4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

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アダム・デッドマーシュ ~dead march~

0461ホッケーに携わる者にとって最高の栄誉であるスタンレーカップには、獲得チームの選手の名前が刻まれることになっている。

 

カップに名前が刻まれるということはホッケー史に永久に名が残るということであり、名誉なことであるが、時として名前が間違って刻印されることがある。

 

1993年にドラフト14位でケベック・ノルディクスに指名されたアダム・デッドマーシュがその一例である。

 

1994年にNHLに初昇格を果たし、48試合で9ゴール、17ポイントを記録したが、シーズン終了後にコロラド・アバランチに放出された。

 

アバランチで本領を発揮し、21ゴール、47ポイントを記録。プレーオフでさらに成長し、5ゴール、17ポイントの活躍を見せた。

 

特にデトロイト・レッドウィングスとのカンファレンスファイナル第4戦ではハットトリックを達成。一躍コロラドのヒーローとなり、チームのファイナル制覇に大きく貢献した。

 

ハットトリックを決めたヒーローは言うまでもなくカップに名前が刻まれることになったが、手違いで”Deadmarsh”となるところを”Deadmarch”と刻印されてしまった。

 

それまで何度かあった刻印の間違いはそのままにされていたが、Deadmarchとは葬送曲のことであり、あまりにひどいということでのちに正しく直された。

 

これを機に今後の刻印ミスは直されることとなり、2002年にデトロイト・レッドウィングスのマニー・レガシーの名前が間違えて刻印された際も直された。

 

名前を直してもらったデスマーシュは翌1996-1997シーズンには自己最高の33ゴール、60ポイントを記録。

 

0462カナダ人であったが、母親がアメリカ人だったのでワールドカップアメリカ代表に選出されるなど、自己最高のシーズンを送った。

 

その後もアバランチの得点源として活躍し、特にプレーオフでは無類の勝負強さを発揮したが、2000-2001シーズン途中にロサンゼルス・キングスにトレード。

 

キングスでは2001-2002シーズンに29ゴール、自己最高の62ポイントを記録するなど、相変わらず活躍していたが、脳震盪で2002-2003シーズンを途中離脱。さらに2003-2004シーズンを全休した。

 

さらにロックアウトを挟み、ロックアウトの明けた20059月に引退を表明。現役を引退した。

 

現在はアバランチでアシスタントコーチをつとめ、2つ目の名前をカップに刻む機会を狙っている。

 

名前を間違えられたばかりに記録のみならず記憶にも残ったデスマーシュ。いいホッケー人生である。

ポール・カリヤ ~スーパースター~

0432本シリーズで今まで紹介した選手たちは、いずれも歴史的選手であることは間違いない。しかし、成績の面では決して名選手ではない。

 

本シリーズのトリを飾るのは、歴史的選手にして名選手、ポール・カリヤである。

 

ラグビーカナダ代表の父を持ち、ジュニアで活躍し、メイン大学で1年生にしてNCAA最優秀選手に選ばれ、チームをNCAAチャンピオンに導いた日系三世カリヤは、1993年全体4位でマイティーダックス・オブ・アナハイムに指名された。

 

1994-1995シーズンからダックスに加入。開幕前からファンの注目を集め、オープン戦も多くの観客が詰めかけた。

 

日系人初のNHLプレイヤーとなり、前評判に違わず47試合で18ゴール39ポイントを記録。カルダートロフィーはピーター・フォスバーグに譲ったものの、オールルーキーに選ばれた。

 

グレツキーと比較され、グレツキー本人も絶賛するほどのセンスと、パぺル・ブレと並ぶと言われたスケーティングスピードは、続く1995-1996シーズンに真価を発揮した。

 

82試合にフル出場し、驚異の50ゴール108ポイントを記録。対してペナルティはわずか20分で、レディービング記念賞を受賞した。

 

続く1996-1997シーズンには故障で69試合の出場に終わったにもかかわらず44ゴール、99ポイントを記録。ペナルティはさらに減って8分で、2年続けてレディービング記念賞を受賞。プレーオフにも初進出を果たしたが、ハート記念賞はドミニク・ハシェックに譲った。

 

1997-1998シーズンには22試合の出場に終わり、怪我の影響で長野五輪を欠場してしまった。

 

怪我の原因となったボディチェックをカリヤに食らわせたのがアメリカ人選手だったことから、アメリカ代表の嫌がらせではないかという憶測も飛んだが、真相はわからない。

 

1998-1999シーズンには202ポイントを稼いで復活。その後も100ポイントには届かないものの、安定して多くのポイントを稼ぎ続けた。

 

04332003-2004シーズンにFAでコロラド・アバランチに移籍。1000万ドルの年俸が120万ドルまで減ったが、これは同僚のテーム・セラニと同じチームに移籍したいという意思からであった。

 

しかし、カリヤは故障で、セラニは不得手の守備的役割を割り振られたことから低迷し、期待にこたえることなく、シーズン終了後にナッシュビル・プレデターズに移籍した。

 

プレデターズでは80ポイント近くを稼ぐなど復活し、2007-2008シーズンからはセントルイス・ブルースに移籍。

 

ブルースでは2007-2008シーズンは63ポイントと活躍したものの、2008-2009シーズンは怪我で11試合の出場に終わり、2009-2010シーズンには75試合で43ポイントと不調に終わった。

 

2010-2011シーズンは脳震盪の影響でプレーせず、結局そのまま2011629日に引退を表明した。

 

通算989試合で989ポイントを記録。相次ぐけがさえなければそれこそグレツキー並みの成績を残していたかもしれない。

 

ちなみに二人の弟もNHLプレイヤーで、妹はプロボクサーというアスリート一家である。

 

歴史面でも成績面でもNHLに大きな足跡を残したカリヤ。将来の殿堂入りは間違いない。

ウィルフ・ペイエメント ~もう一人の99~

0320ホッケーの神、ウェイン・グレツキーの象徴たる背番号”99”は、NHL全体の永久欠番となっている。

 

グレツキー以外で背番号”99”を最後に背負った男、ウィルフ・ペイエメントが今回の主人公である。

 

1974年に全体2位で創設したばかりのカンザスシティ・スカウツに最初の指名選手として入団。1年目から78試合に出場し、26ゴール、39ポイントを記録した。

 

1976年にチームはデンバーに移転。チーム名をコロラド・ロッキーズと改めた。

 

移転後にペイエメントは大きく成績を伸ばし、78試合で41ゴール、81ポイントを記録し、オールスターに選出された。

 

1977-1978シーズンにはキャプテンに就任。31ゴール、87ポイントとさらに成績を伸ばし、2年連続でオールスターに選出。ホッケー世界選手権カナダ代表にも選出された。

 

1977-1978年もオールスターに出場したが、1025日のペンギンズ戦でデニス・ポロニッチのヤジに激高し、スティックでポロニッチを殴りつけ、鼻が潰れる大けがを負わせ、当時2位の長さとなる15試合の出場停止を受けている。

 

以後も乱闘と得点力を兼ね備えた個性派選手として活躍した。

 

1979-1980シーズン途中にトロント・メープルリーフスに移籍。背番号99を背負い、1980-1981シーズンには自己最高の97ポイントを記録した。

 

0321さらに翌シーズン途中にケベック・ノルディクスにトレード。得点力はそのままにペナルティを増加させ、エンフォーサーとしても価値を発揮した。

 

1985-1986シーズン終盤にニューヨーク・レンジャーズに移籍も、8試合しか出場はなく、ウェーバーにかけられ、バッファロー・セイバーズに移籍。

 

セイバーズでは56試合で37ポイント、ペナルティ108分と活躍したもののシーズン終了後にピッツバーグ・ペンギンズに移籍。

 

ペンギンズではIHLに降格させられるなど衰えが激しく、同年限りで引退した。スカウツ最後の現役選手であった。

 

引退後はグレツキーとCMで共演したりしている。

 

“42”がジャッキー・ロビンソンだけのものではないように、”99”もグレツキーだけのものではない。ペイエメントのものでもあるのだ。

ブライアン・ロールストン ~寡兵よく大軍を破る~

ホッケーにおいてペナルティで味方が少なくなった状態をキルプレーと呼び、キルプレー時はペナルティが解けるまで守りの姿勢で耐えるのが普通である。

 

0289しかし、時として敵の猛攻をかいくぐり、逆にゴールを決めることがある。これをショートハンドゴールといい、滅多に見ることのできない大業である。

 

今回の主人公、ブライアン・ロールストンはショートハンドゴールの名手である。

 

188センチ、98キロの巨体を誇るロールストンは1991年に12位でニュージャージー・デビルズに指名されたが、スペリオル州立大に進み、1994-1995シーズンにデビルズに加入。

 

登録上はセンターだが、両ウイングも守れるユーティリティーフォワードで、豪快なスラップショットを武器に1年目から40試合で7ゴール、18ポイントを稼ぎ、チームのスタンレーカップ獲得に貢献。

 

1996年にはワールドカップアメリカ代表に選出され、銅メダルを獲得。

 

1998-1999シーズンには24ゴール、57ポイント、リーグ最多の5ショートハンドゴールを記録。敵にとっては何をしでかすかわからない不気味な存在であった。

 

1999-2000シーズン途中にコロラド・アバランチ、ボストン・ブルーインズと2階トレードされ、不調に終わるも、翌2000-2001シーズンには復活。さらに2001-2002シーズンには31ゴール、62ポイント、9ショートハンドゴールを記録した。

 

2004年にFAでミネソタ・ワイルドに移籍するものの、ロックアウトでデビューできず、オランダでプレー。ロックアウトが明けた2005-2006シーズンにうっぷんを晴らすかのように得点を量産し、自己最高の34ゴール、チーム最多の79ポイントを記録。自慢のショートハンドゴールも5つ記録した。

0288 

ワイルド加入後はキルプレーよりもパワープレーで力を発揮するようになり、本来はパワープレーではDFが指揮を執るが、Cでありながら指揮を執り、得点を量産した。

 

ワイルドではキャプテンも歴任し、2006-2007シーズンには33歳にして初のオールスターに出場。見事にモデルチェンジを果たした。

 

2008-2009からは42000万ドルの大型契約でデビルズに復帰。しかし、30ポイントほどしか稼げなくなり、20101214日にウェーバーにかけられ、チームを離れた。

 

33ショートハンドゴールのNHL現役最多記録を持つロールストンだが、老け込むには早すぎる。もうひと花咲かせてもらいたいものである。

サンディ・アロマー・Jr. ~親子鷹~

華麗な守備と俊足で知られた名二塁手、サンディ・アロマーの息子、ジュニアは1983年に父がコーチを務めるサンディエゴ・パドレスに入団した。

 

0271マイナーで素晴らしい成長を見せ、1989年にはマイナー年間最優秀選手に選ばれたが、パドレスには不動の正捕手、ベニート・サンティアゴがいたため出番はほとんどなく、シーズン終了後にトレードでクリーブランド・インディアンスに移籍した。

 

すでに弟のロベルトは活躍していたが、サンディもインディアンスで正捕手の座を獲得。好守強打のインディアンスの要として弟に負けない素晴らしい活躍をし、ファン投票でオールスターに選出。新人捕手としては史上初の快挙であった。

 

シーズントータルで打率.2909HR66打点の成績で新人王とゴールデングラブ賞を獲得した。

 

1991,1992年もオールスターに選ばれたものの、怪我で出場機会が少なくなり、安定した活躍ができなくなった。

 

しかし、1996年に127試合で打率.263と復調し、オールスターに返り咲くと、翌1997年には125試合で打率.32421HR83打点を記録。インディアンスの本拠地ジェイコブス・フィールドで行われたオールスターでは決勝HRを放ち、MVPを受賞。1972年のハンク・アーロン以来25年ぶりの本拠地でのMVP受賞であった。

 

サンディの勢いはポストシーズンでもとどまるところを知らず、ヤンキースとのディビションシリーズでは打率.3162HRの活躍でヤンキースを粉砕。マーリンズとのワールドシリーズは敗れたものの、7試合で打率.3672HRと気を吐いた。

 

02721998年もオールスターに選出されたものの、再び故障がちとなり、2001年にシカゴ・ホワイトソックスに移籍したのを皮切りに、正捕手に返り咲くことなくチームを転々とした。

 

2002年にはコロラド・ロッキーズ、2003年には再びホワイトソックス。2004年にロベルトは引退したものの、サンディは頑張り続け、2005年にテキサス・レンジャース、2006年にロサンゼルス・ドジャース、2006年に三度ホワイトソックス、2007年にニューヨーク・メッツにたどり着き、現役を引退した。現在はインディアンスのコーチを務めている。

 

弟ほど派手ではないが、傷だらけになっても戦い続けたサンディ。尊敬できる兄とはこういうものではないだろうか。

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