4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

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ロニー・サイカリー ~The Spin Doctor~

0982ベイルートで生まれたサイカリーは、9歳でギリシャに移り住み、当地でバスケット、サッカー、陸上競技で活躍。特にバスケットでは17歳にしてギリシャの名門パナシナイコスでプレーするなど活躍した。

しかし、ギリシャ国籍がないために国際大会に出場できず、そのことを理由にNBAを目指してアメリカ国籍を取得。シラキュース大学に進学した。

同大学でセンターとして輝かしい成績を残し、リバウンドで歴代1位、ブロックで2位の通算成績をマーク。1987年にはNCAAトーナメントで決勝まで進出した。

レバノン代表に名を連ねたこともあったが、既にアメリカ国籍を持っていたので1986年の世界選手権ではアメリカ代表に選ばれ、金メダルの獲得に貢献した。

1988年に全体9位で新設のマイアミ・ヒートに入団。同球団最初のドラフト指名選手となった。

身長211センチとセンターにしては小柄だったが、強靭なフィジカルとスピードでこれを補い、1年目からスターターとして活躍。78試合に出場して平均10.9得点、7.0リバウンド、1.2ブロックを記録した。

翌シーズンにはさらに成績を伸ばし、平均16.6得点、10.5リバウンド、1.7ブロックを記録。MIPを受賞した。

ローポストでスピンを多用することからついたあだ名は"The Spin Doctor"と呼ばれ、黎明期のヒートを攻守に支え続けてきたが、1994年にゴールデンステート・ウォリアーズにトレード。

0981ウォリアーズでは移籍1年目に35試合しか出場できないなど出場危機を減らしてしまい、1996年にオーランド・マジックにトレード。

翌シーズン途中にユタ・ジャズにトレードが画策されたもののトラブルで流れ、結局ニュージャージー・ネッツに移籍。しかしネッツではほとんど出場できず、1998-1999シーズン途中でウェーバーになった。

その後再びヨーロッパへ渡り、2000-2001シーズンはバスケットでも強豪のFCバルセロナでプレーし、同年で現役を引退した。

引退後はレストランを経営するほか、DJとしても活動。ゴルフトーナメントも主催するなど、趣味を満喫しながら第二の人生を送っている。

ビル・レインビア ~Public Enemy~

0905NBA選手にはスラム出身の選手が少なくない。彼らは一様に並はずれたハングリー精神の持ち主で、それがプレーの質につながっている。

一方、まったく逆の方向でプレーの質を維持していた選手がいる。今回の主人公、ビル・レインビアである。

大企業の重役の父を持ち、ノートルダム大学に進学したレインビアだったが、勉強嫌いで単位が取れず、1年生のシーズンはプレーできなかった。

その後同大学で活躍し、1979年にドラフト3巡目でクリーブランド・キャバリアーズに指名されたが、契約が遅れたためイタリアに渡り、同地で優秀な成績を残した。

翌シーズンからNBAに参加し、平均9.8得点、8.6リバウンド、1.0ブロックを記録。翌シーズン途中にデトロイト・ピストンズに移籍した。

ピストンズでは不動のセンターとなり、1985-1986シーズンには平均13.1リバウンドでリバウンド王を獲得。NBA最強最悪を誇った"バッド・ボーイズ"の中心として君臨した。

身体能力は低かったが、センターとは思えないロングシュートの精度を持ち、バックコートとの連携も抜群であった。しかし、それはレインビアにとってはおまけでしかない。

レインビアの最大の特徴はその凶暴さであった。いかにピストンズの面々とはいえ、審判の見ているところではラフプレーはやらない。しかし、レインビアは平気でやった。

0906"父親の方が高給な唯一のNBAプレイヤー"と言われていたように大金持ちの生まれで、首になろうが追放されようが平気で、バスケットが嫌いなふしさえあった。

それゆえファンサービスも悪く、サインを求める子供を怒鳴りつけて追い払い、記者への対応も似たようなものであった。

デトロイトのファンからの人気は絶大であったが、それ以外の人間からの評判は最悪で、ついたあだ名は"Public Enemy(公共の敵)"であった。

勝利の執念と敵への憎悪だけでプレーを続け、忌み嫌われながらもピストンズの中心として活躍。彼なくして1989年1990年の連覇はなかった。

しかし、連覇の後は年齢から成績が落ち、1993-1994シーズン途中に突如現役を引退。1995年には背番号40が永久欠番となった。

引退後は解説者を務めたほか、父親とともに段ボール製造会社を興したが、上手くいかず倒産。2002年にWNBAのデトロイト・ショックのアドバイザーに就任した。

しかしショックは開幕から10連敗と不振を極め、レインビアがHCに就任。レインビアはその後のシーズンを8勝7敗で乗り切った。

翌シーズンは大型補強を行い、25勝9敗でリーグ最高勝率を記録し、プレーオフも制覇し初優勝を達成。レインビアは最優秀コーチに選ばれた。

その後ショックは2006年、2008年も優勝を達成。レインビアはWNBAきっての名将に成長したが、NBAのコーチになるために2008年シーズンを持って退任。現在はアイザイア・トーマスやジョー・デュマースのつてを頼ってコーチの座を狙っている。

シャキール・オニール ~Shaq~

0881オニールの父親はハイスクールでは名の知れたバスケット選手だったが、ろくでなしであった。薬物中毒になって大学を中退し、オニールが生まれた直後に小切手偽造の罪で刑務所に入っている。

そのためオニールの母親は再婚し、オニールはこの継父を本当の父と慕っている。

かくして波乱の子供時代を送ったオニールだったが、ルイジアナ州立大学で活躍し、1992年に全体1位でオーランド・マジックに入団した。

1年目から圧倒的支配力でペイントエリアに君臨し、平均23.4得点、13.9リバウンド、3.5ブロックを記録。マイケル・ジョーダン以来のルーキーでのオールスター出場を果たし、新人王を受賞した。

翌シーズンからアンファニー・ハーダウェイがチームに加入。二人のコンビはジョンソンとジャバー以来の名コンビと呼ばれ、オニールも1994-1995シーズンには平均29.3得点で得点王を獲得した。

しかし、歌手デビューや映画出演など副業に精を出すオニールと、オニールより高額の契約を結んでいたハーダウェイは徐々に反目するようになり、1994-1995シーズンにはふぃあなるに進出したものの、ヒューストン・ロケッツに完敗。結局1995-1996シーズン終了後にFAでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。

オニール加入後しばらくチームは低迷したが、フィル・ジャクソンHCが就任してからはチームは上向き、1999-2000シーズン、平均29.7得点、13.6リバウンド、3.0ブロックでMVPを獲得。オールスターでもMVPを獲得した。

0890チームは圧倒的強さでファイナル制覇を達成。オニールはファイナルMVPも獲得し、このシーズンのMVPを独占した。

チームは翌シーズンもファイナルを制し、オニールは2年連続のファイナルMVPを獲得。さらに続く2001-2002シーズンもファイナルを制し、スリーピートを達成。オニールは3年連続ファイナルMVPの快挙を達成した。

オニールと言えばなんといってもNBA史上最重量の148キロの巨体と、人間とは思えない凄まじいパワーを武器にゴールへ突進する豪快なプレースタイルである。いかなる選手もオニールの突進を正面から止めることはできず、しばしばゴールを破壊するダンクは文字通り"スラム・ダンク"であった。

特にそのパワーはNBAどころかNFLでもまずいないという規格外の代物で、UFCのゲームに隠しキャラクターとして登場するほどである。

一方フリースローは下手で、成功率は.500前後と極端に低く、わざとファールでオニールにフリースローを撃たせ、失敗するのを狙うという"Hack-a-Shaq"と呼ばれるプレーが生まれたほどであった。

しかし、自分勝手なところがあり、レイカーズでもコービー・ブライアントと確執を作り、2004-2005シーズンにオニールはFAでマイアミ・ヒートに移籍した。

二人の確執は相当なもので、一説にはブライアントが球団に"自分かオニールか、どっちを選ぶか?"と直訴したという。

"俺がチームを優勝させる!"と豪語した通り、新天地でもオニールは圧倒的支配力を発揮し、2005-2006シーズンには4つ目のリングを獲得したが、この頃から徐々に衰えが目立つようになった。

さらに故障から欠場が増加し、優勝後はチームが再び低迷。さらに離婚問題を抱えて精神的にも良好とはいえない状態が続いた。

2007-2008シーズン途中にフェニックス・サンズにトレード。最初は低迷したが、チームになじむにつれて復調し、2008-2009シーズンにはオールスターで3回目のMVPを獲得。授賞後の会見でのブライアントと抱き合って喜んだことから、この頃には仲直りしていたらしい。

2009-2010シーズンはクリーブランド・キャバリアーズに移籍。しかし衰えは誰の目に見ても明らかで、2010-2011シーズンはボストン・セルティックスでプレーしたものの、平均9.2得点と初めて2ケタ得点を逃がし、2011年6月にTwitterで引退を表明した。

自分勝手な性格ではあるが面倒見は良く、自宅に数多く訪れる"自称親戚"のために留守の時でも玄関は開けっ放しで、食べ物や飲み物が常備されているという。

オーランドの大豪邸に住んでいるそうなので、機会があれば一度行ってみたいものである。

アロンゾ・モーニング ~ZO~

0875ジョージタウン大学で活躍し、1992年にシャキール・オニールに次ぐ全体2位でシャーロット・ホーネッツに入団したモーニングは、平均21.0得点、10.3リバウンド、3.5ブロックを記録。新人王投票ではオニールに次ぐ2位に入った。

翌シーズンにはドリームチームⅡに選出されて金メダルを獲得。オニールとともにNBAのセンターに一大センセーションを巻き起こした。

NFL選手のような筋骨隆々の肉体を持ち、インサイドをそのパワーで支配する一方、スピードがあり、ボールタッチやロングシュートにも優れる稀有な存在で、オニールがシュートが下手な選手の代名詞であった一方、モーニングはアウトサイドからも攻撃に参加できた。

マグシー・ボーグスとともにホーネッツの中心で、ブロックのチームレコードを現在でも保持しているが、1995年にマイアミ・ヒートに移籍した。

ヒートでもその圧倒的パワーとテクニックでペイントエリアを支配し、1998-1999シーズンには平均3.9ブロックでブロック王に輝き、最優秀守備選手のタイトルを受賞。

翌シーズンも両タイトルを獲得し、シドニー五輪にも選出。同代表に選出されたセンターはモーニングだけであり、インサイドでの不利を強いられた中よく戦い、金メダルを獲得した。

しかし、シーズン終了後に重度の腎臓病であると診断され、選手生命の危機にさらされる中腎臓移植手術を受け、翌シーズン終盤に復帰。周囲を驚かせたものの、シーズン終了後に引退を表明した。

0876その後1シーズン休み、2003-2004シーズンにFAでニュージャージー・ネッツと契約。しかし状態は思わしくなく、シーズン終了後に再び引退した。

しかし、引退を撤回して翌シーズンもネッツでプレー。シーズン途中にトロント・ラプターズにトレードされたものの、ラプターズではプレーすることなくウェーバーでヒートに復帰した。

ヒートではかつてのライバル、オニールと併用され、2005-2006シーズンには悲願のファイナル制覇を達成。短いプレイタイムでブロックを量産する支配力はいまだ健在であった。

しかし、その後チームは不調に陥り、モーニングも2007-2008シーズンを持って引退を表明。12月20日のホークス戦でひざに大けがを負い、そのまま現役を引退した。

2009年の3月30日、マジック戦で引退セレモニーが行われ、背番号33が永久欠番に制定された。マジック戦が選ばれたのは、モーニングが尊敬するパトリック・ユーイングがマジックのコーチを務めていたからである。

ちなみに、いかつい顔をしているがチャリティーに熱心なジェントルマンで、大規模な財団を運営している。

デビッド・ロビンソン "The Admiral"

海軍軍人の父親のもとに生まれたロビンソンは、父親についてアメリカ中を転々としながらも巨体を活かしてバスケット選手として活躍。さらに頭も抜群によく、数学とチェスが得意だった。

海軍士官学校に優秀な成績で入学。海軍士官学校史上最高のバスケット選手の名をほしいままにし、1987年にはネイスミス賞とウッデン賞を受賞した。

同年全体1位でサンアントニオ・スパーズに指名されたが、士官学校卒業生は5年間軍役につかねばならないため、工兵少尉として任官。軍務に就いた。

1988年にはアメリカ代表としてソウルオリンピックに出場したが、宿敵ソ連の前に銅メダルに終わり、これがドリームチーム結成の契機となった。

特例で2年で除隊になり、1989-1990シーズンからスパーズに加入。実はFAになっていたが、義理堅い性格のロビンソンはスパーズに入団した。

07511年目からセンターのスターターとなり、平均24.3得点、12.0リバウンド、3.9ブロックを記録。ロビンソンの活躍で前年21勝61敗と散々だったスパーズの成績は56勝26敗と一気に向上した。

堂々の新人王を受賞し、1990-1991シーズンには平均13.0リバウンドでリバウンド王を獲得。

さらに1991-1992シーズンには4.5ブロックでブロック王と最優秀守備選手のタイトルをを獲得。因縁のドリームチームにも選出され、落ちぶれた宿敵ロシアを尻目に金メダルを獲得した。

7フッターとは思えない身体能力とポイントガード並みのアシスト能力を持ち、1994年にはクワドラプルダブルを達成。海軍出身の異例のキャリアと圧倒的支配力から、"The Admiral(提督)"と呼ばれた。

1993-1994シーズンはシャキール・オニールと壮絶な得点王争いを展開。最終戦のロサンゼルス・クリッパーズから71得点を荒稼ぎし、平均29.8得点で得点王を獲得した。

1994-1995シーズンにはMVPを受賞。1995-1996シーズンにはドリームチームⅢに選ばれて2つ目の金メダルを獲得。栄光に満ち溢れた選手生活を送っているように見えた。

しかし、ロビンソンが活躍し、チームが強豪になってもなかなかプレーオフで勝ちきることができず、ファイナルには長年無縁で、ロビンソンには"リーダーシップがない"という批判が付きまとった。

しかも1996-1997シーズンには故障でわずか6試合の出場に終わり、チームは20勝62敗とボロボロになると、ロビンソンはリングを手にせず引退することも現実味を帯び始めた。

0752しかし、このシーズンがスパーズの転機となった。ボロボロのシーズンの代償として全体1位の指名権を得たスパーズは、ドラフトでティム・ダンカンを指名したのだ。

ロビンソンに完全に頼り切っていたチームは変わった。ダンカンの入団でロビンソンはプレッシャーから解放され、本当の実力を取り戻したのだ。

"ツインタワー"の率いられたスパーズは再び力を取り戻し、1998-1999シーズンには50試合の短縮シーズンを37勝13敗で乗り切り、ついにファイナルに進出。

ファイナルでも"ミラクル・ニックス"と呼ばれたニューヨーク・ニックスを粉砕し、ロビンソンは悲願のチャンピオンリングを獲得。ファイナルMVPも受賞した。

その後ロビンソンはダンカンを引き立てるために一歩引いた形でプレーするようになり、スパーズはさらに躍進。2002-2003シーズンには2つ目のリングを手にし、ロビンソンは同年引退した。

引退後は金融関連の会社を経営するほか、熱心にチャリティーを行っているが、"億万長者が天国に行くのはラクダで針の穴を通るより難しい"というキリスト教の教えについてとても心配しているという。

2009年に殿堂入り。背番号50はスパーズの永久欠番となっている、
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