4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

DAL

デニス・ロッドマン ~Warm~

0954スラムから這い上がったNBA選手は少なくないが、ロッドマンほどひどい前半生を送った選手はそう多くないだろう。

ベトナム帰りのパイロットだった父親に見捨てられ、テキサスで最も治安の悪いスラムでロッドマンは生まれ育った。

当時のロッドマンは内向的な少年だったが、バスケットの優秀な選手だった姉と妹の影響でバスケットを始めた。しかし背が低く、レイアップも満足に決められなかったためハイスクールでは落ちこぼれ、ますます屈折してしまった。

卒業後は空港の警備員として空港の床に寝泊まりする生活を送った。このころ身長が急激に伸び、そのことからますます内向的になり、同性愛の傾向もみられるようになったという。

ホームレス生活や万引きで生計を立てるすさんだ生活を送っていたが、妹友人の勧めでクッキー群短大に進学。その後Div.Ⅱのイーストサウザンオクラホマ州立大に進んだが、オクラホマは人種差別がひどい地域で、道を歩くだけでも罵声が飛んだという。

このころ、大学のキャンプに参加したロッドマンのプレーを熱心に見るひとりの若者がいた。ハンティングの最中に誤って親友を射殺してしまい、心に傷を負ったブライン・リッチーという青年であった。

心に傷を負った二人は意気投合し、ブラインは実家の大農園にロッドマンを招き入れた。

ブラインの家族はロッドマンが黒人であったことから最初は怪訝な目で見たが、ブラインがショックから立ち直るのを見てその考えを改めた。母親から勘当されていたロッドマンは大学時代をこの農園で過ごした。特にブラインの父親、ジェームズには薫陶を受けた。

精神的に安定したことからめきめきと頭角を現し、NBAからも注目を受けるようになり、1986年にドラフト2巡目でデトロイト・ピストンズに入団。この時すでに25歳であった。

1年目から控えながら積極的に起用され、平均4.3リバウンドを記録。続く1987-1988シーズンには32先発ながら平均8.7リバウンドを記録した。

1989-1990シーズンにはピストンズの初優勝に貢献し、1990-1991シーズンからはPFのスターターに定着し、チームは連覇を果たした。

堅牢なディフェンスを誇るピストンズの中でもひときわディフェンスに長けた存在で、シュートよりもリバウンドに快感を覚え、オフェンスにはあまり関心を示さなかった。

0953翌シーズンは平均18.7リバウンドを記録してリバウンド王に輝きいたものの、恩師と仰ぐチャック・デイリーHCが辞任したことからモチベーションを失い、キャンプ参加を拒否して罰金を払っている。

さらに女優と結婚したものの3か月と持たずに離婚。精神的に落ち込んだロッドマンはトラックの車中でライフル自殺を図ったが、"自分の中のもう一人の自分"を撃ち殺して生まれ変わり、平均18.3リバウンドで2年連続のリバウンド王を獲得した。

1993-1994シーズン開幕前にサンアントニオ・スパーズにトレード。相変わらずリバウンド王を獲得したが、このころからますます奇行が目立つようになった。

毎日のように髪の毛を奇妙な色に染め直し、マドンナと交際。ゲイバーに行ったことで糾弾されたジャック・ヘイリーをかばい、親友となるなど何をしでかすのかわからないキャラクターを確固たるものにし、さらにデビッド・ロビンソンと対立した。

結局1995年にシカゴ・ブルズにトレード。かつてのライバルチームであるピストンズの中心であり、スコッティ・ピッペンと乱闘沙汰を起こしたこともあるロッドマンの加入は不安視された。

しかし、ロッドマンはブルズに思いのほか順応した。ピストンズ時代から知られていた猛練習で複雑なトライアングルオフェンスをすぐにものにし、シュートが下手なことを逆手にとってパスでジョーダンやピッペンにボールを渡すことでアシストを増加させ、リバウンド王にも相変わらず君臨。ブルズのスリーピートの原動力となった。

このころ自伝"ワルがままに"を出版。マドンナとの交際、スパーズやロビンソンへの批判など過激な内容で夕目されたうえ、ロッドマンはサイン会にウェディングドレスで出席。女装癖を隠すどころか人に見せびらかした。

1998-1999シーズンはしばらくFAで過ごし、シーズン後半にロサンゼルス・レイカーズに移籍。しかし23試合しか出場できず、リバウンド王の記録は7年連続で途切れることになった。

翌シーズンはダラス・マーベリックスに移籍。しかし12試合しか出場できず、同年限りで現役を引退した。

引退後は映画出演やプロレスへの参戦を頻繁に行い、ファンに奇人健在をアピール。殿堂入りは正直難しいとも言われていたが、2011年に殿堂入り。さらに背番号10はピストンズの永久欠番となった。

殿堂入りにあたって泣きながらスピーチを行い、デイリー、ジャクソン両HC、レイカーズのジェリー・バスオーナー、そしてジェームス・リッチーに感謝の言葉を述べた。

このほかにも最優秀守備選手のタイトルを獲得した際にも男泣きしたりと、変人だが熱い男である。

ちなみに先日、ニューヨークのストリップクラブが企画したトップレスバスケットチームのHCに就任。ストリッパーが上半身裸でバスケットをやるというユニークな企画で、本人はいたって真面目にコーチングするつもりだそうだが、いろいろと波紋を呼んでいる。

エイブリー・ジョンソン ~Little General~

0931ハイスクール時代には35勝無敗という圧倒的活躍でルイジアナ州のチャンピオンに輝き、サウザン大学では1987-1988シーズンにNCAA記録の平均13.3アシストをマークしたジョンソンだったが、180センチの身長が災いしてかドラフトで指名されず、USBLに進んだ。

1988-1989シーズン途中にシアトル・スーパーソニックスと契約。PGとして43試合に出場し、翌シーズンの契約を勝ち取った。

翌シーズンも53試合に出場し、平均3.1アシストを記録したものの、シーズン終了後にデンバー・ナゲッツにトレードで移籍した。

しかしシーズン途中にウェーバーになり、サンアントニオ・スパーズに移籍。しかし翌シーズンにはウェーバーとなり、ヒューストン・ロケッツと10日間のトライアウト契約を結び、そのままシーズンを過ごした。

オフにスパーズと再び移籍し、75試合出場のうち49先発。平均11.6リバウンド、9.9アシスト、1.5スティールの好成績を残した。

翌1993-1994シーズンにゴールデンステート・ウォリアーズに移籍。70先発でスターターの座をつかみ、オフに三度スパーズに復帰した。

ようやくスパーズに腰を落ち着け、1995-1996シーズンにはキャリアハイとなる平均13.1得点、9.6アシスト、1.5スティールを記録。親友の"提督"デビッド・ロビンソンにちなんで"Little General(小さな将軍)"と呼ばれた。

1998-1999シーズンにはNBAチャンピオンに輝き、その後もスパーズのバックコートを引き締めていたが、2001-2002シーズンにナゲッツに移籍。さらにシーズン途中にダラス・マーベリックスに移籍し、翌シーズンはウォリアーズに移籍。同年限りで現役を引退した。

0932翌シーズンからドン・ネルソンHCのもとマブスのコーチに就任。シーズン終了間際にHCに昇格し、16勝2敗の好成績で月間最優秀コーチのタイトルを獲得した。

翌シーズンには60勝22敗の成績で2年目にしてファイナルまで進出。しかしマイアミ・ヒートに4連敗し、マブスの初優勝はお預けとなったが、最優秀コーチ賞を受賞した。

翌シーズンは67勝を記録して地区優勝を達成。翌シーズンも51勝を記録したものの、このシーズンのサウスウェストディビジョンは激戦区で、地区4位に終わり、プレーオフもファーストラウンドで敗退。このシーズンを持って退任した。

その後解説者を務めていたが、2010-2011シーズンからニュージャージー・ネッツのHCに就任。24勝しか記録できなかったが、翌シーズンの巻き返しが期待される。

コーチとしても一流だが、選手としても一流で、背番号6はスパーズの永久欠番となっている。

ニック・ヴァン・エクセル ~Nick The Quick~

0907シンシナティ大学でプレーし、オールアメリカンに選ばれ、ウッデン賞候補にも選ばれたエクセルは、1993年のドラフト2巡目でロサンゼルス・レイカーズに入団した。

当時のレイカーズは再建期で、同期のエディー・ジョンソンと共にチーム立て直しのキーマンとして期待され、80試合に先発。平均13.6得点、2.9リバウンド、5.8アシスト、1.0スティールを記録し、オールルーキーセカンドに選ばれた。

スピーディーで勝負強く、ブザービーターを数多く決めるなど華があり、“Nick The Quick”と呼ばれていた。

他にもラインからあえて1フィート下がってフリースローを投げることでも有名であったが、成功率は70%台後半を維持していた。

ジョンソンと共にレイカーズを再び強豪と呼べるまでに押し上げたが、HCやチームメイトと確執を作るようになり、オールスターにも出場した1997-1998シーズン終了後にデンバー・ナゲッツにトレードで移籍した。

当時のナゲッツはNBAでの最弱のチームであったが、エクセルは一人気を吐き、キャリアハイに近い成績を記録。しかし年俸が1000万ドルを超えてチームのサラリーキャップに余裕がなくなったこともあり、2001-2002シーズン途中にダラス・マーベリックスにトレード。

0908マブスではシックスマンとなり、少ないプレイタイムながらもかなりの得点を稼いだ。

2003-2004シーズンにはトレードでゴールデンステート・ウォリアーズに移籍。しかし自己最低の39試合の出場に終わり、シーズン終了後にまたしてもトレード。ポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。

ブレイザーズでは持ち直し、53試合中34試合に先発。翌シーズンはサンアントニオ・スパーズでプレーし、同年限りで現役を引退した。現在はアトランタ・ホークスでコーチを務めている。

通算スリーポイントシュート成功数1528は歴代14位の大記録である。

ティム・ハーダウェイ ~Killer Crossover~

0872有名なストリートバスケット選手の父のもと、シカゴで生まれたハーダウェイは、テキサス大エルパソ校で活躍し、1989年に全体14位でゴールデンステート・ウォリアーズに入団した。

身長183センチの小兵ながら、1年目から平均14.7得点、8.7アシスト、2.1スティールの活躍を見せ、オールルーキーファーストに選出。ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンとともに"Run TMC"として名を売った。

ハーダウェイ自ら必殺の"キラー・クロスオーバー"で敵陣に切り込んでよし、リッチモンドにパスして決めさせてもよし、あるいはマリンがロングシュートを沈めてもよし、というのがウォリアーズの当時の得点パターンであった。

驚異的スピードで得点とアシストを量産し、1992-1993シーズンには早くも10000得点、5000アシストを達成。これはオスカー・ロバートソンに次ぐスピード記録であった。

しかし、このシーズンひざを故障し、キャリアを通じてひざの怪我に悩まされ続けることになるのは皮肉であった。

特に1993-1994シーズンにはひざの故障で全休。翌シーズンから復帰したものの、成績は落ち込み、1995-1996シーズン途中にマイアミ・ヒートに放出された。

ヒートでは故障で失ったスピードを技術で補うようになり、1996-1997シーズンには平均20.3得点、8.6アシストと活躍。アロンゾ・モーニングとともにチームリーダーとしてヒートをけん引した。

0871プレーオフでは勝ちきれないものの、毎シーズンのように地区優勝を達成する強豪にチームを押し上げ、2000年にはシドニー五輪に出場。若手中心で前評判が悪いチームだったが、なんとか金メダルを獲得した。

2001年に高齢を理由にダラス・マーベリックスにトレード。さらにシーズン途中にデンバー・ナゲッツに移籍し、翌2002-2003シーズンはインディアナ・ペイサーズでプレー。同年限りで現役を引退した。

チームを強豪に押し上げた功績をたたえ、ヒートはハーダウェイの背番号10をチーム初の永久欠番に制定した。

引退後は独立リーグのコーチを務め、現在は解説者として活動している。

ディオン・サンダース ~Neon Deion~

0769子供のころから器用になんでもできたディオンは、ハイスクール時代から野球、フットボール、バスケットで活躍し、フロリダ州立大学でも野球とフットボールに加えて陸上競技でも活躍した。

野球のダブルヘッダーの間に陸上の400メートルリレーに出るなどの荒業を駆使して3競技をすべてで活躍し、1988年には最優秀DBに与えられるジム・ソープ賞を受賞した。

同年外野手としてドラフト30巡目でニューヨーク・ヤンキースに指名され、フットボールの合間にマイナーでプレーして1989年には21歳にして初昇格を果たしたが、同年は14試合の出場に終わった。

昇格にあたって背番号18について感想を求められ、"俺を満足させるのは200万(ドル)だ"と発言して騒動を起こしている。

さらに同年全体5位でアトランタ・ファルコンズに入団。れっずとNFLとMLBの二足のわらじをはく生活が始まった。

1年目からCB兼リターナーとして5INT、1PRTDを記録。TDを記録したのと同じ週にMLBでHRを打ち、1週間のうちにHRとTDの両方を記録した唯一の選手となった。

パワーに乏しいものの、驚異的ともいえるスピードと身体能力の持ち主で、CBをやればINTを連発。外野手をやれば守備範囲はMLBでも有数であった。

しかし自分勝手で生意気な性格で、しばしば首脳陣やチームメイトと衝突。1991年にはヤンキースからFAでアトランタ・ブレーブスに移籍した。

どちらの競技もアトランタに落ち着いたことで成績を伸ばし、フットボールでは6INT、1TD、1.0サック、1KRTDを記録してプロボウルに初選出。野球でも54試合で11盗塁を記録した。

さらに1992年には97試合の出場で打率.304、26盗塁、リーグ最多の14三塁打を記録。フットボールではリーグ最高の1067キックオフリターンヤード、2KRTD、3INT、1レシービングTDの大活躍でプロボウルに加えてオールプロにも選出された。

プロボウルではジム・ケリーが逆サイドに投じたパスを力ずくでインターセプトする荒業を見せ、周囲を唖然とさせた。

同年ブレーブスはプレーオフに進出し、ピッツバーグ・パイレーツと対戦。故障者が続出するブレーブスにサンダースは比露とされたが、NFLの試合にも出場しなければならないため、ヘリコプターを利用して球場を移動し、両方の試合に出場した。

07701993年にもキャリアハイの7INTを記録してプロボウルとオールプロに選出され、野球でもワールドシリーズに進出。しかし、周りと問題ばかり起こすトラブルメーカーぶりは相変わらずであった。

1994年はFAでサンフランシスコ・49ersに移籍。野球の方もシーズン途中にシンシナティ・レッズに移籍した。

フットボールでは超一流だが、野球では控え外野手の域を出ないため、この頃からフットボールにさらに重きを置くようになり、6INTでリーグ最多の303リターンヤード、3TDを記録。最優秀守備選手のタイトルを獲得し、スーパーボウル制覇に大きく貢献。スーパーボウルとワールドシリーズに進出した唯一の選手となった。

ジェリー・ライスと確執を作ってFAとなり、争奪戦の末にダラス・カウボーイズと契約。7年3500万ドル、契約ボーナス1300万ドルは当時の守備選手としての最高記録であった。

オークランド・レイダーズの方が好条件を提示したが、友人であるマイケル・アービンがいて、なおかつリングを狙えるカウボーイズを選んだ。

カウボーイズではディオンに恐れをなした相手QBがディオンの守る右サイドにパスを投げなかったせいでINTは増えなかったが、シャットアウトコーナーとしての地位を確立し、チームのスーパーボウル制覇に貢献。2年連続でリングを手にした。

このスーパーボウルではCBとしてINTを記録し、さらにWRとしてパスレシーブも記録。この両方をスーパーボウルで達成したのはサンダースだけである。

同年限りで一旦野球を引退し、フットボールに専念することを発表した。

その後もカウボーイズディフェンスの顔として活躍したが、チームはなかなかスーパーボウルに進出できず、そのことを気に病んで1997年には自殺未遂を起こしている。

その影響もあって1997年にレッズと再契約し、トニー・ウォーマックに次ぐリーグ2位の56盗塁を記録したが、その後は再び野球から離れた。

フットボールの方では4年連続でプロボウルに選ばれる活躍を見せたが、2000年にワシントン・レッドスキンズに移籍。4INTを記録したが、同年限りでフットボールを引退し、今度は野球に専念することを発表した。

マイナーでのプレーを経て2001年にレッズに昇格し、32試合でプレー。その後野球を引退した。

2004年にボルチモア・レイブンズと契約し、NFLに復帰。5INTを記録して同年限りでアスリートとから引退した。

野球では控え外野手のままで終わったが、フットボールでは90年代のオールディケードチームに選ばれ、2011年にはプロフットボール殿堂入りを果たしている。

現在はフットボールの解説者を務める稀代のマルチアスリート、サンダース。昨シーズンのスーパーボウルでコイントスに現れたのが記憶に新しい。
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