0743ハイスクールきっての快速外野手として知られ、1989年にドラフト9巡目でトロント・ブルージェイズに指名されたハモンズだったが、指名を断ってスタンフォード大学に進学した。

大学でひざを壊し、俊足を失ってしまったが、盗塁技術は折り紙つきで、PAC-10カンファレンスの盗塁記録を1年で塗り替え、4年間で盗塁死はわずか4回であった。

1992年にはアメリカ代表としてバルセロナオリンピックに出場。チームトップの打率.400を記録したが、チームはキューバ、台湾、日本に次ぐ屈辱の4位に終わった。

同年全体4位でボルチモア・オリオールズに入団。1993年にメジャーデビューを果たした。

続く1994年には68試合に出場し、打率.296、8HR、31打点を記録。新人王投票で6位に入った。

打撃センスに富んだ便利な選手であったがなかなか100試合出場を達成できず、初めて出場試合数が100を超えたのは1997年で、ライトのレギュラーとして118試合に出場し、打率.264、21HR、55打点、15盗塁を記録した。

翌シーズン途中にシンシナティ・レッズにトレード。同年は100試合を割り込んだものの、続く1999年は代打や守備固めを中心に123試合に出場した。

シーズン終了後にトレードでコロラド・ロッキーズに移籍。新天地でハモンズはキャリアハイを迎えることになる。

0744当時MLB最強を誇ったロッキーズ打線の主軸を担い、リーグ4位の打率.335、20HR、106打点、14盗塁を記録してオールスターに出場。

翌シーズン3年2100万ドルの大型契約でFAでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。前年320万ドル余りだった年俸は650万ドルまで跳ね上がった。

しかし故障が多く、移籍1年目はわずか49試合の出場に終わり、続く2002年も128試合に出場したものの打率.257と低迷した。

2003年シーズン開幕直後に解雇され、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。36試合で打率.277とそれなりの成績を残した。

翌2004年は打率.211に終わり、6月に解雇。同年12月にモントリオールから移転したばかりのワシントン・ナショナルズに移籍した。

ナショナルズでも活躍はままならず、シーズン途中に再び解雇。そのまま現役を引退した。

最後に記録した打点は奇しくもブルワーズからのものであった。