4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

COL

ラリー・ウォーカー ~Boogie~

0961バンクーバーの郊外に生まれたウォーカーは、多くのカナダの少年がそうであるようにNHL選手を志し、野球は夏場にだけプレーしていた。

ゴーリーとしてジュニアリーグでプレーしていたが、16歳の時に競争に敗れてチームを去り、このころから野球に専念。ほぼ素人だったがが身体能力を武器にユースのカナダ代表に選ばれ、そこでの活躍がモントリオール・エクスポズのスカウトの目に留まり、1984年にドラフト外でエクスポズと契約した。

元ゴーリーだけあって動体視力に優れ、速球には強かったが、変化球がまるで打てず、膝のけがもあって1年目から解雇を心配していた。

しかし、フロリダの教育リーグに送られてそこで一気に成長。故障も癒えたことで徐々に出世し、1989年にメジャーデビューを果たした。

新人王資格を残して臨んだ1990年、打率.241、19HR、51打点、21盗塁の成績で新人王投票に9位に入りブレイク。1992年には打率.301、23HR、93打点、18盗塁を記録し、オールスター、ゴールドグラブ賞、シルバースラッガー賞を受賞。MVP投票でも5位につけた。

強打者にして好打者で、足が速く、守備もうまく、肩も強い万能選手であり、1994年にはリーグトップの44二塁打を記録。オフにコロラド・ロッキーズに移籍した。

打者有利のクアーズ・フィールドはウォーカーのベストプレイスだったのだろう。1997年には打率.366、49HR、130打点、33盗塁という圧倒的成績でMVPを獲得。さらにいずれもリーグトップの出塁率.452、長打率.720、12捕殺、さらにスタン・ミュージアルの持つリーグ記録の409塁打を記録した。

さらに同年のオールスターではランディ・ジョンソンと対戦。頭の後ろを通る暴投を食らったが、ヘルメットを前後逆に被り、左打ちでありながら右打席に入るパフォーマンスで対抗した。

0962翌シーズンは打率.363で首位打者を獲得し、最優秀カナダ人アスリートに贈られるル・マーシュ賞を野球選手として初受賞。翌シーズンも打率.379で首位打者を獲得し、年俸は1200万ドルを超えた。

続く2000年は故障で87試合しか出場できず、打率.309とやや数字を落としたものの、2001年には打率.350で首位打者に返り咲き、MLB最強を誇ったロッキーズ打線の中心としてその名をとどろかせた。

しかし、その後は徐々に成績を落としていき、2004年シーズン開幕前にはテキサス・レンジャーズへのトレードが打診されたが、ウォーカーは拒否した。

同年打率.298を打ったものの怪我で82試合しか出場できず、結局シーズン途中にセントルイス・カージナルスにトレードされた。

"毎日クリスマスの朝のよう"と評されたに陽気な性格で、チームにすぐなじんだが、チームはリーグチャンピオンシップシリーズでヒューストン・アストロズに敗れ、それを最後に現役を引退した。

引退後は趣味のサッカーを楽しむ傍ら、2008年にカージナルスのキャンプで臨時打撃コーチを務め、フルタイムでもオファーを受けるなど指導者の才能を発揮。2009年にはWBCカナダ代表のコーチを務め、2011年にはパンアメリカン大会カナダ代表のコーチを務めている。

通算打率.313、383HR、230盗塁、ゴールドグラブ賞7回の実績は金字塔である。カナダ人史上最高の野球選手と言っていいだろう。

デール・マーフィー ~Mormon cannon~

08981974年に全体5位でアトランタ・ブレーブスに指名され、1976年にメジャーデビューを果たしたマーフィーだったが、このころのポジションはキャッチャーだった。

長打力には目を見張るものがあったが、キャッチングと肩に難があり、正捕手に定着することはなかった。

1978年にファーストにコンバートされてレギュラーに定着。打率.226、リーグ最多の145三振を喫したが、23HR、79打点を記録し、一気に名を売った。

1980年にはセンターにコンバート。133三振で三振王になったものの、打率.281、33HR、89打点を記録し、オールスターに初選出。誰もが認めるブレーブスの主砲となった。

1982年には打率.281、36HR、打点王となる109打点でオールスター、ゴールドグラブ賞、シルバースラッガー賞に選出され、MVPも受賞。

マーフィーの活躍はとどまるところを知らず、翌シーズンも打率.302、36HR、121打点で前年同様五冠を獲得。さらに30盗塁を記録して30-30を達成した。

翌シーズンからは2年連続でHR王を獲得。ボブ・ホーナーとともに低迷するブレーブスを引っ張り続けた。

しかし、どんな選手にも衰えは来るもので、1987年に打率.295、44HR、105打点を記録したのを最後に成績が低下し始め、1990年シーズン途中にフィラデルフィア・フィリーズに放出された。

0897フィリーズでは1991年に153試合に出場したものの、打率.252、18HR、81打点と今ひとつで、シーズン終了後にコロラド・ロッキーズに移籍した。

ロッキーズでは打率2割を割り込むまでになり、18試合出場しただけで同年引退した。

80年代のHR、打点、安打、得点の最多記録を保持する80年代最高のスラッガーであった。

敬虔なモルモン教徒で、引退後はユタ州で布教活動に従事。ユタ州の知事候補にもなっている。

ちなみに息子のショーンはフットボーラーで、現在はFAだが、OGとしてNFLでプレーしていた。

ジェフ・リード ~Nice Reed~

0628ピッチングはバッテリーの共同作業である。ピッチャーの能力を上手に引き出してこそ真の名捕手というものだ。

 

1980年に全体12位でミネソタ・ツインズに入団したジェフ・リードはまさに名捕手である。

 

打撃の非力さゆえに現役生活をずっと控え捕手として過ごしたが、堅実無比の守備と巧妙なリードはチームになくてはならない存在であった。

 

1984年にメジャー初昇格を果たし、モントリオール・エクスポズを経て、1988年シーズン途中にシンシナティ・レッズにたどりついた。

 

同年96日、ドジャース戦にトム・ブラウニングの女房役として先発したリードは、図らずして人生最大の大舞台に立たされることになった。

 

この日のブラウニングは絶好調で3ボールを与えないままどんどん相手打者を打ち取っていった。

 

ランナーを出すことなく試合は進み、焦って投げ急ぐブラウニングを必死になだめながらリードし、ついにランナーを出すことなく試合終了。ブラウニングは完全試合を達成した。

 

1990年には世界一の栄誉を手にし、1993年にサンフランシスコ・ジャイアンツ、1996年にはコロラド・ロッキーズに移籍。

 

ロッキーズでは移籍1年目に正捕手に抜擢され、34歳にして初のレギュラーを獲得。116試合で打率.2848HR,37打点を記録した。

 

0627さらに翌1997年には自己最多の17HRを記録。高地デンバーだけあって打撃も好調であった。

 

1999年シーズン途中にシカゴ・カブスに移籍。2000年に現役を引退した。

 

17年の現役生活で100試合以上に出場したのはわずかに4シーズン。隠れた名捕手であった。

 

リードの仕事は驚異的、ナイスリードだったとパーフェクトゲームについてブラウニングは自著で語っている。

 

良妻リード。現在はツインズのマイナーでコーチを務めている。

ウォルト・ワイス ~ガラスの魔術師~

05581982年にドラフト10巡目でボルチモア・オリオールズに指名されたワイスだったが、拒否してノースカロライナ大学に進学。1985年に10巡目でオークランド・アスレチックスに指名され、やっと入団に至った。

 

1987年の7月にメジャー昇格。打撃は非力だったが魔術的とまで言われた華麗な守備を披露。シーズン終了後にアスレチックスは正遊撃手のアルフレッド・グリフィンを放出。ワイスへの期待の表れであった。

 

ワイスはその期待に見事にこたえた。1988年に打率.250ながら守備面での活躍を認められ、新人王を受賞。チームのワールドシリーズ進出に大きく貢献した。

 

故障がちなところがあり、1989年には49試合の出場に終わり、チームはワールドシリーズを制覇したもののあまり貢献できなかった。

 

1990年もチームはワールドシリーズに進出。しかしワイス自身はリーグチャンピオンシップシリーズで故障してしまい、出場できず、守備の要を失ったアスレチックスはシンシナティ・レッズに敗れ去った。

 

1991年も故障で40試合の出場に終わり、1993年に新設のフロリダ・マーリンズへトレード。シーズン終了後にFAでこれまた新設のコロラド・ロッキーズに移籍。二つのチームの創設ロースターに入ったのはワイスが初であった。

 

0557ロッキーズでも自慢の守備を存分に発揮し、強打のロッキーズを守備面で引き締めた。

 

さらに標高の高いデンバーで長打力を少し強化させ、1996年には自己最高の8HRを記録している。

 

1998年にアトランタ・ブレーブスに移籍。マダックス、グラビン、スモルツらそうそうたる投手陣のバックを守り、チームの106勝の快進撃に大きく貢献。96試合の出場ながら打撃もキャリアハイの打率.280を記録し、オールスター出場を果たした。

 

しかし、悩みの種の怪我はだんだんと増えていき、2000年には80試合の出場に終わり、同年限りで現役を引退した。

 

華麗な守備で球界を渡り歩いたワイス。現在は熱心にチャリティー活動を行う傍ら、ハイスクールのコーチを務めている。

マルク・ドニ ~青い守護神~

0537QMJHLで活躍し、1995年に全体25位でコロラド・アバランチに入団したドニだったが、アバランチではずっとマイナー暮らしで、でわずか28試合の出場機会しか得られず、2000-2001シーズン開幕前に新設のコロンバス・ブルージャケッツに放出された。

 

ジャケッツでは1年目から正ゴーリーとして起用され、32試合でセーブ率.895、防御率3.25と悪くない成績を残したが、新設チームの常で得点が少なく、勝敗は620敗と散々に終わった。

 

2001-2002シーズンも924敗だったが、2002-2003シーズンにはNHL最多の77試合、4511分の出場機会を得、セーブ率.903、防御率3.09を記録。27勝をマークしたが、その一方でリーグ最多敗となる41敗を記録した。

 

しかし、このシーズンジャケッツはわずか29勝しかしておらず、ドニはジャケッツにとってかけがえのない重要な選手であった。

 

翌シーズンも防御率2.56ながら2136敗で最多敗を喫したが、チームは25勝。さらにホッケー世界選手権にカナダ代表で選出。控えゴーリーで出場機会はなかったが、金メダルを獲得した。

 

0538ロックアウトを挟んで2005-2006シーズンは出場機会を減らしたものの、2125敗、チームは35勝であり、以前ジャケッツの重要な戦力であった。

 

しかし、2006年にタンパベイ・ライトニングにトレードされ、1718敗を記録するものの、翌シーズンは控えに終始。ウェーバーにかけられたものの引き取り手はなく、AHLに送られた。

 

シーズン終了後にFAになり、モントリオール・カナディアンズに移籍したが、1試合出場しただけで現役を引退した。現在は解説者を務めている。

 

2010-2011シーズン時点でジャケッツは通算313勝だが、そのうち実に81勝はドニが稼いだものである。

 

通算112179敗と勝ちには恵まれなかったが、通算防御率3.02は歴代91位の立派な記録である。

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