4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYI

クリス・テレリ ~Mask~

0742ホッケーをよく知らない人のホッケーマスクのイメージは、おそらくいまだにジェイソンのそれで止まっているだろう。

しかし、現在のマスクはキャッチャーマスクのようにケージで作られ、視界が広くなるように工夫されている。

この手のマスクをかぶり始めた最初の選手が今回の主人公、クリス・テレリである。

1983年にドラフト5巡目でニュージャージー・デビルズに入団したテレリは、1986-1987シーズンにようやくNHLデビューを果たすものの、当初は控えであった。

1989-1990シーズンに35試合で15勝12敗と実績を残すと、翌1990-1991シーズンには自己最高の24勝21敗を記録。視界の広いマスクが幸いしたか、得点の方も3アシストを稼いでいる。

その後もデビルズの正ゴーリーとして活躍を続け、1994-1995シーズンには故障でわずかしか出場できなかったが、チームはファイナルを制し、スタンレーカップを獲得した。

1995-1996シーズン途中にサンノゼ・シャークスにトレード。シャークスでも正ゴーリーとして46試合で13勝29敗を記録。さらに5アシストを記録している。

0741翌シーズン途中にシカゴ・ブラックホークスにトレード。以後は控えゴーリーとして活路を見出した。1998-1999シーズンにデビルズに復帰。さらに2000-2001シーズン途中にニューヨーク・アイランダーズに移籍し、同年限りで現役を引退した。

引退後はデビルズ傘下のマイナーでコーチを務め現在はデビルズでゴーリーコーチを務めている。

テレリが現在のマスクを発明したわけではないだろうが、先鞭を着けたのは間違いなくテレリである。後輩のゴーリーはテレリに感謝せねばならない。

デニス・ポトヴァン ~The Great Defender~

0574OHAで試合数の2倍の得点を稼いでいたスーパーディフェンスマン、ポトヴァンは、1973年に全体1位でニューヨーク・アイランダーズに入団した。

 

アイランダーズは創設2年目のチームで前年は1260敗に終わっており、チームの浮沈はポトヴァンの活躍にかかっているといってよかった。

 

ポトヴァンはその期待に見事にこたえた。1年目から17ゴール、54ポイントを記録し、カルダー賞を受賞。オールスターにも選出された。

 

チーム成績も1年目こそ振るわなかったものの、翌シーズンには地区3位につけてプレーオフに進出。それ以降14年連続でプレーオフ進出を果たした。

 

1976,1978,1979年と最優秀ディフェンスマンに与えられるノリス記念賞を受賞。特に1978-1979シーズンにはキャプテンに就任し、ディフェンスマンの最多記録となる101ポイントを記録。しかしチームはなかなかファイナルに進出できず、花嫁になれない花嫁付添人などと陰口をたたかれることもあった。

 

0573しかし、1979-1980シーズンには故障で31試合しか出場できなかったものの、プレーオフでは21試合で19ポイントを稼ぎ、念願のスタンレーカップを獲得。それ以降4連覇を達成し、アイランダーズは黄金時代を迎えた。

 

故障でやや成績を落としたものの、1986-1987シーズンまでキャプテンを務め、その間プレーオフ進出を逃したことは1回もなく、強豪アイランダーズの象徴的存在であった。

 

1987-1988シーズンをもって現役を引退。通算310ゴールと1052ポイントはNHLのディフェンスマン記録である。

 

1991年に殿堂入り。背番号51992年にアイランダーズ初の永久欠番となった。

 

史上最高のディフェンスマン、ポトヴァン。現在は解説者を務めている。

クリフ・ロニング ~Rat~

0513WHA1983-1984シーズンに136ポイントを稼ぎ注目されたロニングだったが、身長173センチと小柄だったのが災いし、同年セントルイス・ブルースに指名されたものの、指名順位は7巡目134位であった。

 

ひとまずWHLに戻り、1984-1985シーズンもプレー。72試合で197ポイントを荒稼ぎした。これは当時のWHL記録であった。

 

1985-1986シーズンのプレーオフからブルースに加入。しかしブルースではマイナーとNHLを往復し、あまり活躍できなかった。

 

1990-1991シーズン途中にバンクーバー・カナックスにトレード。故郷にほど近いバンクーバーでロニングは本格的に才能を開花させる。

 

移籍後11試合で6ゴール、12ポイントを記録。続く1991-1992シーズンには24ゴール、71ポイントを記録。カナックスの得点源となった。

 

パワープレーにめっぽう強く、1991-1992シーズンには24ゴールのうち6ゴールをパワープレーで稼いだ。小柄なところからニックネームは”Rat”であった。

 

1992-1993シーズンにはキャリアハイの29ゴール、85ポイントを記録。もはやカナックスに欠かせない重要な得点源であった。

 

1993-1994シーズンにも68ポイントを稼ぎ、チームのファイナル進出に貢献。しかし、チームはニューヨーク・レンジャーズに敗れたうえ、ロニング自身は第7戦で手を故障してしまった。

 

05141996年にFAでフェニックス・コヨーテズに移籍。しかし、コヨーテズでは成績を少し落とし、1998-1999シーズン途中に創設まもないナッシュビル・プレデターズに移籍した。

 

プレデターズではチームのスコアラーとして活躍する一方、頼れるベテランとしてリーダーシップを発揮。若手の見本としてもチームに貢献した。

 

2年連続でチームの得点王になったが、2001-2002シーズン途中にロサンゼルス・キングスにトレード。さらに2002-2003シーズンにはミネソタ・ワイルドでプレー。さらに翌シーズンには2003-2004ニューヨーク・アイランダーズでプレーした。

 

アイランダーズでは主にパワープレーで起用され、40試合で9ゴール、24ポイントを記録し、同年限りで現役を引退した。

 

通算17年で869ポイントを記録。現在はバンクーバーに住み、ホッケースティックの開発に携わっている。

ブッチ・ゴーリング ~Fashion Leader?~





12歳の時からずっと愛用している古めかしいヘルメットがトレードマークのゴーリングは、1969年にドラフト5巡目でロサンゼルス・キングスに指名された。



 



0243当初はマイナーとNHLを往復したが、1971-1972シーズンからNHLに完全定着。21ゴール、50ポイントを記録した。



 



ペナルティが少ないジェントルマンで、1976-1977シーズンには30ゴール、85ポイントを記録。対してペナルティはわずか6分であった。



 



その後も実力、人徳共に一流のキングスの顔として活躍を続け、1977-1978シーズンにはビル・マスタートン記念賞とレディー・ビング記念賞をダブル受賞。いかに人間性が優れていたかの証明といえよう。



 



才能や人徳はともかく、ファッションセンスは皆無だったようで、ある時、宿泊先のホテルに泥棒が入り、ゴーリングとルームメイトの持ち物が根こそぎ盗まれてしまった時も、クローゼットに入っていたゴーリングの私服だけは無傷だったという逸話が残っている。



 



1978-1979シーズンには当時WHL所属だったエドモントン・オイラーズから100万ドルのオファーが来たが、これを拒絶。NHL陣営の喝さいを浴びた。



 



1979-1980シーズン途中にニューヨーク・アイランダーズにトレード。12試合で11ポイントを稼ぎ、オールスターに選出され、チームのプレーオフ進出に貢献。



 



プレーオフでも21試合で19ポイントを稼ぎ、移籍1年目にしてスタンレー・カップ制覇を果たした。



 



1980-1981シーズンは23ゴール、60ポイントに対しペナルティは0と持ち味を大いに発揮。プレーオフでは18試合で20ポイントを荒稼ぎし、スタンレー・カップ連覇に大きく貢献。コーン・スマイス賞を受賞した。



 



その後もポイントこそ減ったが、ここぞという場面で見せる勝負強さとリーダーシップでアイランダーズのスタンレー・カップ4連覇に貢献。



 



0242ちなみに、NHLの選手はプレーオフになるとゲンを担いで髭をそらなくなるが、このゲン担ぎを最初に始めたのはゴーリングだと言われている。



 



1984-1985シーズン途中にボストン・ブルーインズにトレード。同年限りで解雇された。



 



その後すぐにブルーインズのHCに就任。翌シーズン途中まで務め、退任後にAHLで現役復帰。同年引退した。



 



その後は指導者の道を歩み、1999-2000にはアイランダーズのHCに就任。翌シーズン途中まで勤め上げた他、マイナーやヨーロッパでコーチを務めている。



 



NHLの歴史にユニークな足跡を残したゴーリング。通算ペナルティ102分は1000試合以上出場した選手では最少記録である。


リード・ラーソン ~攻撃は最大の防御~

ミネアポリスで生まれ育ち、ミネソタ大学で活躍したラーソンは、1976年に22位でデトロイト・レッドウィングスに指名された。

 

02261年大学で過ごし、1976-1977シーズン終盤にレッドウィングスに加入。14試合でプレーし、ホッケー世界選手権アメリカ代表にも選出された。

 

2年目の1977-1978シーズンに早くも才能を開花させ、タフさと必殺のスラップショットを武器に19ゴール、60ポイントを記録。オールスターに選出され、カルダー賞の投票でも2位につけた。

 

その後も攻撃的ディフェンスマンとして活躍し、1980-1981シーズンには自己最高の27ゴールを記録。オールスターに選出され、1982-1983シーズンにも自己最高の74ポイントを記録した。

 

1985-1986シーズン途中にボストン・ブルーインズにトレードで移籍。1986-1987シーズンにはアメリカ人初の200ゴールを達成した。

 

その後はチームを転々とし、1988-1989シーズンだけでエドモントン・オイラーズ、ニューヨーク・アイランダーズ、ミネソタ・ノーススターズと3回も移籍を経験。さらに1989-1990シーズンにはバッファロー・セイバーズに移籍するも、1試合の出場に終わった。

 

0227その後はイタリアに渡り、HCアッゲレで2年プレーし、ディフェンスマンでありながら試合数の1.5倍ものポイントを稼いだ。

 

1994年にはローラーホッケーのリーグでプレーし、1994-1995シーズンには故郷ミネソタのIHLミネソタ・ムースに入団。9試合プレーして引退した。現在は保険関連のビジネスに携わっている。

 

ぼろぼろになるまで戦い続けた偉大なディフェンスマン、ラーソン。1996年にアメリカホッケーの殿堂入りを果たしている。

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