4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

HOU

リック・バリー ~Under Throw~

0992選手であった父と兄の厳しい指導の下バスケットを学んだリックは、長身もあってメキメキと素質を開花させていったが、意外にも野球の方が好きであった。後の背番号24はウィリー・メイズにちなんだものである。

ハイスクールでは野球とバスケットで素晴らしい成績を残し、後の代名詞となるアンダースローをこのころ身に着けたが、気性に難があったためしばしば問題を起こした。

寒さを嫌ってあえて当時弱小校だったマイアミ大学に進学。弱小ゆえにさまざまな不便を強いられる中、ブルース・ヘールHCの熱心な始動と人柄に薫陶を受けたバリーは人間としても選手としても大きく成長した。

最終学年の1964-1965シーズンには平均37.1得点という大活躍でDiv.Iの得点王を獲得。通算成績は平均29.8得点、16.5リバウンドというものであった。

全体1位もあると目されていたが、細身な体とと気性が問題視され、1位指名権を持っていたニューヨーク・ニックスはビル・ブラッドリーを指名して。バリーはサンフランシスコ・ウォリアーズが2位指名で獲得した。

この指名が納得できなかったバリーは怒りをプレーにぶつけ、平均25.7得点、10.6リバウンドという成績で堂々の新人王を受賞。前年17勝に沈んだチームを一気に35勝まで立て直した。

2年目には平均35.6得点というとてつもない成績をマーク。当時得点王を7年連続で受賞していたウィルト・チェンバレンから得点王を奪い取った。

さらに翌シーズンはオールスターでMVPを獲得し、3年前はぼろぼろだったチームをチームをファイナルまで導くという偉業を達成した。

ファイナルではフィラデルフィア・76ersを相手に1試合50得点を決めるなど暴れに暴れたが、2勝4敗でリングには手が届かなかった。

身長2メートルを超えながらガードと見まがうスピード、高いシュート精度に堅いディフェンス、苦しい場面になるほど燃える激しい闘志と、あらゆるものを備えたSFであり、NBAの宝であったが、1967年に大事件が起こる。

当時NBAを追い抜くべく誕生したABAは、NBA選手を引き抜くことに必死になっていた。

バリーはオークランド・オークスに3年50万ドルともいわれる巨額の契約金を掲示された。さらにバリーが第二の父と慕うヘールHCをオークスは招聘し、バリーをついに引き抜くことに成功した。

0991ウォリアーズのミューリーオーナーはバリーの移籍に嘆き悲しみ、バリーのユニフォームをオフィスに飾ってバリーを取り返すことを誓ったという。

この事件は裁判沙汰になり、1967-1968シーズンをバリーはABAでプレーできないことになったが、解説者として登場してファンを喜ばせた。

しかし、バリー不在のチームをヘールは指揮する羽目になり、バリーの復帰を待たずに解任。しかし復帰したバリーは暴れに暴れた。

だが、悪いことは続くようで、1969年の12月にひざの靭帯を切る大怪我を負い、無理に出場しようとしてさらに悪化させ、長期の離脱を余儀なくされたが、バリー抜きでも圧倒的な強さを見せて、ABA優勝を達成してしまった。

しかし客入りが悪化し、ついにはオーナーが交代。チームはワシントンに移籍することになり、ワシントン・キャップスと改称された。

移転初年は怪我を押して出場したが、交通の便の悪さから過密日程を余儀なくされ、チームは低迷。それにイラついたのかプレーオフで乱闘沙汰を起こして退場処分を受けている。

その後チームは移転してバージニア・スクワイヤーズとなったが、南部批判ともとれる発言で批判を浴び、ニューヨーク・ネッツに放出された。

ニューヨークでプレーしたがっていたバリーにとっては願ったりかなったりだったが、ひざの故障で思うように動けなかったが、スリーポイント採用の影響もあって得点王を獲得。NBAとABA両方で得点王を獲得したのは史上初の快挙であった。

本人もネッツでの生活を気に入ってたが、ウォリアーズのミューリーオーナーが再び裁判を起こしてネッツの契約を打ち切らせ、ウォリアーズに復帰した。

故障持ちになったバリーは俊敏さを失っていたが、パワーと技術を磨いて補い、1972-1973シーズンには当時のNBA記録の平均4.9アシスト、フリースロー成功率も90.2%でリーグトップをマークした。

チームメンバーを入れ替えて臨んだ1974-1975シーズン、バリーはついにチャンピオンリングを手にしたが、その後はチームケミストリーを悪化させ、1977-1978シーズンを持ってヒューストン・ロケッツに移籍した、。

バリーの活躍でロケッツは大井に成績を向上させたが、1980-1981シーズンのロースター縮小に伴い、高齢を理由に解雇され、そのまま現役を引退した。

アンダースローから投じた通算フリースロー成功率.893は歴代6位の大記録である。

引退後は解説者に転じたほか、マイナーでの指導も行った。さらに、フリースローが下手なシャキール・オニールにアンダースローを伝授しようとしたが、格好悪いということでシャック自ら断りを入れたという。

背番号24はウォリアーズの永久欠番、殿堂入りも果たしている。

ブレント・バリー ~White Dunker~

0990リック・バリーの4人の息子の三男、ブレントは兄弟の仲で最も素質ある選手だった。

オレゴン州立大学でプレーし、1995年にデンバー・ナゲッツが全体15位で指名。直後にロサンゼルス・クリッパーズにトレードされ、クリッパーズでキャリアをスタートさせた。

父や兄弟同様のシューターでありながら優れたパサーであり、ダンカーでもあるという万能選手で、1年目から44試合に先発し、平均10.1得点、2.9アシスト、1.2スティールという好成績を記録した。

さらにスラムダンクコンテストに出場し、フリースローラインから踏み切ってダンクを決め、白人として同コンテストを初制覇する快挙も達成し、オールルーキーセカンドに選ばれた。

しかし、その能力の割に先発の機会を得ることができず、控えとしてマイアミ・ヒート、シカゴ・ブルズとチームを渡り歩いたが、1999-2000シーズンにシアトル・スーパーソニックスに移籍すると、ついにブラントは本格化した。

1年目から80試合中74先発を果たし、平均11.8得点、4.7リバウンド、3.6アシスト、1.3スティールを記録。翌シーズンは大学の先輩にあたるゲイリー・ペイトンの控えになったものの、その後はポジションを転々としながら先発をつづけた。

本職はSGであるが、パスセンスや視野の広さを生かしてPGをやれば長身で他のPGを圧倒でき、さらにやろうと思えばSFもできるなど、この時期につぶしのきく選手に成長していった。

0989平均アシストが5を超えるシーズンも複数あるなど、ソニックスの中心として活躍していたが、2003年にサンアントニオ・スパーズに移籍した。

スパーズでは2005年と2007年にリングを獲得し、3例しかいない父子での優勝を達成。控えに戻ったものの依然チームの中心として活躍をつづけた。

2008年に父リック、兄ジョンに次いでヒューストン・ロケッツに移籍したものの、満足な成績を残せず、1シーズンで解雇。そのまま同年を持って現役を引退した。現在は解説者を務めている。

リック兄弟で一番成功したのがこのブレントである。父子殿堂入りも夢ではないかもしれない。

ジョン・バリー ~孝行息子~

0987リック・バリーの二男として生まれたジョンは、ほかの三人の兄弟と共にバスケットの道を志した。

兄のスコットはNBAでのプレーには至らなかったが、ジョンはパシフィック大学とジョージア工科大学でプレーし、1992年に全体21位でボストン・セルティックスに入団した。

しかし、せっかく指名されたにもかかわらず契約で揉め、結局セルティックスでプレーすることはなく、トレードでミルウォーキー・バックスに放出され、バックスでキャリアをスタートさせた。

父親同様シュートの精度は素晴らしく、スリーポイント成功率が4割を超えたシーズンが14年で5回もあるが、レギュラーを獲得するには至らず、もっぱら控えとして選手人生を過ごした。

1995年にゴールデンステート・ウォリアーズに移籍したのを皮切りにアトランタ・ホークス、ロサンゼルス・レイカーズと渡り歩き、1998-1999シーズンにサクラメント・キングスに落ち着いた。

キングスでも控えであったが、プレーオフに強いということがわかるとプレーオフでは積極的に器用されるようになり、プレーオフでは2年連続で平均20分のプレイタイムを獲得した。

2001年にデトロイト・ピストンズに移籍。ピストンズでもプレーオフでは高いポテンシャルを見せ、2002年の1回戦第1戦、トロント・ラプターズ戦では3分で12得点を稼ぐ活躍を見せた。

09882003年にデンバー・ナゲッツに移籍すると、ホークス、ヒューストン・ロケッツと再びチームを渡り歩き、2006年にロケッツを解雇され現役を引退した。現在は解説者として活動している。

15年で821試合に出場しながら先発はたったの36試合、移籍すること実に8回。スーパーサブと呼ぶに相応しい選手ではないだろうか。

チャールズ・バークリー ~空飛ぶ冷蔵庫~

0983バークリーといえば横幅の大きい体型であるが、これはどうやら生まれつきのものらしい。ハイスクールでは1年時は身長が178センチしかなかったにも関わらず、体重はなんと99.8キロもあったという。

その後身長は198センチまで劇的に伸び、オーバーン大学に進学。当初はあまり目立つ選手ではなかったが、体型を生かした支配力と意外なまでの跳躍力を武器に頭角を現し、ロサンゼルス五輪の候補にもなった。

1984年に全体5位でフィラデルフィア・76ersに入団。当時のシクサーズはスターのそろった強豪であったが、バークリーは1年目からPFのレギュラーを獲得。3年目の1986-1987シーズンには平均14.6リバウンドでリバウンド王を獲得し、オールスターに初選出された。

193センチとも言われる低身長でありながら体重は120キロもあり、それでいてスピードもスタミナも一級品という稀有な存在で、攻守どこを見ても非常にうまく、隙のない万能選手であった。

2メートルに満たないバークリーがフロントコートで大男を跳ね飛ばす姿は爽快の一言で、日本でも人気があり、カップラーメンのCMに出たり、ナイキのCMでゴジラと闘う姿を覚えている読者も多いだろう。

しかし、バークリーの活躍とは裏腹にチーム成績は落ち込み、チームと確執を作ったバークリーは移籍を志願。ドリームチームに選ばれた1991-1992年シーズン終了後にトレードでフェニックス・サンズに移籍した。

サンズではPGケビン・ジョンソンとともにチームをけん引し、62勝20敗という驚異の成績をマーク。これはジョーダン率いるシカゴ・ブルズすらしのぐ数字であった。

バークリーはMVPを受賞し、チームはファイナルに進出。しかし、ブルズ相手には分が悪く、初優勝はならなかった。

その後バークリーは故障で休みがちとなり、チームにもそれが伝染したのか負傷差者が続出。ブルズに引けを取らないスター軍団でありながらサンズはなかなか勝ちきることができず、バークリーはここでもオーナーと確執を作りだした。

0984そして1995-1996シーズン終了後、チャンピオンリングがどうしても欲しいバークリーは、目下二連覇中のヒューストン・ロケッツに移籍。しかし、このシーズンジョーダンがブルズに復帰し、ロケッツはファイナルに進出できず、バークリー自身も故障の影響か得点力を大きく落とした。

その後ひざの故障を悪化させたバークリーは68試合、42試合と年々出場が減り、1999-2000シーズンにはついに20試合まで出場が減り、同年を持って現役を引退した。

リングはついに手にできなかったが、通算20000得点、10000リバウンド、4000アシストを超えた選手はバークリーを含めて5人しかいない。

2004年に殿堂入り、背番号34は76ersとサンズで永久欠番になっている。

引退後は趣味のギャンブルを存分に楽しむ他(通算で1000万ドル以上も損をしているらしい)、アラバマ州の知事選挙に出馬するという噂が選挙のたびに聞かれる。

相方のジョンソンがサクラメント市長になったくらいなので、バークリーも出馬すれば知事になれるかもしれない。

エイブリー・ジョンソン ~Little General~

0931ハイスクール時代には35勝無敗という圧倒的活躍でルイジアナ州のチャンピオンに輝き、サウザン大学では1987-1988シーズンにNCAA記録の平均13.3アシストをマークしたジョンソンだったが、180センチの身長が災いしてかドラフトで指名されず、USBLに進んだ。

1988-1989シーズン途中にシアトル・スーパーソニックスと契約。PGとして43試合に出場し、翌シーズンの契約を勝ち取った。

翌シーズンも53試合に出場し、平均3.1アシストを記録したものの、シーズン終了後にデンバー・ナゲッツにトレードで移籍した。

しかしシーズン途中にウェーバーになり、サンアントニオ・スパーズに移籍。しかし翌シーズンにはウェーバーとなり、ヒューストン・ロケッツと10日間のトライアウト契約を結び、そのままシーズンを過ごした。

オフにスパーズと再び移籍し、75試合出場のうち49先発。平均11.6リバウンド、9.9アシスト、1.5スティールの好成績を残した。

翌1993-1994シーズンにゴールデンステート・ウォリアーズに移籍。70先発でスターターの座をつかみ、オフに三度スパーズに復帰した。

ようやくスパーズに腰を落ち着け、1995-1996シーズンにはキャリアハイとなる平均13.1得点、9.6アシスト、1.5スティールを記録。親友の"提督"デビッド・ロビンソンにちなんで"Little General(小さな将軍)"と呼ばれた。

1998-1999シーズンにはNBAチャンピオンに輝き、その後もスパーズのバックコートを引き締めていたが、2001-2002シーズンにナゲッツに移籍。さらにシーズン途中にダラス・マーベリックスに移籍し、翌シーズンはウォリアーズに移籍。同年限りで現役を引退した。

0932翌シーズンからドン・ネルソンHCのもとマブスのコーチに就任。シーズン終了間際にHCに昇格し、16勝2敗の好成績で月間最優秀コーチのタイトルを獲得した。

翌シーズンには60勝22敗の成績で2年目にしてファイナルまで進出。しかしマイアミ・ヒートに4連敗し、マブスの初優勝はお預けとなったが、最優秀コーチ賞を受賞した。

翌シーズンは67勝を記録して地区優勝を達成。翌シーズンも51勝を記録したものの、このシーズンのサウスウェストディビジョンは激戦区で、地区4位に終わり、プレーオフもファーストラウンドで敗退。このシーズンを持って退任した。

その後解説者を務めていたが、2010-2011シーズンからニュージャージー・ネッツのHCに就任。24勝しか記録できなかったが、翌シーズンの巻き返しが期待される。

コーチとしても一流だが、選手としても一流で、背番号6はスパーズの永久欠番となっている。
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