4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

ANA

デニー・ドイル ~Nohitter Killer~

0739モアーヘッド大学から1965年にドラフト外でフィラデルフィア・フィリーズに入団したドイルだったが、メジャーデビューは1970年と比較的遅かった。

1972年にセカンドのレギュラーに定着したが、打率.249、1HR、26打点と非力であった。

しかし、ドイルは時として恐るべきバッティングを見せることがあった。

1972年7月18日のサンディエゴ・パドレス戦、パドレス先発のスティーブ・アーリンはフィリーズ打線を沈黙させ、9回2死までノーヒットであった。

最後の打者になるかと思われたドイルだったが、勝負強い打撃を見せてシングルヒットを放ち、フィリーズの面目を守った。

さらに1970年4月18日にはニューヨーク・メッツのノーラン・ライアンから初回にシングルヒットを放った。その後ライアンはフィリーズ打線をノーヒットに抑えた。

さらにシンシナティ・レッズのゲリー・ノーランからもノーヒッターを破る2ランホームランを放っており、都合3回もノーヒッターを阻止している。

0740とはいえノーヒッターがかかる場面でしか打たないというわけではなく、1973年には打率.273を記録している。

1974年シーズンにカリフォルニア・エンゼルスに移籍。エンゼルスでは本職のセカンド以外にもサードやショートでも起用された。

1975年シーズン途中にボストン・レッドソックスにトレード。同年レッドソックスで89試合に出場。打率.310の好成績を残し、チームのワールドシリーズ進出に貢献。MVP投票で23位に入った。

その後レッドソックスでもセカンドのレギュラーを獲得して活躍。1977年に現役を引退した。

意外性の男、ドイル。現在は同じくメジャーリーガーだった兄とともに野球教室を経営している。

ゲリー・ノーラン ~No Surrender~

07261966年に全体13位でシンシナティ・レッズに指名されたノーランは、1967年に19歳にしてデビュー。

剛速球を武器に先発ローテーションに入り、14勝8敗、防御率2.58、206奪三振を記録。奪三振率はリーグトップの8.2に達し、新人王投票で3位につけた。

それから2年は伸び悩んだが、1970年に復活を果たし、18勝7敗、防御率3.27を記録。サイヤング賞投票で6位につけた。

チームはプレーオフに進出し、ピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップゲームでは9回を無失点に抑える好投で勝ち投手になったものの、ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは開幕戦で負け投手となり、世界一はならなかった。

速球を武器とするパワーピッチャーであったが、この頃から球速を捨ててコントロールを重視するようになり、四死球が減少して安定感が増した。

1971年には12勝15敗と負け越したものの、翌1972年には15勝5敗、防御率1.99の好成績で最高勝率のタイトルを獲得。サイヤング賞投票では5位に入った。

同年オールスターに選出され、登板を果たしたが、首と肩を痛めて無念の降板となり、そのまま故障者リスト入りしてシーズンを終えた。

故障は思った以上に長引いた。翌シーズンは2試合の登板に終わり、1974年シーズンは全休。レッズの若きエースはこのまま消えていくかに思われた。

しかし、ノーランは不屈の闘志で復活した。1975年シーズンを15勝9敗、防御率3.16の好成績で終え、逆境を勇気で乗り越えた選手に贈られるハッチ賞を受賞。与四球率はリーグ最高の1.2であった。

同年のワールドシリーズではボストン・レッドソックスを相手取って2試合に登板。チームの世界一に貢献した。

0725翌シーズンも15勝9敗を記録し、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでも勝利投手となり、連覇を達成した。

しかし、これで燃え尽きてしまったのか翌シーズンは腕を故障。4勝1敗、防御率4.81の成績を残し、カリフォルニア・エンゼルスにトレードされた。

エンゼルスでもろくな成績を残せず、シーズン終了後に解雇された。

その後ミルウォーキー・ブルワーズと契約したものの、開幕前に解雇され、29歳の若さでそのまま現役を引退した。

輝きは短かったが、間違いなくレッズ黄金時代ののエースであり、1993年にはレッズの殿堂入りを果たしている。

速球投手が速球を捨てるのにはさぞや勇気が要っただろう。それをやってのけ、オールスターにまで出たノーランはまったく勇気がある。

ジム・アボット ~Abbot Switch~

0657生まれつき右手首から先がなかったアボットだったが、彼の両親はアボットに好きなことをやらせることにした。

 

いじめられることもあったが、アボットは負けずにスポーツに熱中し、高校時代には同校のエースであると同時に、フットボールのQBとしても活躍し、チームを州チャンピオンに導いた。

 

1985年にドラフト36巡目でトロント・ブルージェイズに指名されたものの、ミシガン大学に進学。同大学で3年間プレーし、283敗という素晴らしい成績を残した。

 

1988年にはソウル・オリンピックのアメリカ代表に選出され、決勝戦の日本戦に先発。後に西武ライオンズで活躍する石井丈裕と投げ合って勝利投手となり、金メダルを獲得した。

 

手首のない右手に右利き用のグラブを乗せて投球し、ボールが来たらすかさず左手にグラブをはめて捕球し、さらにグラブを外して送球するアボット・スイッチは世界中に衝撃を与えた。ちなみに、ハンデがありながら守備力は平均以上に上手かった。

 

同年全体8位でカリフォルニア・エンゼルスに入団。マイナーを経ずにメジャーデビューし、1212敗、防御率3.92の成績を残し、新人王投票で5位に入った。

 

翌シーズンは1014敗も防御率4.51と不調だったが、翌シーズンは1811敗、防御率2.89の好成績を残し、サイヤング賞の投票で3位に入った。

 

翌シーズンは715敗に終わり、翌シーズンはニューヨーク・ヤンキースに移籍。94日のクリーブランド・インディアンズ戦でノーヒットノーランを達成。歴史に大貴君を刻んだ。

 

同年1114敗の成績を残したが、翌シーズンは98敗、防御率4.55に終わり、シーズン終了後にシカゴ・ホワイトソックスに移籍した。

 

0658ホワイトソックスで迎えた1995年シーズン途中にエンゼルスにトレードされたが、2球団にまたがって11勝を記録。ハッチ賞を受賞した。

 

しかし、翌シーズンは218敗で最多敗を喫し、同年限りで一旦現役を引退した。

 

しかし1998年にホワイトソックスで現役復帰。5登板で5勝を挙げた。

 

翌シーズンはミルウォーキー・ブルワーズに移籍したが、28敗に終わり、同年限りで本当に現役を引退した。

 

ちなみに始めてアメリカンリーグにやってきたことで打席に立つ機会が与えられ、21打数2安打を打った。マリアーノ・リベラによると、打撃練習でホームランを打つのを見たことがあるという。

 

87108敗という偉大な記録を残したアボット。自身が障害者だと思ったことはないという。

ドン・ベイラー ~The Hit~

テキサスのオースティンに生まれ、野球とフットボールで活躍したベイラーは、フットボールの名門テキサス大学からオファーを受けたが、ブレナム短大に進んで野球をプレーする道を選んだ。

 

ちなみにテキサス大のオファーを受けていれば、同大フットボールチーム初の黒人選手になっていたかもしれない。

 

1967年にドラフト2巡目でボルチモア・オリオールズに入団。1970年にメジャーデビューを果たし、1972年から本格的に定着した。

 

1973年からレフトのレギュラーを獲得し、打率.28611HR51打点、32盗塁、さらにリーグ最多の13死球を記録した。

 

その後も俊足強打の選手としてオリオールズ外野陣の一角を担っていたが、1975年シーズン終了後にレジ―・ジャクソンとの大型トレードでオークランド・アスレチックスに移籍した。

 

アスレチックスではファーストでも起用されたが成績は今一つで、シーズン終了後にFAでカリフォルニア・エンゼルスに移籍した。

 

エンゼルスではDHでの出場が増えたためか打撃成績を向上させ、1979年には打率.29636HR139打点、120得点、22盗塁の大暴れでオールスターに初選出。チームは地区優勝を達成し、打点王とMVPに輝いた。

 

0633しかし、翌シーズンに故障で90試合の出場に終わると52盗塁を記録したことがある俊足に陰りが見えるようになり、DHでの出場がますます増え、盗塁は逆に減少した。

 

1983年にニューヨークヤンキースに移籍し、さらに1986年にはボストン・レッドソックスに移籍。ワールドシリーズに進出した他、球団記録となる35死球を記録した。

 

翌シーズン途中にミネソタ・ツインズにトレード。ツインズでもワールドシリーズに進出し、世界一に輝いた。

 

翌シーズンはアスレチックスに移籍し、ここでもワールドシリーズに進出。3球団で3年連続でワールドシリーズに出場したのはベイラーを含めて2人だけである

 

同年引退し、その後はブルワーズ、カージナルスのコーチを歴任。1993年にコロラド・ロッキーズの初代監督となり、1995年には初の勝ち越しを達成してプレーオフに進出。最優秀監督賞を受賞した。

 

就任から5年で363384敗を記録。負け越してはいるが、これは球団創設してから5年間の成績としてはMLB最高の記録である。

 

06341998年に監督を退任し、以後ブレーブス、カブス、メッツ、マリナーズのコーチを歴任。指導力には定評があったが怒りっぽいところがあり、選手と衝突することもあった。

 

その後解説者を少し努め、古巣ロッキーズのコーチを経て、現在はダイヤモンドバックスの打撃コーチを務めている。

 

ちなみに日本とは縁があり、西武ライオンズの広岡監督が獲得を熱望したり、読売ジャイアンツの臨時コーチを務めたりしている。

ボン・ヘイズ ~Purple Hayes~

0611セントメリー大学から1979年にドラフト7巡目でクリーブランド・インディアンスに入団したヘイズは、1981年にはメジャーデビューを果たした。

 

新人王資格を残してのぞんだ 1982年、ライトのレギュラーを獲得し、打率.25014HR,82打点、32盗塁を記録。新人王投票で8位につけた。

 

当然期待されていたが、シーズン終了後に5人もの選手とのトレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍した。この交換相手の一人が、フリオ・フランコである。

 

フィリーズでも外野のポジションを確保し、俊足巧打の外野手として活躍。1984年には自己最高の42盗塁を記録した。

 

1985611日のニューヨーク・メッツ戦、1番レフトで先発したヘイズは1回の裏に2本塁打を放ち、第1回に2HRというMLB新記録を打ち立てた。

 

1986年にはセンターからファーストにコンバート。この年HR王、打点王、MVPを獲得したシュミットの前の3番を打ち、キャリアハイの打率.30519HR98打点、24盗塁を記録。107得点、46二塁打はリーグ最多で、MVP投票では8位につけた。

 

自分の名前に引っ掛けて” Purple Haze”BGMに登場し、バッターボックスの端から端まで目一杯足を広げて快打を放つヘイズは、間違いなくシュミットと並ぶフィリーズの打の顔であった。

 

06121989年には再び外野に戻り、4月の月間MVPを受賞。オールスターに選出。代打でレフト前ヒットを放ち、1打点を記録した。

 

1989年はメッツのレニー・ダイクストラとのトレードのうわさも浮上したが、ダイクストラは結局他の選手との交換でフィリーズに移籍。ヘイズの心配は杞憂に終わった。

 

その後、1991年にデッドボールで腕を故障。これ以降満足にプレーできなくなり、1992年にカリフォルニア・エンゼルスに移籍。同年限りで現役を引退した。

 

引退後はマイナーや独立リーグで監督を歴任。現在は独立リーグで監督を務めている。

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