンは放送席にいた。ジョンストンはフィールドに降りて行き、スミスと泣きながら熱い抱擁を交わした。

 

“ジョンストンがいたから今の自分がいる”

 

エミットは引退会見で涙ながらにそう語った。リードブロッカーたるもの、こうありたいものである。

マイク・オルストット ~A-Train~

現在のNFLではRBはほとんど黒人で、白人は皆無といっていい。瞬発力はどうやっても黒人の方が有利だから、当然と言えば当然である。

 

0049マイク・オルストットは例外的な存在である。白人で、しかも特別に俊敏でもないが、NFLを代表するRBの一人であった。

 

パデュー大学で通算39TDを記録し、チームMVP3度も選ばれたオルストットは、1996年にドラフト2巡目でタンパベイ・バッカニアーズに入団した。

 

入団1年目から16試合すべてに先発出場。驚異的パワーを誇り、3rdダウンショートでのランは敵チームの脅威であった。


FBとして377ヤード、3ラッシングTDを記録。パスレシーブも上手く、さらに65パスレシーブで557ヤード、3タッチダウンを記録している。

 

FBでありながら、リードブロッカーよりもボールキャリアーとして力を発揮するタイプで、身長182センチながら112キロの巨体を武器に、ラインをぶち破り、敵を引きずりながらエンドゾーンに突入する姿は“A-Train”のニックネームにふさわしいものだった。

 

1997年には665ヤード、7TDを記録。プロボウルとオールプロに初選出。以後プロボウルは6年連続、オールプロは3年連続で選出される。

 

2000年のプロボウルでは3TDランを記録。これは現在でもプロボウル記録である。

 

2002年には自己最高の10TDランを記録。チームも初のスーパーボウルに出場し、オルストットもバッカニアーズ史上初のスーパーボウルでのTDを記録。チームのスーパーボウル初制覇に大きく貢献した。

 

0050その後は首の故障で成績は下降戦をたどり、2007年はついに1試合にも出場できず、そのまま引退した。

 

ランで58、レシーブで13の合計71TDを記録。バッカニアーズのTD最多記録である。

 

引退後は解説者を務めるほか、レストランを経営したり、フットボールキャンプを開いたりと活発に活動している。

 

バッカニアーズ史上最高のRBにしてNFL史上屈指のパワーバック、“A-Train”の背番号40はバッカニアーズの永久欠番である。

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