4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

SP

ポール・スプリットオフ Paul Splittorff ~カンザスのクラーク・ケント~



Paul Splittorff (ポール・スプリットオフ)
(1946-2011)
Baseballer
Position:Pitcher
Batted/Threw:L/L
Height:190cm Weight:92kg
Stuts

あまりアメリカのアスリートらしくない地味な容貌である。どちらかというとスーツを着て銀行の窓口にでも座っている方が収まりが良さそうだ。

経歴も地味だ。ハイスクールでは無名の存在で、一応後輩には日本の西武ライオンズでプレーしたジョー・ブコビッチが居る。

大学はNCAAではなくNAIAの、しかもDiv.IIのモーニングサイド大。一際地味だ。

だが、ここで一定の活躍を見せたことから1968年に新設球団のカンザスシティ・ロイヤルズに指名された。しかし、順位は25巡目であった。

1970年にメジャーデビューを果たし、翌シーズン途中からローテーションに入ると、8勝9敗、防御率2.68の活躍で新人王投票5位につけ、さらに1973年には20勝11敗を記録してチーム史上初の20勝投手となり、思い切り派手に売り出したのだった。

190センチの長身から柄にもなく高々と右足を上げる豪快なフォームはいかにも速球派を思わせるが、実はそんなことはない。では何か凄い変化球があるかというと、これまたそういうわけでもない。

ではスプリットオフの武器は何かというと、いかにもそれらしく頭である。事前に対戦相手を念入りに研究してからマウンドに臨み、件のフォームでタイミングをずらしながら丁寧に投げ込んで打たせて取ろうというのだから、とりわけ左打者には嫌がられた。

その後も目立たないながらロイヤルズ投手陣に絶対不可欠な柱として長年ローテーションを守り続け、1975年は不調で9勝に終わったものの、1978年には19勝13敗の活躍でサイヤング賞投票で7位。押しも押されぬ球界を代表するピッチャーとなり、独特のフォームが日本でも漫画のネタになるなど、まさにピークの時期であった。

1980年には76年から3年連続で敗れていた宿敵ヤンキースをプレーオフでとうとう下し、悲願のワールドシリーズに進出。

翌年はシーズンを通じてローテーションを守ることができず、5勝5敗という過去最悪の成績に終わってしまったが、翌年からは復活して2年続けて2ケタ勝利。

ここまで十年以上に渡ってロイヤルズ投手陣の中心にあったスプリットオフだったが、寄る年波だけはどうしようもなかった。翌1984年シーズンは6試合で1勝3敗と完全に衰え、シーズン途中で現役引退を決意した。

とうとうオールスターに選ばれることなくユニフォームを脱いだが、15年ロイヤルズ一筋で積み重ねた392先発、2554.2投球回、166勝はいずれも現代に至るまで球団記録である。

引退後はロイヤルズ専属の解説者として自慢の頭脳をいかんなく発揮。その片手間にカレッジバスケットの解説者まで務めるマルチな活躍を見せていたが、2011年の5月16日にガンで世を去った。

選手として、解説者として、生涯ロイヤルズに不可欠だった男スプリットオフ、ロイヤルズの殿堂入りを果たしている。



ミルキーウェイ

ラモン・マルチネス ~弟には負けられない~

0959ペドロ・マルチネスは少し野球に詳しい人なら大抵知っているが、ペドロの兄のラモンを知っているのはオールドファンかよほどのマニアだろう。

ペドロより3年早く生まれたラモンは1984年に16歳でロサンゼルス・ドジャースと契約。マイナーで順調に成長し、1988年には20歳にしてメジャーデビューを果たした。

リーグ最年少選手として迎えたルーキーイヤーは1勝3敗に終わったものの、翌シーズンは6勝4敗、防御率3.19を記録。2完投はいずれも完封とポテンシャルの高さを見せつけた。

翌1990年、20勝6敗、防御率2.92の好成績を残して一気にブレイク。リーグトップの12完投、2位の223三振を記録し、オールスターに初選出。サイ・ヤング賞の投票でも2位に入った。

ペドロ同様剛速球の持ち主で、身長193センチとペドロよりもだいぶ長身だったが、制球難を抱えており、三振も四球も多い粗削りなピッチャーであった。

波はあるもののポテンシャルは弟同様ぴか一で、1993年にはペドロとともにローテーションを守り、10勝12敗を記録したが、リーグワーストの104四球もおまけもついてきた。

ペドロのほうが自分より才能があることを知っていて、そのことを公言していたが、上背がないことを理由にペドロはオフにトレードされてしまった。

その後のペドロの活躍は知ってのとおりであるが、ラモンも1992年に8勝に終わったほかは2ケタ勝利を続け、野茂秀雄とともにドジャースのエースとして活躍。1995年にはノーヒッターを達成している。

0960しかし1998年は故障で7勝3敗に終わり、契約延長を勝ち取れずFAに。ボストン・レッドソックスに移籍し。再びペドロとチームメイトとなった。

移籍1年目はマイナーでリハビリを続け、8月に昇格。2勝1敗、防御率3.05を記録した。

翌シーズンはローテーションに入り、10勝8敗を記録したものの、防御率6.13と不安定な内容で、オフに解雇。ピッツバーグ・パイレーツに移籍したものの4試合の登板に終わり、再び解雇された。

2002年はドジャースのキャンプに参加したもののロースターには残れず、同年限りで現役を引退。現在はドジャースのアドバイザーを務めている。

通算135勝88敗、防御率3.67という数字はまさしく一流の数字であり、ペドロの兄ということを抜きにしても立派な選手である。

トム・グラビン ~Shooting Starter~

0923ハイスクールでは野球の他にアイスホッケーでも輝かしい成績を残し、1984年にNHLドラフト4巡目でロサンゼルス・キングスに指名されたグラビンだったが、同年アトランタ・ブレーブスから2巡目で指名を受け、ブレーブスに入団した。

ちなみに同年のNHLドラフトでは後に殿堂入りを果たすルク・ロビテイルとブレット・ハルが指名されているが、グラビンよりも指名順位は低かった。

1987年にメジャーデビューを果たしたが、しばらく不安定なピッチングが続き、1988年にはローテーション入りを果たしたものの、7勝17敗で最多敗を喫してしまった。

しかし翌シーズンには14勝8敗と見られる成績になり、1991年には20勝11敗、防御率2.55の成績を残し、オールスターとシルバースラッガー賞に選出され、サイヤング賞を獲得。一躍MLBを代表する左腕となった。

このシーズンから3年連続で20勝を記録。3年連続20勝は今のところグラビンが最後である。

ジョン・スモルツと並ぶブレーブスの二枚看板であったが、1993年にはさらにグレッグ・マダックスが加入。ブレーブス黄金時代を象徴する三本柱がここに完成した。

球速は140キロを超える程度だったが、多彩な変化球を精密機械のようなコントロールで外角に決め、打たせて取る技巧派であった。

さらに牽制やフィールディングにも優れ、シルバースラッガ賞を4回受賞するなど、打撃も投手としてはかなりのもので、選球眼もよく、やすやす打ち取ることができない厄介な存在であった。

1994年の労使交渉ではブレーブスの代表として積極的に活動。結局シーズン途中にストライキに踏み切ったが、それでも13勝9敗を記録した。

三本柱を擁したブレーブスは14年連続で地区優勝を達成。1995年には世界一に輝き、ワールドシリーズで2勝を挙げたグラビンはMVPを受賞した。

特にワールドシリーズ第6戦は1安打完封の貫録のピッチングを見せ、胴上げ投手となった。

09241996年には15勝10敗を記録する傍らで打率.289を記録。一方で女房役のハビー・ロペスは打率.282であり、グラビンの打撃がいかに優れていたかがうかがえる。

1998年には20勝6敗の成績で2回目のサイヤング賞を受賞。2000年にも21勝を受賞し、5回目の最多勝に輝いた。

さらに2001年には17犠打で最多犠打に輝き、投打に存在感を見せたが、2002年のオフに契約交渉がこじれ、FA権を行使してニューヨーク・メッツに移籍した。

選手会の活動に熱心だったため"金に汚い"という批判もあったが、生え抜きのスターだったグラビンの移籍は惜しまれた。

しかしメッツでは1年目に9勝14敗に終わり、限界説もささやかれたが、オフにカーブを習得し、続く2004年には11勝14敗、防御率3.60と持ち直し、オールスターに選出された。

2007年には300勝を達成。9月の時点で首位のフィリーズと7ゲーム差あった中、連勝に次ぐ連勝でゲーム差なしまで追い詰め、天王山の最終戦でグラビンは先発したものの、1アウトを取っただけで7失点を喫し、プレーオフを逃した。

オフにブレーブスに復帰。しかし開幕直後に故障で人生初の故障者リスト入りし、そのままシーズンを終えた。

オフに再契約したものの、6月に戦力外通告を受けてFAとなり、2010年に引退を表明した。

通算682登板はすべて先発で、救援登板がない投手としては最多記録であり、304勝も最多勝となっている。

現在は解説者を務めており、背番号47はブレーブスの永久欠番である。

ペドロ・マルチネス ~地上最高~

0901ドミニカで生まれたマルチネスは、1988年に兄のラモンがいるロサンゼルス・ドジャースに入団。1992年にメジャー初昇格を果たした。

当時すでにドジャースのエースとなっていたラモンをして自分以上と言わしめた素質の持ち主で、翌シーズンは主にリリーフで起用され、10勝5敗、防御率2.61を記録。新人王投票で9位に入った。

本人は先発での起用を熱望していたが、公称180センチ、80キロと小柄(実際はもっと小さいという)だったため、先発での起用は不安視されていた。

しかし、これは名将ラソーダの失敗であった。1994年にトレードでモントリオール・エクスポズに移籍すると先発で起用され、11勝5敗、防御率3.42を記録。一気に頭角を現した。

続く1995年には14勝10敗を記録。6月3日のパドレス戦では9回までパーフェクトピッチングを見せたものの、味方の援護なく延長戦に突入。10回先頭打者にツーベースを許し、快挙を逃した。

1996年にはオールスターに初選出。しかしまだマルチネスは底を見せてはいなかった。

09021997年、31先発でリーグトップの13完投、17勝8敗、防御率1.90で最優秀防御率とサイヤング賞を獲得。エクスポズのエースはMLBのエースに成長を遂げた。

小柄ながら100マイル近い剛速球と鋭く変化する多彩な変化球を自在に操る本物のパワーピッチャーであり、クレメンスやシーバー、コーファックスと比較される大投手であった。

1998年にボストン・レッドソックスに移籍し、1999年、2000年にもサイヤング賞を受賞。1999年には23勝4敗というとてつもない成績を残し、2000年に記録したWHIP0.737はMLBレコードとなっている。

アリーグに移籍したことで投球スタイルに変化が生じ、わざと頭を狙って打者を脅かして抑えるという戦術をとるようになった。

この作戦は効果てきめんであったが、言うまでもなく恨みを買い、レッドソックスのメンツが荒くれ揃いだったこともあり、しばしば起乱闘沙汰を起こした。

2001年には故障で7勝に終わったが、2002年には20勝を挙げて復活。2003年にはチームをリーグチャンピオンシップまで導いたが、ニューヨーク・ヤンキースとの第3戦に事件が起こった。

いつも通りビーンボールを打者に食らわせたところ、過去に死球で生死の境をさまよったことがあるヤンキースのドン・ジマーコーチが激高。取っ組み合いになり、ジマーはマルチネスに首をつかまれて地面にたたきつけられた。

当時ジマーは72歳の高齢で、両チームのライバル関係もあって大きな波紋を呼んだが、ジマーが謝罪会見を開いたことで事態は収束。しかし、チームはシリーズ敗退となった。

翌シーズン16勝9敗と今一つの成績ながらもプレーオフに進出。ヤンキースに雪辱し、ワールドシリーズでカージナルスを粉砕。ついにビリー・ゴードの呪いを打ち破った。

シーズン終了後にニューヨーク・メッツに移籍。ナリーグでは打席に立たねばならないため、報復を恐れてかビーンボールは封印した。

1年目こそ15勝8敗としたものの、その後は故障でフルシーズンプレーできず、2009年にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。5勝1敗と言う成績を残したものの、わずか9登板に終わり、ワールドシリーズに進出して6戦に先発したが、松井秀喜にHRを打たれ、2つ目のリングは手に入らなかった。

その後FAとなり、去就が注目されていたが、先日引退を表明。219勝100敗の成績を残して去っていった。

地上最高の投手の呼び声は本物である。生きているうちにマルチネスを見られた我々は幸運と言えよう。

ジェイミー・モイヤー ~長老~

0900フィラデルフィア郊外で生まれ、大のフィリーズファンだったモイヤーは、ハイスクールでは野球のほかにバスケットとゴルフでも活躍。1980年にフィリーズが初の世界一に輝いた際には学校を抜け出して優勝パレードに参加したという。

その後セントヨゼフ大学に進学。同大学の投手の記録を軒並み塗り替え、背番号10は同大ベースボールチーム唯一の永久欠番に制定されている。

1984年にドラフト6巡目でシカゴ・カブスに入団。マイナーでオールスターに選ばれるなど順調に成長し、1986年に初昇格。16先発で7勝4敗を記録した。

翌シーズンには12勝15敗で初の2ケタ勝利を達成。しかし防御率は5点台で、実力のほどは怪しかった。

1989年シーズン終了後にテキサス・レンジャーズにトレード。しかし故障で15試合の登板に終わり、翌シーズンはリリーフをやらされるなど、依然二流の選手であった。

翌シーズンはセントルイス・カージナルスに移籍したが、マイナースタートとなり、シーズン終了後に解雇された。

翌シーズンカブスのキャンプに参加したが、ひじを故障。野球理論を生かしてコーチ転身を打診されたがモイヤーは拒否。その後解雇された。

その後タイガースとマイヤー契約を結んだもののメジャー昇格はならず、シーズン終了後にボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ。

5月に昇格を果たし、先発ローテーションに入って12勝9敗を記録。防御率も3.43まで改善され、30歳にしてようやく開花の兆しを見せ始めた。

1996年シーズンにボストン・レッドソックスに移籍。先発兼リリーフとして7勝1敗の好成績を残していたが、シーズン途中にシアトル・マリナーズにトレード。

0899マリナーズでも6勝2敗を記録し、2チームにまたがって13勝3敗で最高勝率のタイトルを獲得。ついにモイヤーは開花した。

翌シーズンは17勝5敗を記録。1999年には14勝8敗でサイヤング賞投票で6位につけた。

マックス80マイル強の球速ながら、多彩な変化球と抜群のコントロールを持ち、緩急をつけることで投球の幅を広げて対応。ティム・ウェイ区フィールドに次いでMLBで最も球速の遅い投手でありながらマリナーズのエースとして君臨した。

2001年には38歳にして初の20勝を達成。2003年にも21勝を記録し、オールスターに初選出された。

40歳を過ぎても第一線の素晴らしい投手であったが、若返りの方針を打ち出すマリナーズは2006年シーズン途中にフィリーズにモイヤーをトレード。43歳にして憧れのフィリーズのユニフォームに袖を通すこととなった。

MLB最年長の選手の一人であり、モイヤーの働きを疑問視する声もあったものの、2007年には防御率5点台ながら14勝12敗と活躍。翌シーズンには16勝7敗と素晴らしい活躍を見せ、チームの世界一に貢献した。

さらに史上6人目の30球団からの勝利を達成。ほかにもランディ・ジョンソンと投げ合い、2人合わせて88歳48日の投げ合いを演出。これはMLB記録である。

翌シーズンも12勝を挙げ、2010年には47歳で完封を達成し、MLB記録を樹立。息子のディロンがドラフトでツインズに指名されるなど話題の多いシーズンだったが、契約満了に伴いFAになった。

ウィンターリーグに参加したものの、そこで左腕に大けがを負い、トミー・ジョン手術を受け、いったん現役を引退した。

しかし本人は復帰する気満々で、現在は解説者を務めているが、2012年シーズンに復帰するとのうわさもある。
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