4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

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リッチ・カマリロ ~クラッチパンター~

0632ワシントン大学でオールアメリカンに選ばれ、オールセンチュリーチームにも選ばれたカマリロは、1981年にドラフト外でニューイングランド・ペイトリオッツに入団した。

 

1年目からその飛距離は際立っており、リーグ最長の75ヤードのロングパントを蹴っている。

 

1983年には81回のパントで3615ヤードを稼ぎ、プロボウルに初選出された。

 

1985年にはリーグ最多の3953パントヤードを稼ぎ、チームのスーパーボウル進出に大きく貢献。

 

シカゴ・ベアーズとの第20回スーパーボウルでも6回のパントで263ヤードを稼いだが、当時無敵を誇ったベアーズの”46ディフェンスを崩すことができず、46-10で敗れた。

 

そのせいではないだろうが、翌1986年にはリーグ最多の3パントブロックを喫し、1988年にロサンゼルス・ラムズに移籍。しかしパント40回で1579ヤードと振るわず、翌年はフェニックス・カージナルスに移籍した。

 

カージナルスで復活を果たし、リーグ最高のパント平均43.4ヤードを獲得。2回目のプロボウルに選出された。

 

06311991年からは3年連続でプロボウルに選出。パンターとして5回のプロボウルはレイ・ガイの7回に次ぐ歴代2位である。

 

1994年にはヒューストン・オイラーズに移籍。同年リーグ最高で自己ベストの4115ヤードを獲得した。

 

1996年にオークランド・レイダーズに移籍し、同年限りで現役を引退。通算43895ヤードは歴代17位の記録である。

 

引退後はフットボールではなく野球の世界に入り、フェニックスでリトルリーグのコーチを務め、2006年にはリトルリーグワールドシリーズにコーチとして参加。息子のエリックも選手として選ばれている。

 

ペイトリオッツのアニバーサリーチームに名を連ねるカマリロ。殿堂入りも間近だという。

モシ・タツプ ~サモアの砲弾~

0622サモアで生まれ、ハワイで育ち、USCでプレーしたタツプは、RBとして223キャリー、1277ヤードの成績を残し、1978年にドラフト8巡目でニューイングランド・ペイトリオッツに入団した。

 

控えのFBとしてなかなかの活躍を見せたが、タツプが真価を発揮するのはSTとしてであった。

 

身長は183センチ103キロの体躯でリターナーにぶち当たり、NFLのスペシャルチームの中でも一目おかれる存在であった。

 

1983年にはリーグ最高のラン1回あたり当たり5.5ヤードを獲得。4ラッシングTD1レシービングTDを記録した。

 

1986年にはプロボウルに選出。名目上はFBとしての選出であったが、STとしてプレーした。

 

リターンもしばしばやる器用な選手だったが、極めつけは1987年でトリックプレーでパスを投げ、55ヤードのTDパスを記録している。

 

ペイトリオッツスペシャルチームの中心として長年チームに貢献し、1991年にロサンゼルス・ラムズに移籍。同年限りで現役を引退した。

 

0621引退後はハイスクールや大学でコーチを務めたほか、1997年にはカレッジ最優秀STに贈られるモシ・タツプ賞が制定され、2000年まで続けられた。

 

息子のロファもNFL選手となり、USCとペイトリオッツで同僚だったドン・ハッセルベックの息子、マットとともにシアトル・シーホークスでしてプレー。3回プロボウルに選ばれる名LBとなった。

 

ペイトリオッツのアニバーサリーチームに幾度となく選ばれ、2010年に世を去った。54歳であった。

ラリー・ブルックス ~猛羊~

0446高校時代はDEで、DivⅡのバージニア州立大学でDTに転向したブルックスは、1972年にドラフト14巡目でロサンゼルス・ラムズに入団した。

                         

下位指名ではあったが巨体とパスラッシュを武器に1年目の後半から先発の座をつかみ、12年目の1973年には先発DTとして14試合にフル出場。9.0サックを記録した。

 

リーグ最少のラン喪失ヤード1270ヤード、トータル喪失ヤード2970ヤードを誇ったラムズ強力ディフェンスの中核にして不動のチームリーダーとなった。

 

1974年には13試合の出場ながら11.0サックを記録。しかし、1975年には怪我で8試合しか出場できず、チームはプレーオフに進出したものの、NFCチャンピオンシップでダラス・カウボーイズと対決した。

 

ブルックスを欠いたラムズディフェンス陣はショットガンフォーメーションを敷くカウボーイズオフェンスとロジャー・ストーバックを食い止めることができず、37-7で惨敗した。

 

ラムズはその後も長らくスーパーボウルに進出できず、進出は24年後の1999年まで待たねばならなかった。もしブルックスが万全なら、ラムズ球団史は変わっていたかもしれない。

 

04451976年には完全復活。自己最多の14.5サックを記録し、プロボウルに初選出。以後5年連続で選出され続けた。

 

その後もラムズディフェンスの核としてフィールドを突き進み、1979年にはオールプロに選出された。

 

しかし、1981年にふたたびひざを故障。その後出場機会が減少し、1982年に現役を引退した。

 

その後は指導者の道を歩み、ラムズ、パッカーズ、シーホークス、ベアーズ、ライオンズ、カージナルスのコーチを歴任。パッカーズでは第29回スーパーボウルで優勝を経験。悲願のチャンピオンリングを手にしている。

 

現在は母校バージニア州立大学のコーチを務めるブルックス。ラムズ最高のDLの一人である。

トム・マック~羊達の尖兵~

オフェンスラインは地味なポジションである。ボールに触れることができない彼らは黙々とブロックをするばかりで、スーパープレーは望めない。

 

0207しかし、スーパープレーの陰には必ずラインマンの尽力がある。それゆえオフェンスの強いチームには必ず優秀なラインマンがいる。今回の主人公、トム・マックもそうである。

 

大リーガーの父親を持ち、ボーイスカウトではイーグルスカウトだったというマックは、ミシガン大学から1966年に全体2位でロサンゼルス・ラムズに指名された。

 

このシーズン、ラムズは22人もの選手を指名したが、ロースターに残れたのはマックを含めて二人だけであった。

 

徹底的にふるいにかけられただけあって実力は確かで、開幕から全試合に出場し、5試合目から先発に定着。LGとしてラムズライン陣の若きリーダーの地位を確立。

 

2年目も全試合に出場したが、先発なしに終わる。しかし、ガードとしての貢献度はむしろ向上し、その後ずっと選出され続けるプロボウルに初選出された。

 

その後先発に復帰し、毎試合休むことなくラムズ黄金時代を縁の下から支え続けたが、スーパーボウルにはなかなか出場できなかった。

 

02081976年はプロボウルに選出されず、連続出場記録が9年で途切れてしまったが、翌シーズンには返り咲き、ラストイヤーとなった1978年も選出され、それを花道に現役を引退した。デビューから引退まで1試合も欠場することなく、13年、184試合のキャリアを全うした。

 

マックのいたラムズはスーパーボウルにこそ出場できなかったものの、勝率.720、地区優勝8回という素晴らしい成績を残している。

 

ラインマンの成績は数字にできない。チームの強さこそがラインマンの勲章なのだ。

 

勲章を山ほど持ったラインマン、マックは1999年に殿堂入りを果たしている。

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