4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

LAL

ジョン・バリー ~孝行息子~

0987リック・バリーの二男として生まれたジョンは、ほかの三人の兄弟と共にバスケットの道を志した。

兄のスコットはNBAでのプレーには至らなかったが、ジョンはパシフィック大学とジョージア工科大学でプレーし、1992年に全体21位でボストン・セルティックスに入団した。

しかし、せっかく指名されたにもかかわらず契約で揉め、結局セルティックスでプレーすることはなく、トレードでミルウォーキー・バックスに放出され、バックスでキャリアをスタートさせた。

父親同様シュートの精度は素晴らしく、スリーポイント成功率が4割を超えたシーズンが14年で5回もあるが、レギュラーを獲得するには至らず、もっぱら控えとして選手人生を過ごした。

1995年にゴールデンステート・ウォリアーズに移籍したのを皮切りにアトランタ・ホークス、ロサンゼルス・レイカーズと渡り歩き、1998-1999シーズンにサクラメント・キングスに落ち着いた。

キングスでも控えであったが、プレーオフに強いということがわかるとプレーオフでは積極的に器用されるようになり、プレーオフでは2年連続で平均20分のプレイタイムを獲得した。

2001年にデトロイト・ピストンズに移籍。ピストンズでもプレーオフでは高いポテンシャルを見せ、2002年の1回戦第1戦、トロント・ラプターズ戦では3分で12得点を稼ぐ活躍を見せた。

09882003年にデンバー・ナゲッツに移籍すると、ホークス、ヒューストン・ロケッツと再びチームを渡り歩き、2006年にロケッツを解雇され現役を引退した。現在は解説者として活動している。

15年で821試合に出場しながら先発はたったの36試合、移籍すること実に8回。スーパーサブと呼ぶに相応しい選手ではないだろうか。

デニス・ロッドマン ~Warm~

0954スラムから這い上がったNBA選手は少なくないが、ロッドマンほどひどい前半生を送った選手はそう多くないだろう。

ベトナム帰りのパイロットだった父親に見捨てられ、テキサスで最も治安の悪いスラムでロッドマンは生まれ育った。

当時のロッドマンは内向的な少年だったが、バスケットの優秀な選手だった姉と妹の影響でバスケットを始めた。しかし背が低く、レイアップも満足に決められなかったためハイスクールでは落ちこぼれ、ますます屈折してしまった。

卒業後は空港の警備員として空港の床に寝泊まりする生活を送った。このころ身長が急激に伸び、そのことからますます内向的になり、同性愛の傾向もみられるようになったという。

ホームレス生活や万引きで生計を立てるすさんだ生活を送っていたが、妹友人の勧めでクッキー群短大に進学。その後Div.Ⅱのイーストサウザンオクラホマ州立大に進んだが、オクラホマは人種差別がひどい地域で、道を歩くだけでも罵声が飛んだという。

このころ、大学のキャンプに参加したロッドマンのプレーを熱心に見るひとりの若者がいた。ハンティングの最中に誤って親友を射殺してしまい、心に傷を負ったブライン・リッチーという青年であった。

心に傷を負った二人は意気投合し、ブラインは実家の大農園にロッドマンを招き入れた。

ブラインの家族はロッドマンが黒人であったことから最初は怪訝な目で見たが、ブラインがショックから立ち直るのを見てその考えを改めた。母親から勘当されていたロッドマンは大学時代をこの農園で過ごした。特にブラインの父親、ジェームズには薫陶を受けた。

精神的に安定したことからめきめきと頭角を現し、NBAからも注目を受けるようになり、1986年にドラフト2巡目でデトロイト・ピストンズに入団。この時すでに25歳であった。

1年目から控えながら積極的に起用され、平均4.3リバウンドを記録。続く1987-1988シーズンには32先発ながら平均8.7リバウンドを記録した。

1989-1990シーズンにはピストンズの初優勝に貢献し、1990-1991シーズンからはPFのスターターに定着し、チームは連覇を果たした。

堅牢なディフェンスを誇るピストンズの中でもひときわディフェンスに長けた存在で、シュートよりもリバウンドに快感を覚え、オフェンスにはあまり関心を示さなかった。

0953翌シーズンは平均18.7リバウンドを記録してリバウンド王に輝きいたものの、恩師と仰ぐチャック・デイリーHCが辞任したことからモチベーションを失い、キャンプ参加を拒否して罰金を払っている。

さらに女優と結婚したものの3か月と持たずに離婚。精神的に落ち込んだロッドマンはトラックの車中でライフル自殺を図ったが、"自分の中のもう一人の自分"を撃ち殺して生まれ変わり、平均18.3リバウンドで2年連続のリバウンド王を獲得した。

1993-1994シーズン開幕前にサンアントニオ・スパーズにトレード。相変わらずリバウンド王を獲得したが、このころからますます奇行が目立つようになった。

毎日のように髪の毛を奇妙な色に染め直し、マドンナと交際。ゲイバーに行ったことで糾弾されたジャック・ヘイリーをかばい、親友となるなど何をしでかすのかわからないキャラクターを確固たるものにし、さらにデビッド・ロビンソンと対立した。

結局1995年にシカゴ・ブルズにトレード。かつてのライバルチームであるピストンズの中心であり、スコッティ・ピッペンと乱闘沙汰を起こしたこともあるロッドマンの加入は不安視された。

しかし、ロッドマンはブルズに思いのほか順応した。ピストンズ時代から知られていた猛練習で複雑なトライアングルオフェンスをすぐにものにし、シュートが下手なことを逆手にとってパスでジョーダンやピッペンにボールを渡すことでアシストを増加させ、リバウンド王にも相変わらず君臨。ブルズのスリーピートの原動力となった。

このころ自伝"ワルがままに"を出版。マドンナとの交際、スパーズやロビンソンへの批判など過激な内容で夕目されたうえ、ロッドマンはサイン会にウェディングドレスで出席。女装癖を隠すどころか人に見せびらかした。

1998-1999シーズンはしばらくFAで過ごし、シーズン後半にロサンゼルス・レイカーズに移籍。しかし23試合しか出場できず、リバウンド王の記録は7年連続で途切れることになった。

翌シーズンはダラス・マーベリックスに移籍。しかし12試合しか出場できず、同年限りで現役を引退した。

引退後は映画出演やプロレスへの参戦を頻繁に行い、ファンに奇人健在をアピール。殿堂入りは正直難しいとも言われていたが、2011年に殿堂入り。さらに背番号10はピストンズの永久欠番となった。

殿堂入りにあたって泣きながらスピーチを行い、デイリー、ジャクソン両HC、レイカーズのジェリー・バスオーナー、そしてジェームス・リッチーに感謝の言葉を述べた。

このほかにも最優秀守備選手のタイトルを獲得した際にも男泣きしたりと、変人だが熱い男である。

ちなみに先日、ニューヨークのストリップクラブが企画したトップレスバスケットチームのHCに就任。ストリッパーが上半身裸でバスケットをやるというユニークな企画で、本人はいたって真面目にコーチングするつもりだそうだが、いろいろと波紋を呼んでいる。

フィル・ジャクソン ~Zen Master~

0934モンタナの田舎町で牧師の良心の間に生まれたジャクソンは、厳格に育てられた。テレビやダンスといった娯楽は禁止されていて、初めて映画を見たのはハイスクール時代だったという。

しかしスポーツは禁止されていなかったので、ジャクソンはスポーツに熱中した。バスケット以外にもフットボール、野球、円盤投げの選手として活躍。バスケットで奨学金を得てDev.Ⅱのノースダコタ大学に進学した。

PF/Cとして1967年に2巡目でニューヨーク・ニックスに指名されて入団。得点力には乏しいものの、長身と長いリーチを生かしてディフェンス面でチームに貢献。シックスマンとしてニックスでも有数の人気選手となった。

1969-1970シーズンは背中の故障でロースターから外れたものの、バスケット理論を生かしてコーチとして登録。チームのNBAチャンピオンに貢献した。

翌シーズンから選手に復帰し、1973年にもリングを獲得。1978年にニュージャージー・ネッツに移籍し、1979-1980シーズンを持って現役を引退した。

引退後はネッツのコーチを1年務め、翌シーズンは解説者として活動。さらに次のシーズンからは独立リーグやプエルトリコのリーグでコーチを歴任した。

このころ名将ジャクソンの基礎はできたわけだが、コーチをやめようかと思ったこともあったという。

独立リーグでは好成績を残した選手はNBAに引き抜かれてしまい、かと思ったらNBAで通用せずに自信を失って戻ってくる。プエルトリコでは英語が通じない選手やそもそも基礎ができていない選手が少なくなく、観客もガラが悪く、発砲騒ぎも珍しくなかった。

NBAのコーチになる機会が得られず転職を画策し、職業適性検査を受けたところ、弁護士にやや適性があるとされたため、大学で弁護士の資格を取得しようとした矢先にシカゴ・ブルズのジェリー・クラウスGMからコーチの誘いがかかった。


0933ブルズはコーチが開幕直前になって引き抜かれてしまい、チャンピオンリングを2個持っているのが決め手になり、ジャクソンに白羽の矢が立てられた。1987年のことである。

1989-1990シーズンにHCに昇格。それまでマイケル・ジョーダンに頼り切っていたチームを生まれ変わらせるために、"トライアングルオフェンス"と呼ばれる新戦術を採用した。

複雑な戦術であり、しかもジョーダンを納得させる必要があったが、ジャクソンはなんとかチームを説得し、選手たちもこの戦術をものにした。

これが功を奏し、翌シーズンからブルズはスリーピートを達成。その後ジョーダンの引退で優勝は途絶えたが、復帰した1995-1996シーズンから再び三連覇。しかしクラウスと確執を作り、オフに退任。1年の受電を経てロサンゼルス・レイカーズのHCに就任した。

レイカーズでも就任1年目から三連覇を達成。3度もスリーピートを達成したのは言うまでもなくジャクソンだけである。

東洋の禅の思想に影響を受け、チームケミストリーを重視する采配を取ったことから、"Zen Mastar"と呼ばれた。

その後もプライドの高いスター選手たちをなんとかまとめあげながらレイカーズ王朝を確固たるものにし、2007年には殿堂入り。2008-2009シーズンから二連覇を記録。2010-2011シーズン終了後に退任した。

持っているチャンピオンリングは実に13個。次にHCに就任するチームがあるとするならば、間違いなく優勝する。

ブライアン・グラント ~The General~

0911ザビエル大学で活躍し、2度のカンファレンスMVPを獲得したグラントは、1994年に全体8位でサクラメント・キングスに入団した。

1年目から巧みなディフェンスとリバウンドでフロントコートを支配し、平均13.2得点、7.5リバウンドを記録。オールルーキーに選ばれた。

1997年に大型補強を進めていたポートランド・トレイルブレイザーズに移籍。この頃からトレードマークであるドレッドヘアを伸ばし始めた。

当初はスターターとして起用されたものの、1999-2000シーズンには63試合の出場で14先発と控えに追いやられ、スターターの立場を求めてシーズン終了後にマイアミ・ヒートに移籍した。

控えとはいえ平均7.3得点、5.5リバウンドと成績は今一つであったが、7年8600万ドルの大型契約を結び、動議を醸し出した。しかし、パット・ライリーGMはグラントがヒートに必要と信じて疑わなかった。

結果としてこの契約は上手くいった。腎臓病でチームを離脱したアロンゾ・モーニングの代わりとして専門外のセンターでプレー。全試合に出場し79試合に先発した。

身長206センチとセンターにしては小柄だったが、このシーズンキャリアハイとなる平均15.2得点、8.8リバウンドを記録。信頼を得ることに成功した。

0912同郷で南北戦争の英雄であるグラント将軍にちなんで"The General"と呼ばれ、PFに復帰して以降も高い支配力を誇っていたが、故障で徐々に成績を悪化させ、2004年に他の3選手とともにシャキール・オニールとのトレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。

レイカーズでは控えとして69試合に出場したものの、平均3.8得点、3.7リバウンドと自己最低の成績に終わり、シーズン終了後にフェニックス・サンズに移籍。しかし成績はさらに悪化し、同年を持って現役を引退した。

NBAでも有数の慈善家として知られ、引退後も熱心にチャリティー活動を行っていたが、2008年にパーキンソン病に罹っていることを告白。チャック・デイリーやウェイマン・ティスデイル、ケビン・ダックワースらの死をきっかけに公表に踏み切ったという。

他人の助けは受けたくないとのことで、食事管理を徹底し、現在は多少持ち直して闘病中とのことである。

今まで難病の子供を数知れず助けてきたのだから、グラントの病気が治らないわけがない。私は彼を心から応援したい。

ニック・ヴァン・エクセル ~Nick The Quick~

0907シンシナティ大学でプレーし、オールアメリカンに選ばれ、ウッデン賞候補にも選ばれたエクセルは、1993年のドラフト2巡目でロサンゼルス・レイカーズに入団した。

当時のレイカーズは再建期で、同期のエディー・ジョンソンと共にチーム立て直しのキーマンとして期待され、80試合に先発。平均13.6得点、2.9リバウンド、5.8アシスト、1.0スティールを記録し、オールルーキーセカンドに選ばれた。

スピーディーで勝負強く、ブザービーターを数多く決めるなど華があり、“Nick The Quick”と呼ばれていた。

他にもラインからあえて1フィート下がってフリースローを投げることでも有名であったが、成功率は70%台後半を維持していた。

ジョンソンと共にレイカーズを再び強豪と呼べるまでに押し上げたが、HCやチームメイトと確執を作るようになり、オールスターにも出場した1997-1998シーズン終了後にデンバー・ナゲッツにトレードで移籍した。

当時のナゲッツはNBAでの最弱のチームであったが、エクセルは一人気を吐き、キャリアハイに近い成績を記録。しかし年俸が1000万ドルを超えてチームのサラリーキャップに余裕がなくなったこともあり、2001-2002シーズン途中にダラス・マーベリックスにトレード。

0908マブスではシックスマンとなり、少ないプレイタイムながらもかなりの得点を稼いだ。

2003-2004シーズンにはトレードでゴールデンステート・ウォリアーズに移籍。しかし自己最低の39試合の出場に終わり、シーズン終了後にまたしてもトレード。ポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。

ブレイザーズでは持ち直し、53試合中34試合に先発。翌シーズンはサンアントニオ・スパーズでプレーし、同年限りで現役を引退した。現在はアトランタ・ホークスでコーチを務めている。

通算スリーポイントシュート成功数1528は歴代14位の大記録である。
記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最新コメント
プロフィール

ballgamer

当ブログについてご意見、感想、苦情、あるいはリクエストなどございましたら、コメント欄までよろしくお願いいたします
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ