4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

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ラモン・マルチネス ~弟には負けられない~

0959ペドロ・マルチネスは少し野球に詳しい人なら大抵知っているが、ペドロの兄のラモンを知っているのはオールドファンかよほどのマニアだろう。

ペドロより3年早く生まれたラモンは1984年に16歳でロサンゼルス・ドジャースと契約。マイナーで順調に成長し、1988年には20歳にしてメジャーデビューを果たした。

リーグ最年少選手として迎えたルーキーイヤーは1勝3敗に終わったものの、翌シーズンは6勝4敗、防御率3.19を記録。2完投はいずれも完封とポテンシャルの高さを見せつけた。

翌1990年、20勝6敗、防御率2.92の好成績を残して一気にブレイク。リーグトップの12完投、2位の223三振を記録し、オールスターに初選出。サイ・ヤング賞の投票でも2位に入った。

ペドロ同様剛速球の持ち主で、身長193センチとペドロよりもだいぶ長身だったが、制球難を抱えており、三振も四球も多い粗削りなピッチャーであった。

波はあるもののポテンシャルは弟同様ぴか一で、1993年にはペドロとともにローテーションを守り、10勝12敗を記録したが、リーグワーストの104四球もおまけもついてきた。

ペドロのほうが自分より才能があることを知っていて、そのことを公言していたが、上背がないことを理由にペドロはオフにトレードされてしまった。

その後のペドロの活躍は知ってのとおりであるが、ラモンも1992年に8勝に終わったほかは2ケタ勝利を続け、野茂秀雄とともにドジャースのエースとして活躍。1995年にはノーヒッターを達成している。

0960しかし1998年は故障で7勝3敗に終わり、契約延長を勝ち取れずFAに。ボストン・レッドソックスに移籍し。再びペドロとチームメイトとなった。

移籍1年目はマイナーでリハビリを続け、8月に昇格。2勝1敗、防御率3.05を記録した。

翌シーズンはローテーションに入り、10勝8敗を記録したものの、防御率6.13と不安定な内容で、オフに解雇。ピッツバーグ・パイレーツに移籍したものの4試合の登板に終わり、再び解雇された。

2002年はドジャースのキャンプに参加したもののロースターには残れず、同年限りで現役を引退。現在はドジャースのアドバイザーを務めている。

通算135勝88敗、防御率3.67という数字はまさしく一流の数字であり、ペドロの兄ということを抜きにしても立派な選手である。

マイク・ピアザ ~掘り出し物~

0922中古車販売と不動産事業で財をなした裕福な家に生まれたピアザだったが、以外にも子供のころにはピッチャーで、キャッチャーは一番嫌いなポジションだったという。

ピアザの父親とトミー・ラソーダ監督は親友同士だったため、その伝手で1977年のドジャース世界一の際のシャンパンファイトに参加したり、ドジャースタジアムでバットボーイをやったりした。

野球に熱心に打ち込むピアザのために両親は広大な土地を買い、打撃練習場を作った。自家発電機を備え、プロ仕様のバッティングマシンと照明塔まである豪華な施設で、ピアザはそこで一日中バッティング練習を続けた。

ハイスクールでは捕手が不足したため、監督に強肩を活かして捕手転向を勧められたが、あくまでキャッチャーは嫌だったのでファーストに転向。通算打率6割を超える強打者に成長したが、無名校であったためドラフトで指名を受けず、マイアミ大学に進学した。

大学では出場機会を与えられず、ほどなく出場機会を求めてマイアミ・デード大学に転校した。

本来プロになれるような実績を残していなかったが、1988年にドラフト62巡目でドジャースに指名されて入団。この年1433年が指名され、ピアザは全体1389位であった。

指名されたことを本人が知ったのはドラフト会議から2ヶ月後のことで、半ば縁故入団のようなものであり、"ラソーダのペット"と陰口を叩かれた。

しかし、バットボーイ時代に球場で見せたバッティングはラソーダに強烈な印象を残しており、"ピアザは最高のキャッチャーになる"と言ってはばからなかった。

キャッチャーの守備に苦しみながらも打撃を成長させ、1992年についにメジャーデビューを果たし、21試合に出場。続く1993年には正捕手のマイク・ソーシアが放出され、ピアザが正捕手に定着した。

ラソーダのエコひいきと言う声も飛んだが、打率.318、35HR、112打点の成績でオールスターに選出され、シルバースラッガー賞と新人王を受賞。もうピアザをペット呼ばわりする人間はいなくなった。

守備は下手くそで肩もMLBでは特別強いわけではなかったが、キャッチャーとしてはあり得ない程の長打力の持ち主で、10年連続でオールスターとシルバースラッガー賞に選出。1997年には自己最高の40HRを記録した。

しかしシーズン終了後に契約交渉がこじれ、5月にフロリダ・マーリンズにトレード。しかし前年世界地に輝いたマーリンズは年俸圧縮のための名物、"ファイヤーセール"の最中で、ピアザはわずか8日でニューヨーク・メッツに放出された。

0921メッツではチームにしばらく順応できず、批判の的になったが、後半になって成績を上げ、最終的に打率.348、23HR、76打点を記録。メッツでも強打の捕手は健在であった。

2000年にはワールドシリーズに進出し、ヤンキースと"サブウェイ・シリーズ"で衝突。同年のインターリーグでロジャー・クレメンスに頭部死球を食らっていたため、遺恨のカードとして注目されたが、第2戦でクレメンスに抑え込まれ、メッツは敗退した。

その後もメジャー一の強打の捕手として君臨し、1995年以来30HRを放っていたが、2003年に肉体の衰えから11HRに終わって記録が8年で止まると、高年俸もあって再び批判にさらされるようになった。

長年独身だった他、同僚と同居していたことからことからゲイ疑惑まで起こり、ボビー・バレンタイン監督が"ゲイがカミングアウトできる時代が来たと思う"と発言したことが余計に事を荒立て、わざわざ記者会見を開いて疑惑を否定するほどであった。ちなみに現在は結婚している。

翌シーズンは20HRとやや持ち直したものの、物足りない成績になった感は否めず、2005年シーズン終了後にサンディエゴ・パドレスに移籍。この頃からキャッチャーでの出場が減り、インターリーグではもっぱらDHでの起用になった。

イタリア系だったことから同年はWBCにイタリア代表で出場。主軸を担った。

翌シーズンはオークランド・アスレチックスに移籍。フランク・トーマスの後釜として期待されていたが、83試合しか出場できず、同年限りでFAとなり、2008年に引退を表明した。

引退後イタリアを中心にヨーロッパで野球の普及活動に従事。2009年には第2回WBCでイタリア代表のコーチを務めている。

球団関係者の子息が下位指名で縁故入団するのはよくある話である。しかし、コネでは427本もHRは打てない。

ペドロ・マルチネス ~地上最高~

0901ドミニカで生まれたマルチネスは、1988年に兄のラモンがいるロサンゼルス・ドジャースに入団。1992年にメジャー初昇格を果たした。

当時すでにドジャースのエースとなっていたラモンをして自分以上と言わしめた素質の持ち主で、翌シーズンは主にリリーフで起用され、10勝5敗、防御率2.61を記録。新人王投票で9位に入った。

本人は先発での起用を熱望していたが、公称180センチ、80キロと小柄(実際はもっと小さいという)だったため、先発での起用は不安視されていた。

しかし、これは名将ラソーダの失敗であった。1994年にトレードでモントリオール・エクスポズに移籍すると先発で起用され、11勝5敗、防御率3.42を記録。一気に頭角を現した。

続く1995年には14勝10敗を記録。6月3日のパドレス戦では9回までパーフェクトピッチングを見せたものの、味方の援護なく延長戦に突入。10回先頭打者にツーベースを許し、快挙を逃した。

1996年にはオールスターに初選出。しかしまだマルチネスは底を見せてはいなかった。

09021997年、31先発でリーグトップの13完投、17勝8敗、防御率1.90で最優秀防御率とサイヤング賞を獲得。エクスポズのエースはMLBのエースに成長を遂げた。

小柄ながら100マイル近い剛速球と鋭く変化する多彩な変化球を自在に操る本物のパワーピッチャーであり、クレメンスやシーバー、コーファックスと比較される大投手であった。

1998年にボストン・レッドソックスに移籍し、1999年、2000年にもサイヤング賞を受賞。1999年には23勝4敗というとてつもない成績を残し、2000年に記録したWHIP0.737はMLBレコードとなっている。

アリーグに移籍したことで投球スタイルに変化が生じ、わざと頭を狙って打者を脅かして抑えるという戦術をとるようになった。

この作戦は効果てきめんであったが、言うまでもなく恨みを買い、レッドソックスのメンツが荒くれ揃いだったこともあり、しばしば起乱闘沙汰を起こした。

2001年には故障で7勝に終わったが、2002年には20勝を挙げて復活。2003年にはチームをリーグチャンピオンシップまで導いたが、ニューヨーク・ヤンキースとの第3戦に事件が起こった。

いつも通りビーンボールを打者に食らわせたところ、過去に死球で生死の境をさまよったことがあるヤンキースのドン・ジマーコーチが激高。取っ組み合いになり、ジマーはマルチネスに首をつかまれて地面にたたきつけられた。

当時ジマーは72歳の高齢で、両チームのライバル関係もあって大きな波紋を呼んだが、ジマーが謝罪会見を開いたことで事態は収束。しかし、チームはシリーズ敗退となった。

翌シーズン16勝9敗と今一つの成績ながらもプレーオフに進出。ヤンキースに雪辱し、ワールドシリーズでカージナルスを粉砕。ついにビリー・ゴードの呪いを打ち破った。

シーズン終了後にニューヨーク・メッツに移籍。ナリーグでは打席に立たねばならないため、報復を恐れてかビーンボールは封印した。

1年目こそ15勝8敗としたものの、その後は故障でフルシーズンプレーできず、2009年にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。5勝1敗と言う成績を残したものの、わずか9登板に終わり、ワールドシリーズに進出して6戦に先発したが、松井秀喜にHRを打たれ、2つ目のリングは手に入らなかった。

その後FAとなり、去就が注目されていたが、先日引退を表明。219勝100敗の成績を残して去っていった。

地上最高の投手の呼び声は本物である。生きているうちにマルチネスを見られた我々は幸運と言えよう。

オーレル・ハーシュハイザー ~Dr. Zero~

0681バッファローの名家に生まれたオーレル・ハーシュハイザー3世は、野球のほかにアイスホッケーもやっていたが、ボーリンググリーン大学から1979年に全体17位でロサンゼルス・ドジャースに入団した。

 

1983年にメジャーデビューを果たし、1984年にロングリリーフとしてメジャー定着。後半から先発に回り、118敗、リーグ最多の4完封で防御率2.66を記録。新人王投票で3位に入った。

 

決して球は速くないが、針の穴を通すコントロールとシンカーを中心とした多彩な変化球を持っており、打たせて取る技巧派であった。

 

1985年にはさらに成績を伸ばし、193敗、防御率2.03で最高勝率を記録。サイヤング賞投票は3位につけた。

 

翌シーズンから連続で200イニング以上を投げ、1414敗、1616敗と安定して活躍。しかし、ハーシュハイザーの全盛期は1988年であった。

 

リーグ最多の267回を投げ、最多勝となる238敗、これまたリーグ最多の15完投8完封を記録。さらにドジャースの先輩であるドン・ドライスデールの記録を塗り替える59イニング連続無失点を記録。ドクター・ゼロとこの頃から呼ばれるようになった。

 

さらにニューヨーク・メッツとのリーグチャンピオンシップゲームでは4試合に登板して1完封1セーブを記録し、MVPを獲得。さらにオークランド・アスレチックスとのワールドシリーズでは2試合に先発し完封と1失点でいずれも完投勝利。世界一の原動力となり、MVPを受賞した。

 

同年はオールスター、ゴールドグラブ賞、サイヤング賞にも選出。リーグチャンピオンシップMVP、ワールドシリーズMVP、サイヤング賞を同時受賞したのはハーシュハイザーだけである。

 

0682しかし、翌シーズン初登板でいきなり無失点記録が途切れるなど不穏なスタートを切り、15勝を記録するものの、最多敗となる15敗を喫する。しかし、オールスターに選出され、サイヤング賞投票は4位に入った。

 

しかし、翌シーズン開幕直後に回旋筋を故障。選手生命にかかわるほどの大けがであったが何とか1991年の後半に復帰。72敗を記録した。

 

1993年にはシルバースラッガー賞を受賞。しかし一方で1214敗と負け越すなど、並みの投手になってしまった感は否めなかった。

 

しかし、1995年にクリーブランド・インディアンズに移籍するといきなり166敗の好成績を記録。シアトル・マリナーズとのリーグチャンピオンシップゲームでは2勝を記録し、MVPを獲得。


ちなみに、両リーグでリーグチャンピオンシップゲームMVPを受賞したのはハーシュハイザーのみである。

 

インディアンスでは3年連続で大きく勝ち越し、クリーブランドでは英雄視されるほどであったが、1998年にサンフランシスコ・ジャイアンツ、1999年にメッツ。さらに2000年にはドジャースに復帰し、同年限りで現役を引退した。

 

引退後は解説者を務める傍ら、ラスベガスに住んでポーカーやブラックジャックのプロとして活躍。2005年にはドジャースの監督候補に名前が挙がり、2006年にはアトランタ・ブレーブスのコーチを務めるなど、幅広く活躍している。

 

特にポーカーは大好きで、野球のオフシーズンには週に5日もカジノに入り浸っているという。

 

腕前はかなりのものらしいが、財産もゼロにならないことを祈る。


バート・フートン ~Happy~

0640テキサス大オースティン校で通算353敗、ノーヒッター2回を記録した剛腕フートンは、1971年に全体2位でシカゴ・カブスに入団した。

 

マイナーを経ずに直接メジャーデビューし、ルーキーイヤーから3先発で2勝無敗、防御率2.11を記録した。

 

翌シーズンには早くも1114敗で二桁勝利を記録。さらに416日のフィリーズ戦でノーヒッターを達成した。

 

その後もカブスのエースとして活躍を続けたが、当時のカブスは弱く、負け越すシーズンも多かった。

 

1975年シーズン開幕直後にロサンゼルス・ドジャースにトレード。名将ラソーダ率いるドジャースのエースとして生まれ変わり、189敗の大活躍を見せた。

 

常に笑っているように見えたことからラソーダはフートンのことを”Happy”と呼んだ。

 

1976年は1115敗と負け越してしまったが、ナックルカーブを習得して臨んだ1977年に127敗を記録して復活した。

 

0639珍しいナックルカーブの使い手として打たして捕るピッチングを完成させ、1987年には1910敗、防御率2.71を記録。サイヤング賞投票で2位に入った。

 

その後もドジャース投手陣の柱として7年連続2ケタ勝利を記録。1981年にはエクスポズとのリーグチャンピオンシップゲームで2勝を挙げ、MVPに。

 

ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでも1賞を上げ、世界一に輝いた。

 

しかし、その後は衰え始め、1985年にテキサス・レンジャーズに移籍。同年限りで現役を引退した。

 

当代一のナックルカーブの名人として、実に151勝を稼いだ。

 

引退後は2000年から2004年までヒューストン・アストロズのコーチを務め、現在は3Aのコーチを務めている。

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