4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

PF

チャールズ・バークリー ~空飛ぶ冷蔵庫~

0983バークリーといえば横幅の大きい体型であるが、これはどうやら生まれつきのものらしい。ハイスクールでは1年時は身長が178センチしかなかったにも関わらず、体重はなんと99.8キロもあったという。

その後身長は198センチまで劇的に伸び、オーバーン大学に進学。当初はあまり目立つ選手ではなかったが、体型を生かした支配力と意外なまでの跳躍力を武器に頭角を現し、ロサンゼルス五輪の候補にもなった。

1984年に全体5位でフィラデルフィア・76ersに入団。当時のシクサーズはスターのそろった強豪であったが、バークリーは1年目からPFのレギュラーを獲得。3年目の1986-1987シーズンには平均14.6リバウンドでリバウンド王を獲得し、オールスターに初選出された。

193センチとも言われる低身長でありながら体重は120キロもあり、それでいてスピードもスタミナも一級品という稀有な存在で、攻守どこを見ても非常にうまく、隙のない万能選手であった。

2メートルに満たないバークリーがフロントコートで大男を跳ね飛ばす姿は爽快の一言で、日本でも人気があり、カップラーメンのCMに出たり、ナイキのCMでゴジラと闘う姿を覚えている読者も多いだろう。

しかし、バークリーの活躍とは裏腹にチーム成績は落ち込み、チームと確執を作ったバークリーは移籍を志願。ドリームチームに選ばれた1991-1992年シーズン終了後にトレードでフェニックス・サンズに移籍した。

サンズではPGケビン・ジョンソンとともにチームをけん引し、62勝20敗という驚異の成績をマーク。これはジョーダン率いるシカゴ・ブルズすらしのぐ数字であった。

バークリーはMVPを受賞し、チームはファイナルに進出。しかし、ブルズ相手には分が悪く、初優勝はならなかった。

その後バークリーは故障で休みがちとなり、チームにもそれが伝染したのか負傷差者が続出。ブルズに引けを取らないスター軍団でありながらサンズはなかなか勝ちきることができず、バークリーはここでもオーナーと確執を作りだした。

0984そして1995-1996シーズン終了後、チャンピオンリングがどうしても欲しいバークリーは、目下二連覇中のヒューストン・ロケッツに移籍。しかし、このシーズンジョーダンがブルズに復帰し、ロケッツはファイナルに進出できず、バークリー自身も故障の影響か得点力を大きく落とした。

その後ひざの故障を悪化させたバークリーは68試合、42試合と年々出場が減り、1999-2000シーズンにはついに20試合まで出場が減り、同年を持って現役を引退した。

リングはついに手にできなかったが、通算20000得点、10000リバウンド、4000アシストを超えた選手はバークリーを含めて5人しかいない。

2004年に殿堂入り、背番号34は76ersとサンズで永久欠番になっている。

引退後は趣味のギャンブルを存分に楽しむ他(通算で1000万ドル以上も損をしているらしい)、アラバマ州の知事選挙に出馬するという噂が選挙のたびに聞かれる。

相方のジョンソンがサクラメント市長になったくらいなので、バークリーも出馬すれば知事になれるかもしれない。

デニス・ロッドマン ~Warm~

0954スラムから這い上がったNBA選手は少なくないが、ロッドマンほどひどい前半生を送った選手はそう多くないだろう。

ベトナム帰りのパイロットだった父親に見捨てられ、テキサスで最も治安の悪いスラムでロッドマンは生まれ育った。

当時のロッドマンは内向的な少年だったが、バスケットの優秀な選手だった姉と妹の影響でバスケットを始めた。しかし背が低く、レイアップも満足に決められなかったためハイスクールでは落ちこぼれ、ますます屈折してしまった。

卒業後は空港の警備員として空港の床に寝泊まりする生活を送った。このころ身長が急激に伸び、そのことからますます内向的になり、同性愛の傾向もみられるようになったという。

ホームレス生活や万引きで生計を立てるすさんだ生活を送っていたが、妹友人の勧めでクッキー群短大に進学。その後Div.Ⅱのイーストサウザンオクラホマ州立大に進んだが、オクラホマは人種差別がひどい地域で、道を歩くだけでも罵声が飛んだという。

このころ、大学のキャンプに参加したロッドマンのプレーを熱心に見るひとりの若者がいた。ハンティングの最中に誤って親友を射殺してしまい、心に傷を負ったブライン・リッチーという青年であった。

心に傷を負った二人は意気投合し、ブラインは実家の大農園にロッドマンを招き入れた。

ブラインの家族はロッドマンが黒人であったことから最初は怪訝な目で見たが、ブラインがショックから立ち直るのを見てその考えを改めた。母親から勘当されていたロッドマンは大学時代をこの農園で過ごした。特にブラインの父親、ジェームズには薫陶を受けた。

精神的に安定したことからめきめきと頭角を現し、NBAからも注目を受けるようになり、1986年にドラフト2巡目でデトロイト・ピストンズに入団。この時すでに25歳であった。

1年目から控えながら積極的に起用され、平均4.3リバウンドを記録。続く1987-1988シーズンには32先発ながら平均8.7リバウンドを記録した。

1989-1990シーズンにはピストンズの初優勝に貢献し、1990-1991シーズンからはPFのスターターに定着し、チームは連覇を果たした。

堅牢なディフェンスを誇るピストンズの中でもひときわディフェンスに長けた存在で、シュートよりもリバウンドに快感を覚え、オフェンスにはあまり関心を示さなかった。

0953翌シーズンは平均18.7リバウンドを記録してリバウンド王に輝きいたものの、恩師と仰ぐチャック・デイリーHCが辞任したことからモチベーションを失い、キャンプ参加を拒否して罰金を払っている。

さらに女優と結婚したものの3か月と持たずに離婚。精神的に落ち込んだロッドマンはトラックの車中でライフル自殺を図ったが、"自分の中のもう一人の自分"を撃ち殺して生まれ変わり、平均18.3リバウンドで2年連続のリバウンド王を獲得した。

1993-1994シーズン開幕前にサンアントニオ・スパーズにトレード。相変わらずリバウンド王を獲得したが、このころからますます奇行が目立つようになった。

毎日のように髪の毛を奇妙な色に染め直し、マドンナと交際。ゲイバーに行ったことで糾弾されたジャック・ヘイリーをかばい、親友となるなど何をしでかすのかわからないキャラクターを確固たるものにし、さらにデビッド・ロビンソンと対立した。

結局1995年にシカゴ・ブルズにトレード。かつてのライバルチームであるピストンズの中心であり、スコッティ・ピッペンと乱闘沙汰を起こしたこともあるロッドマンの加入は不安視された。

しかし、ロッドマンはブルズに思いのほか順応した。ピストンズ時代から知られていた猛練習で複雑なトライアングルオフェンスをすぐにものにし、シュートが下手なことを逆手にとってパスでジョーダンやピッペンにボールを渡すことでアシストを増加させ、リバウンド王にも相変わらず君臨。ブルズのスリーピートの原動力となった。

このころ自伝"ワルがままに"を出版。マドンナとの交際、スパーズやロビンソンへの批判など過激な内容で夕目されたうえ、ロッドマンはサイン会にウェディングドレスで出席。女装癖を隠すどころか人に見せびらかした。

1998-1999シーズンはしばらくFAで過ごし、シーズン後半にロサンゼルス・レイカーズに移籍。しかし23試合しか出場できず、リバウンド王の記録は7年連続で途切れることになった。

翌シーズンはダラス・マーベリックスに移籍。しかし12試合しか出場できず、同年限りで現役を引退した。

引退後は映画出演やプロレスへの参戦を頻繁に行い、ファンに奇人健在をアピール。殿堂入りは正直難しいとも言われていたが、2011年に殿堂入り。さらに背番号10はピストンズの永久欠番となった。

殿堂入りにあたって泣きながらスピーチを行い、デイリー、ジャクソン両HC、レイカーズのジェリー・バスオーナー、そしてジェームス・リッチーに感謝の言葉を述べた。

このほかにも最優秀守備選手のタイトルを獲得した際にも男泣きしたりと、変人だが熱い男である。

ちなみに先日、ニューヨークのストリップクラブが企画したトップレスバスケットチームのHCに就任。ストリッパーが上半身裸でバスケットをやるというユニークな企画で、本人はいたって真面目にコーチングするつもりだそうだが、いろいろと波紋を呼んでいる。

クリス・ウェバー ~Time Out~

0920デトロイトで生まれ、ハイスクールでは全米最優秀選手に選ばれたウェバーは、地元ミシガン大に進学。ウェバーとジェイレイン・ローズ、ジュワン・ハワードら同期入学の5人は"Fab Five"と呼ばれ、スターター全員が1年生でありながらNCAAトーナメントファイナルに進出する快挙を果たした。

続く1992-1993シーズンも5人の活躍でファイナルに進出。ノースカロライナ大学と対戦した。

しかし、2点ビハインドで迎えた残り11秒、ウェバーはすでに使い切ってしまっていたタイムアウトを要求し、テクニカルファウルでフリースローを取られた。これが利いてミシガン大は年連続で優勝を逃した。

ウェバーの心情を察したクリントン大統領は電話で直接ウェバーを慰めた。

ネイスミス賞とウッデン賞の候補にもなり、翌シーズンの雪辱が期待されたが、ウェバーを今度はスキャンダルが襲う。

ブックメーカーから2年間に20万ドルを受け取った疑いで両賞の候補から取り消された。この事件はミシガン大バスケットチーム全体を巻き込む大問題となり、同大から20年の出入り禁止を言い渡されたウェバーは2年生でアーリーエントリーした。

2年生でありながらウェバーはドラフトの目玉となり、全体3位の指名権を持つゴールデンステート・ウォリアーズが狙っていた。

全体1位の指名権を持つオーランド・マジックがウェバーを指名する可能性があり、指名権を譲渡する約束でマジックにウェバーを指名してもらい、ウォリアーズがマジックが指名を狙っていたアンファニー・ハーダウェイを指名して即日トレードするという方法でウェバーはウォリアーズに入団した。

1年目から76試合に出場し、平均17.5得点、9.1リバウンド、3.6アシスト、1.2スティール、2.2ブロックを記録。文句なしの新人王に選出されたものの、起用法やプレースタイルの問題からドン・ネルソンHCと対立し、キャンプへの参加を拒否。わずか1年でワシントン・ブレッツに放出された。

ブレッツでも高いポテンシャルを誇ったものの、故障で出場が少なくなってしまい、1998年にトレードでサクラメント・キングスに放出された。

キングスでは1年目から平均13.0リバウンドを記録し、リバウンド王を獲得。故障が多いのは相変わらずであったが、キングスのスターとして3回オールスターに選出された。

フォワードとは思えないハンドリングとシュートの精度を持ち、非常に身体能力に優れていたが、自分勝手でリーダーシップに欠け、さらに2003年に手術をして以来スピードにも陰りが見えるようになり、2004年にフィラデルフィア・76ersに放出された。

0919チームになじむのに時間はかかったが、順応してからはアレン・アイバーソンと並ぶチームの柱となり、2005-2006シーズンには二人合わせて平均53.2得点を記録。

しかし、チームはなかなか勝ちきることができず、翌シーズンにはアイバーソンが放出され、ウェバーもシーズン途中に解雇された。

解雇直後に地元デトロイト・ピストンズと契約。背番号4はジョー・デュマースの永久欠番になっていたため、ウェバーの甥が夢で見たという"84"を着けた。

地元出身とあってウェバー自身も張り切り、それなりの成績を残したものの、翌シーズンはウォリアーズと契約。しかし9試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退した。現在は解説者を務めている。

チームを勝たせることができないと陰口をたたかれる選手人生だったが、90年代最高のPFの一人だったことは疑いの余地がなく、背番号4はキングスの永久欠番となっている。

ちなみにウェバーのファンクラブの名前は、"タイムアウト"だという。

ブライアン・グラント ~The General~

0911ザビエル大学で活躍し、2度のカンファレンスMVPを獲得したグラントは、1994年に全体8位でサクラメント・キングスに入団した。

1年目から巧みなディフェンスとリバウンドでフロントコートを支配し、平均13.2得点、7.5リバウンドを記録。オールルーキーに選ばれた。

1997年に大型補強を進めていたポートランド・トレイルブレイザーズに移籍。この頃からトレードマークであるドレッドヘアを伸ばし始めた。

当初はスターターとして起用されたものの、1999-2000シーズンには63試合の出場で14先発と控えに追いやられ、スターターの立場を求めてシーズン終了後にマイアミ・ヒートに移籍した。

控えとはいえ平均7.3得点、5.5リバウンドと成績は今一つであったが、7年8600万ドルの大型契約を結び、動議を醸し出した。しかし、パット・ライリーGMはグラントがヒートに必要と信じて疑わなかった。

結果としてこの契約は上手くいった。腎臓病でチームを離脱したアロンゾ・モーニングの代わりとして専門外のセンターでプレー。全試合に出場し79試合に先発した。

身長206センチとセンターにしては小柄だったが、このシーズンキャリアハイとなる平均15.2得点、8.8リバウンドを記録。信頼を得ることに成功した。

0912同郷で南北戦争の英雄であるグラント将軍にちなんで"The General"と呼ばれ、PFに復帰して以降も高い支配力を誇っていたが、故障で徐々に成績を悪化させ、2004年に他の3選手とともにシャキール・オニールとのトレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。

レイカーズでは控えとして69試合に出場したものの、平均3.8得点、3.7リバウンドと自己最低の成績に終わり、シーズン終了後にフェニックス・サンズに移籍。しかし成績はさらに悪化し、同年を持って現役を引退した。

NBAでも有数の慈善家として知られ、引退後も熱心にチャリティー活動を行っていたが、2008年にパーキンソン病に罹っていることを告白。チャック・デイリーやウェイマン・ティスデイル、ケビン・ダックワースらの死をきっかけに公表に踏み切ったという。

他人の助けは受けたくないとのことで、食事管理を徹底し、現在は多少持ち直して闘病中とのことである。

今まで難病の子供を数知れず助けてきたのだから、グラントの病気が治らないわけがない。私は彼を心から応援したい。

ラリー・ジョンソン ~LJ~

0796ネバダ大学ラスベガス校で1990年にNCAAトーナメントを制し、ネイスミス賞とウッデン賞を受賞したジョンソンは、1991年に全体1位でシャーロット・ホーネッツに入団した。

ルーキーイヤーから77試合に先発し、平均19.2得点、11.0リバウンド、3.6アシストを記録。堂々の新人王を受賞した。

201センチとPFとしては小柄ながら、タフさでそれを補い、スリーポイントも沈められるシュート能力と高いパスセンスも併せ持ったオールラウンダーであった。

続く1992-1993シーズンはリーグトップの平均40.5分の出場で22.1得点、10.5リバウンド、4.3アシストを記録。オールスターに選出された。

シーズン終了後に12年総額8400万ドルの超大型契約を結んだが、キャンプで故障してしまい、1993-1994シーズンは31試合を欠場した。

しかし、1994年にはドリームチームⅡに選ばれて金メダルを獲得するなど、"フューチャー・ブルズ"と呼ばれた若いホーネッツの中心として活躍を続けた。

0795だが、その後ホーネッツのメンバーは相次いで放出されるようになり、ジョンソンもそのあおりで1996年にニューヨーク・ニックスに放出された。

ニックスでは移籍1年目こそ成績を落としたものの、その後持ち直し、1998-1999シーズンにはチームのファイナル進出に大きく貢献した。

特にインディアナ・ペイサーズとのカンファレンスファイナル第3戦では、ラスト11秒でスリーポイントを決めた直後にファールからフリースローをもらい、これをを決めてチームは92-91で勝利した。

1999年にはイスラム教に改宗し、ラマダン(断食月)を行ってシーズンに臨んだものの、慢性的な腰の故障から衰え始め、チーム批判をしてトラブルを起こすなどし、2000-2001シーズンにわずか31歳の若さで現役を引退した。

引退後の2007年にはリーダーシップをとる選手としてニックスでの現役復帰を目指したが、流石にこれは失敗に終わっている。
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