4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

BOS

デニス・エカーズリー Denis Eckersley ~Eck~

ロイ・コナチャー ~兄の力~

0996ジュニアチームでは際立った成績を残せていなかったコナチャーだったが、1937-1938シーズンに14試合で23ポイントを稼ぐ活躍を見せるとNHLから注目され、1938-1939シーズンにボストン・ブルーインズに入団した。

1年目から爆発的得点力を見せ、47試合でリーグトップの26ゴール、37ポイントを記録。現代では大した数字ではないが、当時としては出色の数字である。

その後4年連続で30ポイントを記録する活躍を見せたものの、戦争の影響で1941-1942シーズンをもってキャリアが途切れ、1945-1946シーズンに復帰したものの、4試合しかプレーできなかった。

しかし、翌シーズンデトロイト・レッドウィングスに移籍すると完全に復活し、60試合で54ポイントを記録した。

続く1947-1948シーズンはシカゴ・ブラックホークスに移籍して少し成績を落としたものの、1948-1949シーズンに60試合で68ポイントを稼ぎ、アート・ロス賞を獲得。始まって間もないオールスターにも選出されている。

0995その後2年続けて50ポイントを記録したものの、1951-1952シーズンは12試合しか出場できず、同年限りで現役を引退した。

引退後はジュニアチームのコーチを務め、1984年に68歳で世を去った。

1998年に殿堂入り。弟のライオネルとチャーリーも殿堂入りを果たし、三兄弟での殿堂入りを達成している。

なにぶん昔の選手なので凄さがわからない人も多いだろうが、ゴーディー・ハウがルーキーの時にレッドウィングスで9番をつけていたといえば、凄さがわかってもらえるだろうか。

ラモン・マルチネス ~弟には負けられない~

0959ペドロ・マルチネスは少し野球に詳しい人なら大抵知っているが、ペドロの兄のラモンを知っているのはオールドファンかよほどのマニアだろう。

ペドロより3年早く生まれたラモンは1984年に16歳でロサンゼルス・ドジャースと契約。マイナーで順調に成長し、1988年には20歳にしてメジャーデビューを果たした。

リーグ最年少選手として迎えたルーキーイヤーは1勝3敗に終わったものの、翌シーズンは6勝4敗、防御率3.19を記録。2完投はいずれも完封とポテンシャルの高さを見せつけた。

翌1990年、20勝6敗、防御率2.92の好成績を残して一気にブレイク。リーグトップの12完投、2位の223三振を記録し、オールスターに初選出。サイ・ヤング賞の投票でも2位に入った。

ペドロ同様剛速球の持ち主で、身長193センチとペドロよりもだいぶ長身だったが、制球難を抱えており、三振も四球も多い粗削りなピッチャーであった。

波はあるもののポテンシャルは弟同様ぴか一で、1993年にはペドロとともにローテーションを守り、10勝12敗を記録したが、リーグワーストの104四球もおまけもついてきた。

ペドロのほうが自分より才能があることを知っていて、そのことを公言していたが、上背がないことを理由にペドロはオフにトレードされてしまった。

その後のペドロの活躍は知ってのとおりであるが、ラモンも1992年に8勝に終わったほかは2ケタ勝利を続け、野茂秀雄とともにドジャースのエースとして活躍。1995年にはノーヒッターを達成している。

0960しかし1998年は故障で7勝3敗に終わり、契約延長を勝ち取れずFAに。ボストン・レッドソックスに移籍し。再びペドロとチームメイトとなった。

移籍1年目はマイナーでリハビリを続け、8月に昇格。2勝1敗、防御率3.05を記録した。

翌シーズンはローテーションに入り、10勝8敗を記録したものの、防御率6.13と不安定な内容で、オフに解雇。ピッツバーグ・パイレーツに移籍したものの4試合の登板に終わり、再び解雇された。

2002年はドジャースのキャンプに参加したもののロースターには残れず、同年限りで現役を引退。現在はドジャースのアドバイザーを務めている。

通算135勝88敗、防御率3.67という数字はまさしく一流の数字であり、ペドロの兄ということを抜きにしても立派な選手である。

ピート・マラビッチ ~Pistol Pete~

0952元プロ選手で後に大学のコーチに転じた父のもとに生まれたマラビッチは、少年時代から圧倒的なバスケットセンスを持ち、父親とのマンツーマンでハンドリングやフェイント、シュートといった武器を磨いていった。

ハイスクールで圧倒的な得点力を発揮し、父親がHCを務めるルイジアナ州立大学に進学。ここでマラビッチは伝説を残すことになる。

殺人的な得点力でNCAAを支配し、通算3667得点、平均44.2得点という途方もない成績を記録。どちらも現在に至るまでNCAA記録である。

さらに恐ろしいことに当時のNCAAではまだスリーポイントシュートが採用されておらず、スリーポイントがあった場合を仮定するとマラビッチの平均得点は57得点にまで跳ね上がるという。

サイドからシュートを打つさまが拳銃のようだったことから"Pistol Pete"と呼ばれ、1970年にはネイスミス賞を受賞。同年全体3位でアトランタ・ホークスに入団。ABAのカロライナ・クーガーズからもオファーがあったという。

190万ドルという当時としては破格の契約を結んだものの、ホークスにはすでにスコアラーのルー・ハドソンがおり、派手なプレースタイルのマラビッチはチームにフィットしないのではないかと言われた。

しかし、ふたを開けてみるとハドソンとのコンビネーションが見事にはまり、平均23.2得点、4.4アシストの好成績でオールルーキーに選出。ハドソンとそろって2000得点を記録するという快挙を達成した。

2年目には成績を落としたものの、3年目には持ち直し、1973-1974シーズンにはボブ・マカドゥーに次ぐ平均27.7得点をマーク。オールスターに選出された。

シーズンオフにニューオーリンズ・ジャズが誕生。チームの目玉としてルイジアナに縁があるマラビッチに白羽の矢が立ち、2人の選手と5のドラフト指名権とトレードでマラビッチはジャズに移籍した。

0951移籍1年目は不調に苦しみ、キャリア最低のFG成功率41.9%と不振を極めたものの、その後は復調し、1976-1977シーズンには平均31.1得点で得点王を獲得。これはガードの選手としては最高記録であった。

しかし、1977-1978シーズンに両膝を故障して以降はスピードが衰え、おまけにバクテリア感染も併発。欠場が目立つようになったものの、平均27得点を挙げてチーム初のプレーオフ進出に大きく貢献した。

その後は出場機会を減らし、それに伴って成績も陰りが見え始め、チームが移転してユタ・ジャズになった1979-1980シーズン途中にボストン・セルティックスにトレード。同年限りで現役を引退した。

引退後は失意のどん底に陥り、ヨガ、ヒンドゥー教、UFO、菜食主義、など怪しげなものに没頭するようになり、最終的にはクリスチャンとなった。

"NAB選手ではなくクリスチャンとして名を残したい"と語っていたが、1987年に殿堂入り。1988年にバスケットの試合中に先天性の心臓病からくる心臓発作に襲われ、40歳の若さで世を去った。

1996年にはNBA50周年記念チームに選出されたが、マラビッチは当時唯一故人となっている人物であった。

その独創的できらびやかなプレーは多くの人に強烈な印象を残し、ジャズは言うに及ばず、直接の関係はないニューオーリンズ・ホーネッツもマラビッチの背番号7を永久欠番としている。

ペドロ・マルチネス ~地上最高~

0901ドミニカで生まれたマルチネスは、1988年に兄のラモンがいるロサンゼルス・ドジャースに入団。1992年にメジャー初昇格を果たした。

当時すでにドジャースのエースとなっていたラモンをして自分以上と言わしめた素質の持ち主で、翌シーズンは主にリリーフで起用され、10勝5敗、防御率2.61を記録。新人王投票で9位に入った。

本人は先発での起用を熱望していたが、公称180センチ、80キロと小柄(実際はもっと小さいという)だったため、先発での起用は不安視されていた。

しかし、これは名将ラソーダの失敗であった。1994年にトレードでモントリオール・エクスポズに移籍すると先発で起用され、11勝5敗、防御率3.42を記録。一気に頭角を現した。

続く1995年には14勝10敗を記録。6月3日のパドレス戦では9回までパーフェクトピッチングを見せたものの、味方の援護なく延長戦に突入。10回先頭打者にツーベースを許し、快挙を逃した。

1996年にはオールスターに初選出。しかしまだマルチネスは底を見せてはいなかった。

09021997年、31先発でリーグトップの13完投、17勝8敗、防御率1.90で最優秀防御率とサイヤング賞を獲得。エクスポズのエースはMLBのエースに成長を遂げた。

小柄ながら100マイル近い剛速球と鋭く変化する多彩な変化球を自在に操る本物のパワーピッチャーであり、クレメンスやシーバー、コーファックスと比較される大投手であった。

1998年にボストン・レッドソックスに移籍し、1999年、2000年にもサイヤング賞を受賞。1999年には23勝4敗というとてつもない成績を残し、2000年に記録したWHIP0.737はMLBレコードとなっている。

アリーグに移籍したことで投球スタイルに変化が生じ、わざと頭を狙って打者を脅かして抑えるという戦術をとるようになった。

この作戦は効果てきめんであったが、言うまでもなく恨みを買い、レッドソックスのメンツが荒くれ揃いだったこともあり、しばしば起乱闘沙汰を起こした。

2001年には故障で7勝に終わったが、2002年には20勝を挙げて復活。2003年にはチームをリーグチャンピオンシップまで導いたが、ニューヨーク・ヤンキースとの第3戦に事件が起こった。

いつも通りビーンボールを打者に食らわせたところ、過去に死球で生死の境をさまよったことがあるヤンキースのドン・ジマーコーチが激高。取っ組み合いになり、ジマーはマルチネスに首をつかまれて地面にたたきつけられた。

当時ジマーは72歳の高齢で、両チームのライバル関係もあって大きな波紋を呼んだが、ジマーが謝罪会見を開いたことで事態は収束。しかし、チームはシリーズ敗退となった。

翌シーズン16勝9敗と今一つの成績ながらもプレーオフに進出。ヤンキースに雪辱し、ワールドシリーズでカージナルスを粉砕。ついにビリー・ゴードの呪いを打ち破った。

シーズン終了後にニューヨーク・メッツに移籍。ナリーグでは打席に立たねばならないため、報復を恐れてかビーンボールは封印した。

1年目こそ15勝8敗としたものの、その後は故障でフルシーズンプレーできず、2009年にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。5勝1敗と言う成績を残したものの、わずか9登板に終わり、ワールドシリーズに進出して6戦に先発したが、松井秀喜にHRを打たれ、2つ目のリングは手に入らなかった。

その後FAとなり、去就が注目されていたが、先日引退を表明。219勝100敗の成績を残して去っていった。

地上最高の投手の呼び声は本物である。生きているうちにマルチネスを見られた我々は幸運と言えよう。
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