0798ルイジアナ州立大学でプレーし、1947年にはコットンボウルに出場。アーカンソー大とスコアレスドローに終わるという活躍を見せたティトルは、1948年に全体6位でデトロイト・ライオンズに指名されたが、指名を断ってAAFCのボルチモア・コルツ(現在のコルツとは別球団)に入団した。

1年目から先発し、2522ヤード、16TDを投げてINTはわずか9。INT率はリーグ最高の3.1%、パス試投当たりと成功あたりのヤード数もトップで、リーグ最長の80ヤードのロングパスを投げている。

1949年も2209ヤード、14TDを投げたもの、リーグワーストの18INTを喫し、チームがNFLに移籍した1950年には9先発しかできず、1884ヤードで1勝8敗に終わった。

シーズン終了後にコルツは解散し、ティトルはサンフランシスコ・49ersに移籍。最初の2年間は控えQBとして過ごした。

1953年から先発に復帰し、10先発で2121ヤード、20TDを投げて8勝2敗。パス成功当たりのTD率はリーグトップの7.7%を記録。プロボウルに選出された。

1954年もプロボウルに選出され、1955年にはリーグトップの17INTを記録。しかし、28INTもリーグトップであった。

1957年にはリーグトップの176パス成功ながら成功率もトップの63.1%を記録。プロボウルに加えてオールプロにも選出された。

0797しかしその後は年齢もあって下り坂をたどり、1959年にはプロボウルに返り咲いたものの、1958年には9試合4先発に終わり、シーズン終了後にトレードでニューヨーク・ジャイアンツに移籍した。

このトレードは衝撃をもって迎えられた。ティトルは落ち目のロートルとみられており、交換相手で前年1順指名のOT、ルー・コーディレオーネは"ティトルと対等なんて冗談だろ"と言ったという。

しかし、彼は後に考えを改めた。ティトルはニューヨークで全盛期を迎えたのだ。

1年目から2272ヤード、17TDを投げて8勝1敗1分を記録。チャンピオンシップゲームに進出し、プロボウルに選出された。

続く1962年にはさらに成績を伸ばし、9月のワシントン・レッドスキンズ戦では1試合7TDパスのNFLレコードを樹立。これは現在も破られていない。

結局リーグトップの33TDを記録。オールプロとプロボウルに選出され、チャンピオンシップゲームに進出した。

これにとどまらず1963年にはNFL記録となる36TDを投げてリーグトップのレーティング104.8を記録。MVPを手土産に3年連続でチャンピオンシップゲームに進出したが、シカゴ・ベアーズに敗れ、3年連続敗退の屈辱を味わった。

3年間で投げたTDパスは実に86。このうち負け試合でのパスは6つだけである。

しかしこの後は燃え尽きてしまったのか、1798ヤード、10TD、22INT、1勝8敗2分けの成績に終わり、現役を引退した。

ピッツバーグ・スティーラーズ戦ではINTを投げた挙句に転んで頭を打ちつけ、流血しながら呆然と座り込む有名な写真はピューリッツァー賞候補にもなった。

現役時代からオフには保険会社の営業をしており、引退後は息子と共同で保険会社を経営している。

1971年にプロフットボール殿堂入り。ポストシーズンでの勝利経験がないQBの殿堂入りは現在も唯一である。

しかし、フットボーラーの値打ちはタイトルだけではない。背番号14はジャイアンツの永久欠番となっている、