4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYG

アラン・ファニーカ ~Show Window~

0967フットボールはラインマンのぶつかり合いから始まる。それゆえラインマンはフットボーラーの中でも最も頑強な人種のはずである。

しかし、何事にも例外はある。アラン・ファニーカはまさに例外である。

ニューオーリンズで生まれ、ハイスクールでは陸上とフットボールでレターマンだったファニーカだが、体が弱く、15歳からてんかんの発作を起こすようになり、薬で発作を抑えることでフットボールをプレーしていた。

ルイジアナ州立大学に進み、1996年にはオールアメリカンに選ばれるなど活躍。ラストイヤーとなった1998年にはシーズン通じて1サックしか許さなかった。

同年全体26位でピッツバーグ・スティーラーズに入団。シーズン途中から先発に定着し、12先発。チーム新人王を獲得した。

故障が多く、若いころには先発を外れることがしばしばあったが、ランブロックに優れ、ジェローム・ベティスのブロッカーとして活躍を後押し。2001年にはプロボウルとオールプロに初選出された。

しかし同年のオフに右手首を故障し、プレシーズンを全休。2003年には故障の関係でLGだけでなくLTでもプレーするなど、欠場こそないものの故障がちな体質は変わらなかった。

ほぼ毎年プロボウルとオールプロに選ばれ続け、2005年にはスーパーボウルを制覇。2007年の第16週、ラムズ戦ではベン・ロスリスバーガーのレーティング158.3の大活躍を後押しするなど輝かしい活躍をつづけた。

2008年にはスティーラーズの75周年記念チームに選ばれたが、同年オフにニューヨーク・ジェッツに移籍。5年4000万ドルというOLとして史上最高額の契約を結んだ。

0968たぐいまれな技術と経験を活かしてジェッツライン人のリーダーとして活躍。ジェッツランオフェンスは劇的な進歩を遂げ、2009年シーズンは20ラッシングTDを記録。4勝12敗から9勝7敗まで成績を向上させた。

翌2009年シーズンは2756ヤード、21TDとさらにランオフェンスを向上させ、9勝7敗でワイルドカードを獲得。カンファレンスチャンピオンシップゲームまで進出した。

しかし、ジェッツはドラフト2巡目で同じラインのブラッド・デュカッセを指名。その影響でファニーカはカットされてしまった。

結局アリゾナ・カージナルスに移籍し、全試合に先発したものの、往時ほどの活躍を見せることはできず、同シーズンを持って現役を引退した。

故障に悩まされた現役時代だったが、プロボウル9回、オールプロ9回を数える功績は、いかにテクニックに優れていたかの証明であろう。

ハリー・カーソン ~No. You go. Just you.~

0941南カリフォルニア州立大学でプレーしたカーソンは、後にピッツバーグ・スティーラーズで活躍するドニー・シェルや、カンザスシティ・ロイヤルズの一塁手ウィリー・エイキンスらとともに1975年には6完封を記録した。シーズン総失点はわずか29。これはNCAA記録である。

大学記録の117タックル、7サックを記録し、1975年にドラフト4巡目でニューヨーク・ジャイアンツに入団した。

1年目からILBとして7先発し、翌シーズンから先発に完全定着。1978年には3INTを記録するなど活躍し、プロボウルに初選出された。

スピード、パワー、頭脳、リーダーシップを高いレベルで兼ね備え、ディフェンスチームのキャプテンを務め、後に加入したローレンス・テイラー、ブラッド・ヴァン・ピルト、ブライアン・ケリーらとの強力LB陣は"Crunch Bunch "と呼ばれ、その支配力で恐れられた。

毎年プロボウルに選出され続け、ジャイアンツディフェンスの中心であることはゆるぎない事実だったが、ILBの宿命でサックは通算で8.0と少なく、どうも地味なきらいがあった。

しかし、見ている人はちゃんと見ているものだ。1986年、ジャイアンツがスーパーボウルに進出した時のエピソードからそれが見て取れる。

当時のジャイアンツにはカーソンの他にQBフィル・シムズ、控えDEでSTのジョージ・マーチンという3人のキャプテンがいた。

栄えあるスーパーボウルのコイントスに出るキャプテンはおそらくシムズだろうと思い、カーソンは傍観を決め込んでいた。

しかし、ビル・パーセルズHCは"No. You go. Just you.(ここはお前しかない)"と言ってカーソンを送り出した。カーソンが人生で最もうれしかった瞬間だという。

0942奮起したカーソンの活躍もあってジャイアンツはデンバー・ブロンコスを39-20で圧倒。カーソンはチャンピオンリングを獲得した。

興奮したカーソンはテイラーとともにパーセルズにゲーターレードを頭からぶちまけた。1985年シーズンに同僚のジム・バートがやったことのまねで、これがスーパーボウル名物、"ゲーターレード・シャワー"の起こりだという。

その後は怪我と脳震盪に悩まされてフルに出場できなくなり、1988年を持って現役を引退した。

引退後は解説者を務める傍ら、スポーツマネジメントの会社を設立して成功を収めたほか、AFLのチームオーナーも務めている。

2002年にカレッジフットボール殿堂入り。プロフットボール殿堂入りはなかなか果たせずにいたが、2006年にようやく殿堂入り。ついにその名は不朽のものとなった。

マイケル・ストラハン ~Big Apple~

0939陸軍軍人の父親のもとに生まれ、9歳の時にドイツのマンネハイムに移り、そこで育ったストラハンがフットボールに触れたのは18歳の時、地元のアメリカ人が作ったフットボールチームでのことであった。

そこでLBとしてプレーし、別次元の動きを見せたストラハンはヒューストンの叔父のもとに預けられ、当地のハイスクールでプレー。テキサスサザン大学に進学した。

カレッジでDEにコンバートされ、凄まじいパワーを武器に暴れまわり、常に"ストラハン・ルール"と呼ばれるダブルチームで抑え込まれていたが、大学記録となる41.5サックを記録している。

1993年にドラフト2巡目でニューヨーク・ジャイアンツに入団。ルーキーイヤーは故障で9試合しか出場できなかったものの、翌1994年はRDEとして15試合に出場し4.5サックを記録。大器の片りんを見せた。

翌シーズンからLDEにコンバートされ、7.5サックを記録。さらにDLでありながら2INTを記録している。

196センチ116キロの巨体と俊敏性を併せ持つパスラッシャーがブレイクしたのは1997年、14.0サックを記録してからであった。

同年プロボウルとオールプロに選出され、翌シーズンも15.0サックを記録。しかしその後しばらく2ケタサックの記録は途切れた。

だが、契約最終年となる2001年に復活。NFLシーズン記録となる22.5サックを記録し、オールプロとプロボウルに復活。最優秀守備選手のタイトルも獲得した。

オフに契約交渉で16万ドルの契約を不服として保留し、同僚のティキ・バーバーに"欲張り"と批判されている。

0940翌シーズンは11.0サックと数字を落としたものの、続く2003年はリーグ最多の18.5サックを記録して面目を保った。

しかし、2004年は8試合の出場で4.0サックに終わり、2006年にはキャンプに現れなかったことから引退もささやかれたが、2007年もプレーすることが決まった。

これがストラハンにとっては幸運であった。15先発で9.0サックを記録し、同シーズンの第42回スーパーボウルでも2タックル、1.0サックを記録。見事チームの勝利に貢献し、引退を表明。最後の最後にチャンピオンリングを獲得した。

通算141.5サックは歴代5位。言うまでもなくジャイアンツのチームレコードである。

愛すべき巨人、ストラハン。引退後は解説者を務め、ユニークなキャラクターで人気を博している。

ローレンス・テイラー ~L.T~

0936もともとは野球のキャッチャーだったテイラーがフットボールを始めたのは15歳の時で、これはほかの一流のフットボーラに比べてかなり遅い。

最初はDLだったが、ノースカロライナ大学でLBにコンバートされ、カンファレンスMVPに選ばれるなど活躍。1981年に全体2位でニューヨーク・ジャイアンツに入団した。

トレーニングキャンプの時点でテイラーの存在は際立っていて、"スーパーマンだからベンチではなく電話ボックスで出番を待つべき"という冗談がささやかれたほどであった。

1年目から9.5サックを記録し、守備新人王と最優秀守備選手賞を受賞。前年425失点を喫したジャイアンツディフェンス陣はテイラーの加入で257点まで失点を減らした。

自分勝手でトラブルメーカーだったが、2歩でトップスピードに達する加速力と野獣のようだと形容されたブリッツとボールへの嗅覚でNFLにセンセーションを巻き起こした。

今なおジャイアンツの伝説となっている1982年のサンクスギビングゲーム、デトロイト・ライオンズ戦ではライオンズQB、ゲーリー・ダニエルソンが投げ捨てたボールを素早く察知してこれをINT、そのまま97ヤードのINTTDを決めた。

2年連続で最優秀守備選手に輝いて迎えた1983年シーズン、USFLへ移籍騒ぎを起こしたり、同僚の相次ぐ故障でILBでのプレーを強いられたりと苦戦しながらも9.0サックを記録。3年連続でプロボウルとオールプロに選出された。

その後もさらにサックを増加させ、1985年には13.0サックを記録。11月のワシントン・レッドスキンズ戦ではジョー・サイズマンをサックし、右足を骨折させた。

トラブルメイカーのテイラーにも人の心はちゃんとあるようで、サイズマンが骨折したと知って悲鳴を上げ、取り乱しながらスタッフを呼び寄せた。

この骨折でサイズマンは引退に追い込まれたが、サイズマンはテイラーを恨んではいないという。

1986年には驚異の20.5サックを記録してMVPを獲得。その勢いでスーパーボウルまで突き進み、デンバー・ブロンコスを39-20で破ってチャンピオンリングを獲得。一気にフットボーラーの頂点に上り詰めた。

その後もフィル・シムズと並ぶジャイアンツの柱として輝かしい成績を残し続けたが、1988年にNFLが行った薬物検査でコカイン服用が明るみに出て30日の出場停止となった。

0937この頃には毎日数千ドル分ものコカインを服用し、ホテルの部屋に何人ものコールガールを呼んで乱痴気騒ぎをしていたというのだから恐ろしい。

そのせいかこのころから故障が増え始めたが、麻薬漬けでも平気で2ケタのサックを記録するのが凄いところで、1990年にも10.5サックを記録してスーパーボウルを制覇。10年連続のプロボウルに選出された。

しかし、その後はさすがにがたが来はじめ、同年を最後にプロボウルには選出されず、7年続いた2ケタサックも途切れ、1993年を持って現役を引退した。

通算132.5サックは歴代9位。背番号56はジャイアンツの永久欠番に制定された。

テイラーの活躍はフットボールの戦術そのものにも影響を及ぼし、テイラーの登場以降、ブリッツを仕掛けてくるLBをブロックする役目としてOGよりもOTが重視されるようになった。

引退後もしばらくは自堕落な生活を送っていたようで、レッスルマニアに参加したり、解説者として活動する以外に麻薬で3回も投獄された他、株で多額の損失を被っている。

素行は最悪とあって、1999年に殿堂入り資格を得た際には投票の行方が注目されたが、無事殿堂入りを果たした。

それからしばらくは麻薬もやめて真面目に生きていたが、2010年になって16歳の少女に対する婦女暴行の容疑で逮捕された。

NFL史上有数のLBであることは間違いないだけに、こう悪事を重ねるのは実にもったいない話である。

カート・ワーナー ~Super Man~

0887Div.Ⅱのノーザンアイオワ大学でプレーし、そこそこ活躍していたワーナーだったが、ドラフトではどこからも指名されず、1994年にドラフト外でグリーンベイ・パッカーズに入団した。

しかし、パッカーズのQBはブレット・ファーブを筆頭に、ジャガーズの快進撃を支えたマーク・ブルネリ、ハイズマン賞受賞のコイ・デトマーがおり、4番手となったワーナーはカットされてしまった。

パッカーズ首脳陣はワーナーの素質を評価していたが、ワーナーはまだNFLでやっていく準備ができていないと評した。

その後ワーナーはAFLのアイオワ・バーンストーマーズと契約。AFLのサラリーだけでは食べていくことができず、スーパーで時給5.5ドルのアルバイトをしながらの生活であった。

AFLでは向かうところ敵なしの活躍で、3年のプレーながら後にAFL殿堂入りを果たし、AFL史上12番目に偉大な選手に選ばれている。

1998年にセントルイス・ラムズと契約。NFLヨーロッパのアムステルダム・アドミラルズに派遣され、リーディングパサーとなった。ちなみにチームメイトには河口正史がいた。

翌1999年、QBの相次ぐ故障で先発に抜擢されるとワーナーはついに真価を発揮した。開幕から大暴れを見せてラムズは躍進スポーツイラストレイテッド誌の表紙を"Who IS this guy"のコピーとともに飾り、マイク・マルツコーディネーターはワーナーとラムズオフェンス陣のプレーを"フィールド上最高のショー"と評した。

シーズン通して4553ヤード、41TD、レーティング109.2の大活躍でMVPを獲得。13勝3敗の成績でチームはスーパーボウルに進出し、スーパーボウルレコードの414ヤードを投げ、テネシー・タイタンズを圧倒。スーパーボウルMVPを獲得した。

0888狭いコートで行われ、スピーディーなアリーナフットボールで培われた精密で捕りやすいパスを持ち、成功率は常に60%を超えていた。

翌シーズンは故障で11試合の出場に終わったものの、リーグトップのパス成功率67.7%を記録。1試合当たりのパスヤードは実に311.7ヤードに達した。

ワーナーの成長はとどまることを知らず、2001年にはすべてリーグトップの4830ヤード、36TD、成功率68.7%レーティング101.4を記録し、2回目のMVPを獲得。特に4830ヤードはダン・マリーノ、ドリュー・ブリーズに次ぐ歴代3位のレコードである。

その後は故障で出場機会を減らし、成績が悪化。先発を降ろされた揚句2003年シーズン終了後に解雇され、ニューヨーク・ジャイアンツに移籍した。

ジャイアンツでは当初先発で起用され、好調を維持していたが、後半戦に調子を落とし、イーライ・マニングに先発の座を奪われた。

翌シーズンはアリゾナ・カージナルスに移籍。カージナルスでは故障がちながらも持ち直し、2006年には77試合で20000ヤードを達成。マリーノの75試合に次ぐスピード記録であった。

その後もカージナルスの正QBとして君臨し、2008年には4583ヤード、30TDを投げて2001年以来のプロボウルに選出。2009年には契約ボーナスを含めて1900万ドルのサラリーを獲得した。

シーズン終了後に引退を表明。家族と過ごす時間がほしいというのが理由であった。通算パス成功率65.5%は歴代4位の大記録である。

時給5.5ドルのアルバイトがスーパーボウルMVPになり、1900万ドルの年俸を手にする。これ以上のアメリカンドリームはもうないのではないだろうか。
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