ホノルルで生まれ育った銀縁眼鏡の小柄な日系四世、サカタの華麗な守備はゴンザガ大学時代から有名であった。

 

0217当時のゴンザガ大の最多記録となる68打点を稼ぎ、1974年にはオールアメリカンのファーストチームに選ばれ、1975年に全体10位でミルウォーキー・ブルワーズに入団した。

 

1977年にメジャー初昇格。日系人として、同時にアジア系としてライアン・クロサキ以来二人目のメジャーリーガーとなった。

 

小柄な体躯故に打撃は非力で、シーズン100安打を記録したことは一度もなかったが、抜群の選球眼を誇り、セカンドとショートを中心に内外野どこを守らせても名手で、スーパーサブとしてMLBの世界を渡り歩いた。

 

1980年にはボルチモア・オリオールズに移籍。主にセカンドとショートを守り、1983年のワールドシリーズ制覇に貢献。1984年にはオリオールズの一員として日米野球に参加している。

 

サカタの器用さを証明するエピソードであり、キャリアのハイライトでもある有名なプレーがある。

 

1983824日のトロント・ブルージェイズ戦の33で迎えた延長10回表、キャッチャーを使い果たしてしまったオリオールズは、8回からセカンドの守備固めについていたサカタを急きょキャッチャーとして起用した。

 

いくらサカタが器用とはいえ、キャッチャーをやるのは初めてである。

 

HR1点を奪われ、更に2本の安打と1つの四球で3人の打者が出塁したが、急造捕手で強肩でもないサカタを甘く見て3人とも大きなリードを取った。

 

これが命取りとなり、3人とも牽制球で一塁アウト。サカタとオリオールズは修羅場をくぐりぬけた。

 

さらに裏の攻撃でトップバッターのカル・リプケンのHRで追いつくと、二死一二塁で打席に立ったサカタはサヨナラHRを放ち、勝負を決めた。

 

1986年にオークランド・アスレチックスに移籍。さらに翌年にはニューヨーク・ヤンキースに移籍し、同年限りで現役を引退した。

 

0218オフに内野の人材難に陥っていたNPB南海ホークスが獲得に動き、契約寸前までこぎつけたというが、長打力のなさがネックとなり、破談となった。

 

引退後は持ち前の野球理論を生かして指導者の道を歩み、マイナーのコーチや監督を歴任。

 

1995年にはボビー・バレンタイン監督とともに千葉ロッテマリーンズの二軍監督に就任。バレンタインが去った後も1998年まで2軍のコーチを務めた。

 

その後もマイナーで名将の名を欲しいがままにし、2008年にロッテの二軍監督に復帰。2009年まで務めた。現在もマイナーで打撃コーチを務めている。

 

小型、ハイテク、高性能。日本製品の鏡のような男である。