4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

SP/RP

バート・シェパード ~義足の大リーガー~

0661インディアナで生まれ、1940年からマイナーで左投手としてプレーしていたシェパードだったが、第2次世界大戦の激化に伴い陸軍航空隊に志願。戦闘機パイロットとしてヨーロッパに赴いた。

 

出撃38回を数える優秀なパイロットだったが、38回目にベルリン上空でついに撃墜され、右足を切断したうえ捕虜となった。

 

1945年にドイツの降伏に伴いアメリカに戻り、義足を着けて再び大リーグを目指した。

 

同年ワシントン・セネターズのキャンプに参加し、オーナーに能力を見出され、ピッチングコーチに任命された。

 

さらに84日にダブルヘッダーの第2試合目、132の大量ビハインドから敗戦処理として初登板。史上初の義足の大リーガーとなった。

 

敗戦処理とはいえシェパードは渾身のピッチングを見せ、5.1回を3安打1失点、2三振で抑えこんだ。

 

このニュースは全米で大きく伝えられ、セントルイス・ブラウンズのピート・グレイともども話題となった。

 

0662その後はマイナーでプレーを続け、1954年にはプレイングマネージャーも務めたが、同年限りで引退した。

 

引退後はIBMやヒューズエアクラフトでエンジニアを務めるほか、傷痍軍人の野球チームに参加し、1968年、1971年には障害者ゴルフの全米チャンピオンに輝いている。

 

2008年にカリフォルニアで死去87歳であった。

 

ジム・アボットやピート・グレイは日本でも有名だが、このシェパードはどうも知名度に乏しい。この機会に彼のことを覚えていただければ幸いである。

ジョン・カンデラリア ~The Candy Man~

04742メートルの長身を誇り、高校時代にはバスケットのスター選手だったカンデラリアだったが、1972年にドラフト2巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名されると野球にシフトチェンジした。

 

1975年にメジャーデビュー。左のサイドスローから160キロ近い揺れる速球を投じ、86敗、防御率2.76を記録した。

 

同名の映画から”The Candy Man”のニックネームを与えられたカンデラリアはパイレーツのエースとして順調に成長し、1976年には167敗を記録し、89日のドジャース戦で球団初のノーヒットノーランを達成。

 

さらに1977年には驚異の205敗、防御率2.34を記録。オールスターに選出され、サイヤング賞投票で5位に入った。

 

1979年には149敗でチームの世界一に貢献。その後もパイレーツ投手陣の大国柱であったが、1985年シーズン途中にカリフォルニア・エンゼルスにトレードされると流浪の野球人生が始まる。

 

1987年シーズン途中にニューヨーク・メッツ、翌シーズンはヤンキース、差rに翌シーズン途中にエクスポズ、翌シーズンはツインズ、ブルージェイズと渡り歩いた。

 

04731991年にはドジャースと契約。球団を転々とし、リリーフに転じても能力はまったく衰えておらず、トライアウトを見てこの15年でナンバーワンのピッチャーとスカウトが評し、あまりに球が速いので、ブルペンキャッチャーでは受け切れず、メジャーのキャッチャーをわざわざ連れて来て受けさせたという。

 

かくして契約が決まったが、契約にマリファナ柄のTシャツを着て現れ、驚いた球団幹部に契約を保留されたという逸話も残っている。

 

ドジャースでは中継ぎとして2年で109試合に登板。1993年には古巣パイレーツに戻り、同年限りで現役を引退した。

 

ユニークな野球人生で積み重ねた勝ち星は実に177。現在はノースカロライナに暮らし、気ままに世界中を旅して過ごしているという。

ターク・ファレル ~Dalton Gang~

0334ボストンで生まれ、1953年にフィラデルフィア・フィリーズと契約したファレルはマイナーを順調に駆け上がり、1956年の9月にメジャーデビューを果たした。

 

ジャック・マイヤー、ジム・オーエンズとともに若さでフィリーズブルペンを支え、1957年には52試合に登板して10210セーブを記録。三人をフィリーズファンは”Dalton Gung”と呼んだ。

 

ギャングだけあって気性が荒く、勝てばひょうきんにふるまうが、負けると癇癪を起して暴れまわり、ある時など鏡に映った自分が許せなくなり、鏡を拳でたたき割ってしまったこともある。

 

1958年には54試合で89敗防御率3.35を記録し、オールスターに初選出。その後もフィリーズブルペンの中心であり続けたが、1961年シーズン途中にロサンゼルス・ドジャースに移籍。中継ぎとして66敗を記録。

 

シーズン終了後にエキスパンションドラフトで創設まもないヒューストン・コルト45sに移籍。

 

45sでは先発として起用される傍ら、フィリーズとドジャース相手にはリリーフ登板するなど大車輪の活躍で45sのエースとして活躍。オールスターに選出され、241.2イニングを投げて防御率3.02を記録するものの、弱小チームゆえに1020敗に終わった。

 

0335その後は勝ち負けがほぼ同じ数で推移するようになり、1964,65年とオールスターに選出されたが、1967年シーズン途中にフィリーズにトレード。1969年を最後に引退した。通算10611183セーブを挙げている。

 

その後はイギリスにわたり、北海油田の掘削事業に携わっていたが、1977年、交通事故で43歳の若さで世を去った。

 

弱い草創期を支え続けたのだから、他の100勝投手よりも私はこのファレルを高く買いたい。

マッドキャット・グラント ~Black Ace~

ジャッキーロビンソンの登場以来、黒人選手もMLBに参加できるようになったが、それでも最初は黒人選手を入団させるのを渋る球団も少なくなかった。

 

0044クリーブランド・インディアンスはその点懐が広かった。1947年にラリー・ドビーを入団させたのを機に黒人選手を積極的に受け入れ、強豪チームに成長した。

 

今回の主人公、マッドキャット・グラントは1954年、そのインディアンスに入団する。

 

マイナーで着実に力を着け、1958年にメジャーに昇格。いきなり1011敗の成績を残し、メジャーに定着。速球を武器に1963年には1314敗の成績を挙げ、オールスターに選出された。

 

1964年シーズン途中にミネソタ・ツインズに移籍。移籍初年度から119敗と活躍し、1965年には217敗の好成績で最多勝を獲得。2回目のオールスターにも選ばれ、MVP投票で6位に入るなど自己最高のシーズンを送った。

 

その後、1969年にモントリオール・エクスポズに移籍したのを皮切りに、セントルイス・カージナルス、オークランド・アスレチックス、ピッツバーグ・パイレーツと球団を渡り歩き、1971年途中にオークランド・アスレチックスに復帰し、同年で引退。

 

アスレチックス時代の1970年にはクローザーとして24セーブを挙げるなど、球団と役目を転々としながらも晩年まで安定して成績を残し続けた。

 

0043選手としても一流のグラントだが、特筆すべきはグランド外にある。

 

解説者として活躍する傍ら、黒人の20勝投手の親睦会である“Black Aces”を設立し、黒人の大投手についてまとめた本を出版し、ホワイトハウスに招かれるなど、黒人選手の研究家として活動している。

 

選手は引退しても、グラントの活躍はまだこれからも続く。

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