4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

Mia

ブレント・バリー ~White Dunker~

0990リック・バリーの4人の息子の三男、ブレントは兄弟の仲で最も素質ある選手だった。

オレゴン州立大学でプレーし、1995年にデンバー・ナゲッツが全体15位で指名。直後にロサンゼルス・クリッパーズにトレードされ、クリッパーズでキャリアをスタートさせた。

父や兄弟同様のシューターでありながら優れたパサーであり、ダンカーでもあるという万能選手で、1年目から44試合に先発し、平均10.1得点、2.9アシスト、1.2スティールという好成績を記録した。

さらにスラムダンクコンテストに出場し、フリースローラインから踏み切ってダンクを決め、白人として同コンテストを初制覇する快挙も達成し、オールルーキーセカンドに選ばれた。

しかし、その能力の割に先発の機会を得ることができず、控えとしてマイアミ・ヒート、シカゴ・ブルズとチームを渡り歩いたが、1999-2000シーズンにシアトル・スーパーソニックスに移籍すると、ついにブラントは本格化した。

1年目から80試合中74先発を果たし、平均11.8得点、4.7リバウンド、3.6アシスト、1.3スティールを記録。翌シーズンは大学の先輩にあたるゲイリー・ペイトンの控えになったものの、その後はポジションを転々としながら先発をつづけた。

本職はSGであるが、パスセンスや視野の広さを生かしてPGをやれば長身で他のPGを圧倒でき、さらにやろうと思えばSFもできるなど、この時期につぶしのきく選手に成長していった。

0989平均アシストが5を超えるシーズンも複数あるなど、ソニックスの中心として活躍していたが、2003年にサンアントニオ・スパーズに移籍した。

スパーズでは2005年と2007年にリングを獲得し、3例しかいない父子での優勝を達成。控えに戻ったものの依然チームの中心として活躍をつづけた。

2008年に父リック、兄ジョンに次いでヒューストン・ロケッツに移籍したものの、満足な成績を残せず、1シーズンで解雇。そのまま同年を持って現役を引退した。現在は解説者を務めている。

リック兄弟で一番成功したのがこのブレントである。父子殿堂入りも夢ではないかもしれない。

ロニー・サイカリー ~The Spin Doctor~

0982ベイルートで生まれたサイカリーは、9歳でギリシャに移り住み、当地でバスケット、サッカー、陸上競技で活躍。特にバスケットでは17歳にしてギリシャの名門パナシナイコスでプレーするなど活躍した。

しかし、ギリシャ国籍がないために国際大会に出場できず、そのことを理由にNBAを目指してアメリカ国籍を取得。シラキュース大学に進学した。

同大学でセンターとして輝かしい成績を残し、リバウンドで歴代1位、ブロックで2位の通算成績をマーク。1987年にはNCAAトーナメントで決勝まで進出した。

レバノン代表に名を連ねたこともあったが、既にアメリカ国籍を持っていたので1986年の世界選手権ではアメリカ代表に選ばれ、金メダルの獲得に貢献した。

1988年に全体9位で新設のマイアミ・ヒートに入団。同球団最初のドラフト指名選手となった。

身長211センチとセンターにしては小柄だったが、強靭なフィジカルとスピードでこれを補い、1年目からスターターとして活躍。78試合に出場して平均10.9得点、7.0リバウンド、1.2ブロックを記録した。

翌シーズンにはさらに成績を伸ばし、平均16.6得点、10.5リバウンド、1.7ブロックを記録。MIPを受賞した。

ローポストでスピンを多用することからついたあだ名は"The Spin Doctor"と呼ばれ、黎明期のヒートを攻守に支え続けてきたが、1994年にゴールデンステート・ウォリアーズにトレード。

0981ウォリアーズでは移籍1年目に35試合しか出場できないなど出場危機を減らしてしまい、1996年にオーランド・マジックにトレード。

翌シーズン途中にユタ・ジャズにトレードが画策されたもののトラブルで流れ、結局ニュージャージー・ネッツに移籍。しかしネッツではほとんど出場できず、1998-1999シーズン途中でウェーバーになった。

その後再びヨーロッパへ渡り、2000-2001シーズンはバスケットでも強豪のFCバルセロナでプレーし、同年で現役を引退した。

引退後はレストランを経営するほか、DJとしても活動。ゴルフトーナメントも主催するなど、趣味を満喫しながら第二の人生を送っている。

ダン・マリーノ ~剛腕~

0956ピッツバーグで生まれ、ハイスクール時代からその強肩で知られていたマリーノは、フットボールの他に野球でも活躍。95マイルの剛速球を投げ、1979年にはドラフト4巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに指名を受けたが、フットボールの道を選んでピッツバーグ大学に進学した。

カレッジでも1982年にシュガーボウルを制するなど活躍。ドラフトでも上位指名を確実視されていたが、ひざの故障と薬物疑惑から順位が下がり、1983年に全体27位でマイアミ・ドルフィンズに入団した。ちなみにUSFLのロサンゼルス・エキスプレスからも指名を受けている。

ジョン・エルウェイ、ジム・ケリーらが大物QBが多数指名された中、マリーノもシーズン途中から先発に定着し、2210ヤードを投げて7勝2敗、20TD、6INTを記録してプロボウルに選出。レーティング96.0はルーキーレコードである。

翌シーズンは先発に完全定着し、5048ヤード、48TDのNFL記録を樹立。いずれも21世紀になるまで20年以上破られなかった。

マリーノの活躍もあってドルフィンズは14勝2敗の圧倒的成績を残してスーパーボウルに進出。しかしサンフランシスコ・49ersに敗れ、リングは獲得できなかった。

その後3年連続でリーディングパサーとなり、1988年にも4434ヤードでリーディングパサーとなるが、その後は3000ヤードを割り込むようになり、チームも勝ちきれない状態が続いた。

1992年には4166ヤードを投げて4年ぶりにリーディングパサーに返り咲いたものの、翌シーズン、マリーノの身に事件が起こる。

第6週クリーブランド・ブラウンズ戦でパスを投げた直後にバランスを崩し、そのはずみでアキレス腱を故障。激痛のあまり"撃たれたかと思った"とコメントしたほどで、その後のシーズンを全休。4勝1敗と快調な滑り出しを見せたドルフィンズは失速し、プレーオフを逃した。

しかし翌シーズンは開幕から先発。ニューイングランド・ペイトリオッツのドリュー・ブレッドソーとパスの投げ合を演じた。

09552人合計で894ヤードものパスが飛び交い、39-35でドルフィンズが勝利。さらに同年のニューヨーク・ジャイアンツ戦ではスパイクのフェイクからTDパスをヒットさせ、28-24で逆転勝利。4453ヤード、30TDを投げて勝6敗とし、カムバック賞を受賞した。

その後も往時の勢いはないもののパスを投げ続け、1999年シーズンにジミー・ジョンソンHCの退任に伴い戦力外となり、現役を引退した。

チャンピオンリングは獲得できなかったが、61361ヤード、420TDはいずれもブレット・ファーブに次ぐ歴代2位の大記録となっている。

引退後は解説者を務める傍らレストランを経営。さらにインディやNASCARのチームオーナーを務め、ドルフィンズカラーにカーナンバー13のマシンを走らせている。

そのほかに2004年にはドルフィンズの重役に就任したものの3週間で退任。NBAダラス・マーベリックスのマーク・キューバンオーナーとともにNHLピッツバーグ・ペンギンズの買収に動いているという話もある。

レックス・チャップマン ~Playoff REX~

0917ケンタッキー大学で活躍し、1988年には第2シードでNCAAトーナメントに出場したチャップマンは、1988年に全体8位で新設のシャーロット・ホーネッツに入団。チームの契約選手第一号となった。

1年目から先発し、チームが20勝62敗に沈むなか、平均16.9得点、2.5リバウンド、2.3アシストを記録。オールルキーセカンドに選ばれた。

波があり、ターンオーバーが多いという難点があったが、かなりのシュートの精度と調子に乗ると止められない爆発力を秘めており、若くて将来性豊かなホーネッツを引っ張っていく存在として期待されていたが、故障が多く、1991-1992シーズンは21試合しか出場できないままトレードでワシントン・ブレッツに放出された。

ブレッツでも同年は1試合しか出場できず、翌シーズンは60試合に出場したものの23先発に終わり、成績は安定していたものの、平均21.3分しかプレイタイムを与えられなかった。

続く1993-1994シーズンにはようやくスターターに返り咲き、平均18.2得点、2.4リバウンド、3.1アシストと活躍を見せた。

しかし翌シーズンは故障で49試合、29先発に終わり、シーズン終了後にマイアミ・ヒートに移籍した。

ヒートでは56試合中50試合に先発し、平均14.0得点、2.6リバウンド、3.0アシストを記録。しかしシーズン終了後に解雇された。

そのせいではないだろうが、この頃から髪の毛が薄くなり、スキンヘッドにするようになった。

0918翌シーズンはフェニックス・サンズに移籍し、65試合の出場で33先発。チームのプレーオフ進出に大きく貢献した。

シアトル・スーパーソニックスとのファーストラウンドでは第1戦に42得点を荒稼ぎ。この時記録したスリーポイントゴール9個はプレーオフ新記録であった。

第4戦では3点ビハインドの第4Qラスト1.8秒、アウトオブバウンズになるぎりぎりのボールを拾い上げそのままスリーポイントを決めてオーバータイムへと勝負を持ち込むなど、印象的な活躍を見せたものの、チームはソニックスの前に敗退した。

その後もサンズでスターターを張り続けていたが、故障で徐々に出場機会が減り、1999-2000シーズンを持って現役を引退した。

引退後はサンズやミネソタ・ティンバーウルブルズのディレクターを歴任し、現在は解説者の傍らデンバー・ナゲッツの副社長を務めている。

ブライアン・グラント ~The General~

0911ザビエル大学で活躍し、2度のカンファレンスMVPを獲得したグラントは、1994年に全体8位でサクラメント・キングスに入団した。

1年目から巧みなディフェンスとリバウンドでフロントコートを支配し、平均13.2得点、7.5リバウンドを記録。オールルーキーに選ばれた。

1997年に大型補強を進めていたポートランド・トレイルブレイザーズに移籍。この頃からトレードマークであるドレッドヘアを伸ばし始めた。

当初はスターターとして起用されたものの、1999-2000シーズンには63試合の出場で14先発と控えに追いやられ、スターターの立場を求めてシーズン終了後にマイアミ・ヒートに移籍した。

控えとはいえ平均7.3得点、5.5リバウンドと成績は今一つであったが、7年8600万ドルの大型契約を結び、動議を醸し出した。しかし、パット・ライリーGMはグラントがヒートに必要と信じて疑わなかった。

結果としてこの契約は上手くいった。腎臓病でチームを離脱したアロンゾ・モーニングの代わりとして専門外のセンターでプレー。全試合に出場し79試合に先発した。

身長206センチとセンターにしては小柄だったが、このシーズンキャリアハイとなる平均15.2得点、8.8リバウンドを記録。信頼を得ることに成功した。

0912同郷で南北戦争の英雄であるグラント将軍にちなんで"The General"と呼ばれ、PFに復帰して以降も高い支配力を誇っていたが、故障で徐々に成績を悪化させ、2004年に他の3選手とともにシャキール・オニールとのトレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。

レイカーズでは控えとして69試合に出場したものの、平均3.8得点、3.7リバウンドと自己最低の成績に終わり、シーズン終了後にフェニックス・サンズに移籍。しかし成績はさらに悪化し、同年を持って現役を引退した。

NBAでも有数の慈善家として知られ、引退後も熱心にチャリティー活動を行っていたが、2008年にパーキンソン病に罹っていることを告白。チャック・デイリーやウェイマン・ティスデイル、ケビン・ダックワースらの死をきっかけに公表に踏み切ったという。

他人の助けは受けたくないとのことで、食事管理を徹底し、現在は多少持ち直して闘病中とのことである。

今まで難病の子供を数知れず助けてきたのだから、グラントの病気が治らないわけがない。私は彼を心から応援したい。
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