4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

IND

ダレル・アームストロング Darrell Armstrong ~Worst Dunk~



Darrell Armstrong(ダレル・アームストロング)
(1968-)
basketballer
Position: Point Guard
Height:183cm Weight:77kg
Stuts


ノースカロライナの片田舎に生まれたアームストロングがバスケットを始めたのは高校に入ってから、それもフットボールの片手間のことであった。

脚力を活かしてキッカーとして活躍し、Div.IIのファイエットビル州立大へ進み、同大のレコードとなる48ヤードのFGを決めるなど活躍していたのだが、バスケットチームのHCに素質を見出されてバスケットに転向。こちらでも活躍を見せた。

とはいえDiv.IIではドラフトに掛かるはずもなく、卒業後は独立リーグでキャリアをスタートさせた。

毛糸工場でアルバイトをしたりと苦労を重ね、1993年にはヨーロッパはキプロスに渡り、当地でMVPを獲得。翌シーズンからはスペインでプレーし、1994-1995シーズンの最終盤にオーランド・マジックと契約。この時既に26歳であった。

シーズン最後の3試合で8分プレーし、小兵ながらもフットボール仕込みのクイックネスと豪快なダンクを武器に10得点を獲得。翌シーズン以降の契約を勝ち取った。

翌シーズンは13試合に出場し、得意のダンクを認められてスラムダンクコンテストに出場。背面ダンクを決めようとしたのだが、タイミングを誤ってレイアップになってしまうという珍プレーを見せてしまい、"史上最悪のダンク"としてスラムダンクコンテストの歴史に良くも悪くも名を残すことになってしまった。

スラムダンクコンテストで活躍した選手は出世するというジンクスがあるが、失敗もここまでいくと活躍の内ということになるらしく、翌シーズン以降は故障がちなアンファニー・ハーダウェイの控えとして確固たる地位を獲得。

1998-1999シーズンはロックアウトで50試合の短縮シーズンとなったが、アームストロングは全試合に出場し、13.8得点、6.7アシスト、2.2スティールの好成績をマーク。史上初めてMIPとシックスマン賞を同時受賞する快挙を達成した。

その後もチームになくてはならない存在としてマジックのバックコートを盛り立てていたのだが、契約最終年となる2003年のオフにナイトクラブで警官といざこざを起こして逮捕され、34歳という年齢と年俸もネックとなって再契約はならず、ニューオーリンズ・ホーネッツに移籍した。

だがこれはマジックの失敗だった。マジックはアームストロングの在籍した9年間負け越し無し、プレーオフ進出7回という安定した成績を残していたのだが、アームストロングを放出した途端大きく負け越してしまったのだ。

一方アームストロングはホーネッツでもシックスマンとして重用され、79試合に出場。翌2004-2005シーズン途中にダラス・マーベリックスへトレード。

マーベリックスでは試合前に贔屓にしていたワシントン・レッドスキンズが勝った事が嬉しく、勝手にアリーナのマイクを取って「レッドスキンズは凄いだろう!」と叫んで1000ドルの罰金を取られる事件を起こしている。こともあろうにレッドスキンズの相手はダラス・カウボーイズだったのだ。

ともあれマーベリックスでもプレイタイムは減ったものの、2005-2006シーズンには自身初のファイナルにも進出。

シーズン後アンソニー・ジョンソンとのトレードでインディアナ・ペイサーズへ移籍。更に翌シーズンはニュージャージー・ネッツへ移籍し、39歳のこのシーズンをもって引退した。苦労と遠回りを重ねながらのキャリアであった。

引退後はペイサーズ時代のHCだったリック・カーライルがマーベリックスのHCに就任するのに併せてアシスタントコーチに就任。2011年には現役時代にとうとう果たせなかったファイナル制覇を成し遂げ、現在に至るまでコーチを務めている。


ミルキーウェイ

スコット・スカイルズ ~助ける人~

0985ハイスクール時代から有名選手だったスカイルズは、ミシガン大学でもたぐいまれな得点力で暴れに暴れ、カンファレンスMVPを獲得し、同大学のシーズンと通産の得点記録を樹立した。

しかし素行はあまりよくなく、麻薬や飲酒運転での逮捕歴があり、15日服役したこともある。

1986年に全体22位でミルウォーキー・バックスに入団。しかしルーキーイヤーは13試合しか出場できず、1年でインディアナ・ペイサーズにトレード。さらに1988-1989シーズン終了後にエキスパンションドラフトでオーランド・マジックに移籍した。

マジックでは控えとして積極的に起用され、わずかなプレイタイムで平均7.7得点、4.8アシストを記録。翌シーズンからはスターターに抜擢された。

PGとしては出色の得点力も魅力だったが、なんといってもスカイルズはパスセンスが優れていた。1989-1990シーズンは12月30日のデンバー・ナゲッツ戦で1試合30アシストのNBA記録を樹立。平均17.2得点、8.4アシストの大活躍を見せてMIPを受賞した。

一躍名を知られる存在となったスカイルズの活躍は目覚ましく、1992-1993シーズンにはキャリアハイの平均9.4アシストを記録した。

1994年にワシントン・ブレッツに移籍。翌シーズンはフィラデルフィア・76ersに移籍したものの、肩の故障で10試合しか出場できず、シーズン終了後に解雇。NBAからは誘いを受けず、スカイルズはヨーロッパへ渡った。

ギリシャの名門PAOKテッサロニキに入団したが、故障もあって思うような成績を残せず、フランス人のミシェル・ゴメスHCと対立し、シーズン途中に解雇。しかし、これが思わぬ形でスカイルズを救った。

当時PAOKは低迷しており、そのため球団はゴメスHCをシーズン途中に解任。後釜に選ばれたのはなんとスカイルズであった。

0986スカイルズはここで思わぬ好成績を収め、ギリシャリーグ優勝を達成したうえ、ユーロリーグにも出場。シーズン終了後にこの実績を手土産にフェニックス・サンズのコーチに就任した。

1999-2000シーズンからHCに昇格。1年目からいきなりプレーオフに進出し、ディフェンディングチャンピオンのサンアントニオ・スパーズを撃破する大番狂わせを見せるなど手腕を発揮し、3シーズンで2回プレーオフに進出。しかし2001-2002シーズンを最後に解任されてしまい、シカゴ・ブルズのHCに就任した。

当時のブルズは若いチームであり、スカイルズはこの若いチームを堅守のチームに育て上げた。

26試合連続100失点以下のNBA記録を樹立するなど有能であったが、2007-2008シーズン途中に解任。ジョン・パクスソンGM曰く難しい選択だったらしいが、その後のブルズを見る限り、悪い選択ではなかったようだ。

一方スカイルズは翌シーズンから古巣バックスのHCに就任。2009-2010シーズンにはプレーオフ進出を果たしたものの、現在に至るまで苦しいシーズンが続いている。

マーシャル・フォーク ~羊馬~

0971ニューオーリンズで生まれたフォークは、サンディエゴ州立大学で1429ラッシングヤードの1年生記録を樹立。オールアメリカンに3回選ばれ、NCAA歴代8位となる通算62TDを記録。1994年に全体2位dえインディアナポリス・コルツに入団した。

1年目からたぐいまれなスピードとレシーブ能力を披露し、1282ラッシングヤード、52レシーブで522ヤードを記録。攻撃新人王とプロボウルMVPを同時に獲得する快挙を達成した。

翌シーズンも1078ヤードを走る活躍を見せたが、プレーオフで首を故障。AFCチャンピオンシップゲームを欠場し、ランオフェンスの要を欠いたコルツはピッツバーグ・スティーラーズに敗れた。

翌シーズンはかかとの故障で13試合、587ラッシングヤードと不本意な成績に終わったものの、1997年シーズンには復活。続く1998年シーズンには1319ラッシングヤード、86レシーブ、908ヤードでリーグトップの計2227ヤードを記録した。

しかし、若返りを図るチーム方針の影響で翌シーズン開幕前にセントルイス・ラムズへトレード。本人いわく"何かの誤解"というほど衝撃的なトレードであった。

7年4520万ドルというラムズ史上最高額の契約を結んで迎えたシーズン、カート・ワーナーとともにラムズ大躍進の両輪となり、1381ラッシングヤード、RBの最高記録となる1048レシービングヤードの計2429ヤードでNFL記録を更新。スーパーボウル制覇の原動力となった。

0972翌シーズンは故障で2試合欠場したにもかかわらず、リーグトップの18TDラン、8TDレシーブでNFL記録の計26TDを記録し、MVPを受賞。2001年シーズンもワーナーに次ぐ2位の得票を得て、ラムズ黄金時代の象徴となった。

しかし、その後は故障と年齢から衰えが激しくなり、2006年にはシーズンを全休して解説者として活動。結局復帰することはなく、2007年に引退を表明した。

通算19154ヤードは歴代4位であり、10000ラッシングヤード、5000レシービングヤードは他にマーカス・アレンとティキ・バーバーしか達成していない。

背番号28はラムズの永久欠番となり2011年には殿堂入りを果たしている。

バートランド・ベリー ~Arizona Sacker~

0886ハイスクールではOLBとして活躍するほか、バスケットや円盤投げ、ハードルの選手としても活躍したベリーは、ノートルダム大学で活躍し、1997年にドラフト3巡目でインディアナポリス・コルツに入団した。

コルツでDEにコンバートされ、最初スペシャルチームでプレー。1998年に先発の座を獲得したが、4.0サックとあまり活躍できず、1999年シーズン終了後にカットされた。

その後セントルイス・ラムズと契約したものの開幕前に再びカットされ、CFLのエドモントン・エスキモーズに入団。1年間プレーした。

2001年シーズンにデンバー・ブロンコスと契約。2002年には控えながら6.5サックを記録し、翌シーズンは先発に定着。11.5サックを記録した。

2004年にアリゾナ・カージナルスに移籍。DEのレギュラーとして14.5サックを記録し、プロボウルに初選出。FAで失敗ばかりしてきたカージナルスの初の大型補強成功であった。

人格者でもあり、カージナルスディフェンス陣のリーダーでもあったが、その後は故障が目立つようになり、成績を残しながらも毎年リタイヤする羽目になった。

08852007年からは3-4ディフェンスの採用に伴いOLBでも起用されるようになり、やや成績は持ち直したが、故障と衰えはどうしようもなく、2009年に現役を引退した。

カージナルスでの出場は72試合、52先発にとどまったが、チーム歴代6位の40.0サックを記録している。

引退後は白血病の子供のための財団を運営し、世のため人のために頑張っている。

ティム・ハーダウェイ ~Killer Crossover~

0872有名なストリートバスケット選手の父のもと、シカゴで生まれたハーダウェイは、テキサス大エルパソ校で活躍し、1989年に全体14位でゴールデンステート・ウォリアーズに入団した。

身長183センチの小兵ながら、1年目から平均14.7得点、8.7アシスト、2.1スティールの活躍を見せ、オールルーキーファーストに選出。ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンとともに"Run TMC"として名を売った。

ハーダウェイ自ら必殺の"キラー・クロスオーバー"で敵陣に切り込んでよし、リッチモンドにパスして決めさせてもよし、あるいはマリンがロングシュートを沈めてもよし、というのがウォリアーズの当時の得点パターンであった。

驚異的スピードで得点とアシストを量産し、1992-1993シーズンには早くも10000得点、5000アシストを達成。これはオスカー・ロバートソンに次ぐスピード記録であった。

しかし、このシーズンひざを故障し、キャリアを通じてひざの怪我に悩まされ続けることになるのは皮肉であった。

特に1993-1994シーズンにはひざの故障で全休。翌シーズンから復帰したものの、成績は落ち込み、1995-1996シーズン途中にマイアミ・ヒートに放出された。

ヒートでは故障で失ったスピードを技術で補うようになり、1996-1997シーズンには平均20.3得点、8.6アシストと活躍。アロンゾ・モーニングとともにチームリーダーとしてヒートをけん引した。

0871プレーオフでは勝ちきれないものの、毎シーズンのように地区優勝を達成する強豪にチームを押し上げ、2000年にはシドニー五輪に出場。若手中心で前評判が悪いチームだったが、なんとか金メダルを獲得した。

2001年に高齢を理由にダラス・マーベリックスにトレード。さらにシーズン途中にデンバー・ナゲッツに移籍し、翌2002-2003シーズンはインディアナ・ペイサーズでプレー。同年限りで現役を引退した。

チームを強豪に押し上げた功績をたたえ、ヒートはハーダウェイの背番号10をチーム初の永久欠番に制定した。

引退後は独立リーグのコーチを務め、現在は解説者として活動している。
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