4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

MIL

スコット・スカイルズ ~助ける人~

0985ハイスクール時代から有名選手だったスカイルズは、ミシガン大学でもたぐいまれな得点力で暴れに暴れ、カンファレンスMVPを獲得し、同大学のシーズンと通産の得点記録を樹立した。

しかし素行はあまりよくなく、麻薬や飲酒運転での逮捕歴があり、15日服役したこともある。

1986年に全体22位でミルウォーキー・バックスに入団。しかしルーキーイヤーは13試合しか出場できず、1年でインディアナ・ペイサーズにトレード。さらに1988-1989シーズン終了後にエキスパンションドラフトでオーランド・マジックに移籍した。

マジックでは控えとして積極的に起用され、わずかなプレイタイムで平均7.7得点、4.8アシストを記録。翌シーズンからはスターターに抜擢された。

PGとしては出色の得点力も魅力だったが、なんといってもスカイルズはパスセンスが優れていた。1989-1990シーズンは12月30日のデンバー・ナゲッツ戦で1試合30アシストのNBA記録を樹立。平均17.2得点、8.4アシストの大活躍を見せてMIPを受賞した。

一躍名を知られる存在となったスカイルズの活躍は目覚ましく、1992-1993シーズンにはキャリアハイの平均9.4アシストを記録した。

1994年にワシントン・ブレッツに移籍。翌シーズンはフィラデルフィア・76ersに移籍したものの、肩の故障で10試合しか出場できず、シーズン終了後に解雇。NBAからは誘いを受けず、スカイルズはヨーロッパへ渡った。

ギリシャの名門PAOKテッサロニキに入団したが、故障もあって思うような成績を残せず、フランス人のミシェル・ゴメスHCと対立し、シーズン途中に解雇。しかし、これが思わぬ形でスカイルズを救った。

当時PAOKは低迷しており、そのため球団はゴメスHCをシーズン途中に解任。後釜に選ばれたのはなんとスカイルズであった。

0986スカイルズはここで思わぬ好成績を収め、ギリシャリーグ優勝を達成したうえ、ユーロリーグにも出場。シーズン終了後にこの実績を手土産にフェニックス・サンズのコーチに就任した。

1999-2000シーズンからHCに昇格。1年目からいきなりプレーオフに進出し、ディフェンディングチャンピオンのサンアントニオ・スパーズを撃破する大番狂わせを見せるなど手腕を発揮し、3シーズンで2回プレーオフに進出。しかし2001-2002シーズンを最後に解任されてしまい、シカゴ・ブルズのHCに就任した。

当時のブルズは若いチームであり、スカイルズはこの若いチームを堅守のチームに育て上げた。

26試合連続100失点以下のNBA記録を樹立するなど有能であったが、2007-2008シーズン途中に解任。ジョン・パクスソンGM曰く難しい選択だったらしいが、その後のブルズを見る限り、悪い選択ではなかったようだ。

一方スカイルズは翌シーズンから古巣バックスのHCに就任。2009-2010シーズンにはプレーオフ進出を果たしたものの、現在に至るまで苦しいシーズンが続いている。

ゲイリー・ペイトン ~Grove~

0809オークランドで生まれ、学校の成績に影響が出るほどバスケットにのめりこんでしまい、父親にプレーを禁じられたほどだったペイトンは、奨学金を得てオレゴン州立大学に進学した。

この頃近所に住んでいて、ペイトンを目標にしていたのがジェイソン・キッドである。

大学でも大活躍を見せ、スポーツイラストレイテッドの表紙を飾り、1990年に全体2位でシアトル・スーパーソニックスに入団した。

新人でありながらマイケル・ジョーダンにも平気でトラッシュトークをかます度胸の持ち主で、1年目から先発し、平均7.2得点、6.4アシスト、2.0スティールを記録。オールルーキーセカンドに選ばれた。

その後さらに成績を向上させ、1993-1994シーズンには平均16.5得点、6.0アシスト、2.3スティールを記録。オールスターとオールディフェンシブチームに選出された。

PGにしてはシュートが下手だったが、ここぞという場面では勝負強く、またタフでフィジカルなディフェンスはNBAでも屈指のものであった。

また、トラッシュトークがうまく、やりすぎてしばしばファールをとられたが、これは試合中に限ってのことで、コート外ではそれほど口が悪いわけではない。

その後もショーン・ケンプとともに"Sonick Boom"と呼ばれた若いソニックスのバックコートを支え続け、1995-1996シーズンにはチームレコードの64勝をあげてファイナルに進出。

相手はジョーダン擁するシカゴ・ブルズで、3連敗を喫して"ジョーダンのチームには勝てない"と弱気なコメントをした4戦、5戦はペイトンがジョーダンとマッチアップを組み、ジョーダンを大いに苦しめた。

この甲斐あって3勝2敗までなんとか巻き返したが、6戦目を落としてソニックスは敗退。リング獲得はお預けとなった。

しかし、同年平均2.9スティールでスティール王を獲得し、最優秀守備選手に選出。ガードでの選出はジョーダンとペイトンだけ。PGとしてはペイトンしか成し遂げていない。

その後もソニックスは強豪であり続けたが、プレーオフでは勝てないシーズンが続き、チームも様変わりしていった。

0810チームの変革はペイトンにも及び、2002-2003シーズンのデッドライン目前でミルウォーキー・バックスにトレード。愛してやまないソニックスを去ることになった。

バックスで28試合プレーし、好成績をマーク。シーズン終了後にFAでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。

レイカーズではチームプレーに徹し、個人成績は下がったもののチームはファイナルに進出。

下馬評はレイカーズ有利というものであったが、デトロイト・ピストンズに1勝4敗で不覚を取って敗退。ペイトンはまたしてもリングを逃した。

シーズン終了後にボストン・セルティックスにトレード。しかしセルティックスでは成績を落とし、シーズン後半にアトランタ・ホークスに放出された。

しかしホークスではプレーすることなく解雇され、シーズン終了後にウェーバーに。セルティックスに復帰したものの、開幕前にマイアミ・ヒートに移籍した。

ヒートではシックスマンに転じ、チームの躍進に大きく貢献。3度目のファイナルに進出した。

ダラス・マーベリックスとのファイナル第3戦ではラスト9.3秒で逆転のジャンプショットを決めるなど、いぶし銀の活躍で優勝に貢献。第6戦の終了間際にはうれし泣きする姿も見られた。

2006-2007シーズンを持って現役を引退。オールディフェンシブチームに9回選出はNBAタイ記録である。

引退後は解説者を務めるほか、ファッションブランドやレストランを経営。さらにチャリティーも熱心に行っている。

背番号20は永久欠番になって当然の成績を残しているが、"シアトル以外で自分の数字は見たくない"と誇示。オクラホマシティ・サンダーでは永久欠番になっていない。

シアトルへの愛は相当なもので、チーム移転に際には反対運動の先頭に立ち、ソニックスがサンダーの前身であるとは頑として認めず、ソニックスの復活を望んでいるという。

アンソニー・メイソン ~Head Line~

0786テネシー大学で活躍し、1988年にドラフト3巡目でポートランド・トレイルブレイザーズに指名されたメイソンだったが、すぐにカットされてブレイザーズでプレーすることはなかった。

その後トルコやベネズエラ、CBAやUSBLを転々とし、1989年にニュージャージー・ネッツと契約した。

ネッツでは21試合しか出場できずウェーバーになり、デンバー・ナゲッツと10日間契約を結んだが、3試合出場しただけで解雇された。

このままNBAを去ってもおかしくなかったが、ニューヨーク・ニックスがメイソンに興味を示して契約。これはニックス布団との慧眼であった。

パット・ライリーHCに見出され、シックスマンとして82試合に出場し、平均7.0得点、7.0リバウンド、1.3アシストを記録。ユーイング、オークリーらのバックアップとしてニックスのフロントコートを固めた。

206センチとPFにしては小さいが、NFLプレイヤー並みの筋肉を身にまとい、恐ろしくタフでハードなディフェンスを見せ、パスセンスも兼ね備えた実に使い勝手のいい選手であった。

また、坊主頭を刈り込んで絵や文字を描く選手がNBAでは珍しくないが、その走りはこのメイソンである。

その後もシックスマンとして活躍し、1993-1994シーズンには平均7.2得点、5.8リバウンドでチームのファイナル進出に貢献。1994-1995シーズンには平均9.9得点、8.4リバウンドでシックスマン賞を受賞した。

続く1995-1996シーズンはスターターとして起用され、タフさを活かしてリーグ最高の平均42.2分、3457分出場。これは現在もニックスの球団記録である。

シーズン終了後にシャーロット・ホーネッツにトレード。リーグ最高の平均43.1分出場し、キャリアハイとなる16.2得点、11.4リバウンド、5.7アシストを記録。さらにトリプルダブルを4回も達成した。

0785翌1997-1998シーズンは腕の故障で精彩を欠き、続く1998-1999シーズンは全休した。

1999-2000シーズンは復帰したものの今一つで、シーズン終了後に9選手の絡む大型トレードでマイアミ・ヒートに移籍した。

控えでの起用が予想されていたが、アロンゾ・モーニングが腎臓病で離脱したためチームリーダーとして活躍。平均16.1得点、7.9リバウンド、4.2アシストを記録し、オールスターに選出。チームのプレーオフ進出の原動力となった。

シーズン終了後にFAでミルウォーキー・バックスに移籍。しかし、体重の増加やチーム批判などのトラブルを起こしてチームに不和を生み、2002-2003シーズンに解雇され、そのまま現役を引退した。

現役時代からファンの人気は高く、何本かの映画に出演している。

ジェフリー・ハモンズ ~スピードスターの復活~

0743ハイスクールきっての快速外野手として知られ、1989年にドラフト9巡目でトロント・ブルージェイズに指名されたハモンズだったが、指名を断ってスタンフォード大学に進学した。

大学でひざを壊し、俊足を失ってしまったが、盗塁技術は折り紙つきで、PAC-10カンファレンスの盗塁記録を1年で塗り替え、4年間で盗塁死はわずか4回であった。

1992年にはアメリカ代表としてバルセロナオリンピックに出場。チームトップの打率.400を記録したが、チームはキューバ、台湾、日本に次ぐ屈辱の4位に終わった。

同年全体4位でボルチモア・オリオールズに入団。1993年にメジャーデビューを果たした。

続く1994年には68試合に出場し、打率.296、8HR、31打点を記録。新人王投票で6位に入った。

打撃センスに富んだ便利な選手であったがなかなか100試合出場を達成できず、初めて出場試合数が100を超えたのは1997年で、ライトのレギュラーとして118試合に出場し、打率.264、21HR、55打点、15盗塁を記録した。

翌シーズン途中にシンシナティ・レッズにトレード。同年は100試合を割り込んだものの、続く1999年は代打や守備固めを中心に123試合に出場した。

シーズン終了後にトレードでコロラド・ロッキーズに移籍。新天地でハモンズはキャリアハイを迎えることになる。

0744当時MLB最強を誇ったロッキーズ打線の主軸を担い、リーグ4位の打率.335、20HR、106打点、14盗塁を記録してオールスターに出場。

翌シーズン3年2100万ドルの大型契約でFAでミルウォーキー・ブルワーズに移籍。前年320万ドル余りだった年俸は650万ドルまで跳ね上がった。

しかし故障が多く、移籍1年目はわずか49試合の出場に終わり、続く2002年も128試合に出場したものの打率.257と低迷した。

2003年シーズン開幕直後に解雇され、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。36試合で打率.277とそれなりの成績を残した。

翌2004年は打率.211に終わり、6月に解雇。同年12月にモントリオールから移転したばかりのワシントン・ナショナルズに移籍した。

ナショナルズでも活躍はままならず、シーズン途中に再び解雇。そのまま現役を引退した。

最後に記録した打点は奇しくもブルワーズからのものであった。

トニー・クーコック ~White Magic~

0716ユーゴスラビアで生まれ、1987年にクロアチアの名門、KKスプリトに入団したクーコックは、ユーロリーグ進出3回、オリンピックで銀メダル2個を獲得。

その後イタリアのベネトン・トレヴィーシャに移籍し、ヨーロッパ最優秀選手に3回選ばれ、1990年には世界選手権でMVPを獲得。

身長2メートルを超え、SFを中心にどのポジションでもこなし、ボールタッチに優れ、パスとシュートにも抜群のセンスを持つスーパースターで"白いマジック・ジョンソン"と呼ばれた。

1990年にドラフト2巡目でシカゴ・ブルズに指名されたが、ベネトンとの契約が残っていたのでしばらくヨーロッパに残り、スリーピート直後の1993-1994シーズンからブルズに加入した。

ジョーダンが引退した直後で、一緒にプレーできないことを残念がったが、シックスマンとして平均10.9得点、4.0リバウンド、3.4アシスト、1.1スティールを記録した。

1994-1995シーズンのカンファレンスセミファイナル、ニューヨーク・ニックスとの第3戦、同点で迎えたラスト1.8秒、タイムアウトでラリー・ジョンソンHCはクーコッチにボールを渡すように指示。クーコッチは見事にシュートを決め、ブルズは勝利した。

これに怒ったのがジョーダン亡き後のリーダー、スコッティ・ピッペンで、クーコッチがピッペンより年俸が高かったこともあり、チームに溝ができたという。

1995-1996シーズンにジョーダンが復帰。さらにデニス・ロッドマンが加入すると再びブルズは息を吹き返し、チームはファイナルを制覇。控えながらチーム3位の平均13.1得点を記録し、シックスマン賞を受賞した。

0715スリーピートを達成して1998-1999シーズンにはチームトップの平均18.8得点、7.0リバウンド、5.3アシストを記録。翌シーズン途中にフィラデルフィア・76ersにトレードで移籍した。

翌シーズン途中にアトランタ・ホークスにトレード。2002-2003シーズンに無ミルウォーキー・バックスに落ち着いた。

バックスでは経験を生かして若手の見本となる一方、何でもできるシックスマンとして重宝され、先発はないもののかなりの試合に出場した。

2005-2006シーズン終了後にFAになり、自宅近くにあるブルズかバックスと契約できなかったため引退を表明した。

まだまだ余力を残しての引退であり、複数のチームからオファーがあったという。

多芸多才で、中学校時代には卓球で全国優勝を果たし、ブルズ時代はチーム一のボーリングの名手だったという。

引退後は2009年に人工股関節を入れ、現在はゴルフ三昧の日々を送っているという。
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