4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYJ

タイ・ロー ~Swing~

0946ハイスクールではDBの他にもWRやRBとしてもプレーし、バスケットでも活躍。さらにジャズでも才能を発揮し、フルート奏者として活躍。NFL選手になれなければジャズの道を目指すつもりだったという。

フットボールで奨学金を得てミシガン大学へ進学。CBとしてオールアメリカンに選ばれ、スポーツイラストレイテッドの表紙を飾るなど華々しい活躍を見せ、1995年に全体23位でニューイングランド・ペイトリオッツに入団した。

1年目は控えながら40タックル、3INTを記録して存在感を示すと2年目は先発に定着。56タックル、3INT、1INTTDを記録した。

INTを量産する爆発力とCBとは思えないハードヒットが売りで、勢い余ってしばしば罰退を食らうほどであった。

1998年にはリーグトップとなる9INTを記録し、オールプロとプロボウルに選出。一流選手の仲間入りを果たした。

2001年にはスーパーボウルに進出。カートワーナーからINTTDを奪うなど大活躍を見せ、チームの優勝に大きく貢献した。

同年から3年連続でプロボウルに選出され、2003年には再びスーパーボウルを制覇。AFC社んぴオンシップゲームではインディアナ・コルツのペイトン・マニングから3INTを奪うなど、大舞台での強さを見せた。

2004年もスーパーボウルを制覇し、4年で3つのリングを荒稼ぎしたものの、サラリーは1200万ドル以上に膨れ上がり、同年には7試合しか出場できなかったこともあり、オフに解雇された。

0945ニューヨーク・ジェッツと契約して迎えた2005年シーズン、自己最高でリーグトップの10INTを記録し、5回目のプロボウルに選出。しかしジェッツでも高年俸がネックとなり、1年限りでチームを去った。

翌シーズンは5年2000万ドルの契約でカンザスシティ・チーフスと契約。しかし30歳を超えて衰えが始まり、期待されたほどの活躍をすることなく、契約を残して2008年にジェッツに出戻った。

ジェッツではスターターの座から降格し、キャリア初のINTなしでシーズンを終え、オフにデンバー・ブロンコスに移籍。7試合に出場したもののわずか2先発で、このシーズンを最後に現役を引退した。

歴代23位となる53INTを記録し、2000年代のオールディケードチームとペイトリオッツの50周年記念チームに選ばれている。

ジョン・リギンス ~The Diesel~

0844NFLで黒人がプレーするようになって以来、真っ先に姿を消したのが白人のRBである。瞬発力の差もあるが、そもそも白人をRBにしようとする指導者が少ないらしい。

ダリル・ジョンストンやマイク・オルストットといった白人のFBは稀に登場するが、純粋なRBとなると、プロボウル級ではクリーブランド・ブラウンズのペイトン・ヒリス、それ以前は私の知る限り、このジョン・リギンスまでさかのぼる。

ハイスクールでは100ヤード走のカンザス州チャンピオンだったというリギンスは、カンザス大学へ進学し、1969年にはチームのオレンジボウル進出に貢献。1970年は1131ヤードを走り、大学記録の14TDを記録した。

1971年に全体6位でニューヨーク・ジェッツに入団。ルーキーでありながらFBとして769ヤードを走ってチームのリーディングラッシャーとなった。

"The Diesel"と呼ばれるほどのパワーバックで、短い距離を確実に進める頼もしい存在であった。

1972年にはひざの故障で2試合欠場したにもかかわらず、944ヤード、7TDを記録。チームMVPを記録した。

08431975年には1005ヤード、8TDを走り、チーム初の1000ヤードラッシャーとなり、プロボウルに選出。2度目のチームMVPを受賞した。

シーズン終了後にFAとなり、ワシントン・レッドスキンズに移籍。4年150万ドルという当時としては大型の契約を結んだ。ちなみにジェッツ時最終年の年俸はわずか75000ドルであった。

レッドスキンズでもオフェンスの中心として活躍していたが、1980年シーズン開幕前、契約で揉めてキャンプをボイコット。故郷カンザスに引きこもり、そのまま1980年シーズンは出場しなかった。

シーズン終了後にジョー・ギブスHCがカンザスを訪れて説得に当たり、トレードしないことを条件に復帰。マスコミには"ヒマで金もないので戻ってきた"とリギンスは語った。

復帰した1981年シーズン、最初は不調だったものの、RBとして15試合に出場。714ヤードながら13TDを荒稼ぎした。

プレーオフでもリギンスの走りはとどまるところを知らず、ライオンズ、バイキングス、カウボーイズを合計444ヤードのランで蹴散らし、第17回スーパーボウルに出場した。

スーパーボウルでもマイアミ・ドルフィンズを相手取って166ヤードを走り、ポストシーズン4試合すべてで100ヤードランというNFL記録を樹立。チームも27-17で快勝し、リギンスはMVPを受賞した。

特に4thクォーターに4th&ショートからランを試み、ドルフィンズのCB、ドン・マクネイルのタックルを振り払って43ヤードのTDを決めたシーンは圧巻であった。

続く1982年シーズン、8試合の短縮シーズンながらリーグトップの177キャリーを記録。ポストシーズンも2試合とも100ヤードを超え、自身の記録をさらに伸ばした。

スーパーボウルではロサンゼルス・レイダーズと激突。しかし38-9で完敗し、連覇はならなかった。

もうリギンスは35歳になっていたが、それでも成長はとどまるところを知らず、1983年には当時のNFLレコードとなる24TDを記録。リーグトップの166得点を挙げた同僚のキッカー、マーク・モズリーに次ぐリーグ2位の144得点を挙げた。

1984年にもリーグトップの14TDランを記録。しかし、1985年に背中を痛め、同年限りで現役を引退。ジム・ブラウンに次ぐ2人目の100TDラッシャーであった。

引退後は解説者を務める傍ら俳優業にも挑戦し、ブロードウェイで主演を張ったこともある。

1992年にプロフットボールの殿堂入り。80年代のオールディケードチームにも選ばれている。

スティーブ・アトウォーター ~Assassin~

ハイスクールではQBとしてリーグMVPを獲得し、アーカンソー大学ではセーフティーも兼任。大学レコードとなる14INTを記録したほか、シニアボウルでも2INTを記録するなど、セーフティーとしての才能を開花させた。

1989年に全体20位でデンバー・ブロンコスに入団。セーフティーとしては同年25位でマイアミ・ドルフィンズに指名されたルイス・オリバーのほうが評価は高かったが、ダン・リーブスHCはアトウォーターのリーダーシップを見込んで指名した。

この市名は結果として大成功だった。オリバーも活躍したが、ウェイド・フィリップスコーディネーターによってスクリメージライン間際で起用されたアトウォーターはハードヒットを連発し、129タックル、3INTを記録。守備新人王の投票で2位に入った。

続く1990年にはキャリア肺の173タックルを記録してプロボウルに初選出。以後7年連続で選出され続けた。

同じくセーフティーのデニス・スミスとのセカンダリーはNFL最強を誇り、二人はブロンコスディフェンスの生命線であった。

1997年は53タックル、2INTと不調に終わり、プロボウルに選出されなかったが、アトウォーターは最後の最後に真価を発揮した。

鉄人ファーブを擁するグリーンベイ・パッカーズとの第32回スーパーボウルでアトウォーターは大暴れした。

6タックル、1.0サック、1FFを記録してパッカーズを苦しめ、チームはスーパーボウル初制覇を達成。MVPは新人RBのテレル・デイビスが受賞したが、アトウォーターこそ真のMZPだという声も多かった。

翌シーズンは本格的に衰え始め、1stダウンと2ndダウンだけプレーし、3rdダウンには交代という起用法でプレーしたが、前年のスーパーボウルの活躍がファンの心に残っていたため、プロボウルに選出。チームはスーパーボウル連覇を達成した。

シーズン終了後にニューヨーク・ジェッツに移籍。1年プレーしたのち現役を引退した。

1990年代最高のセーフティーであり、オールディケードチームに選ばれたほか、ブロンコスの50周年アニバーサリーチームに選ばれ、ブロンコスの殿堂入りも果たしている。

ブレット・ファーヴ ~鉄人~

0721フットボールのコーチである父のもとに生まれ、父がコーチを務めるハイスクールに進み、QBのほかにもRB、OL、S、K、Pなど多くのポジションでプレーしたファーヴだったが、本職のQBはと言うと、優秀なRBがいたため、ほとんどパスを投げる機会はなかった。

唯一奨学金のオファーをくれたサザンミシシッピ大学に進学。大学側はDBとしての活躍を期待していたが、ファーヴはあくまでQBにこだわり、7番手のQBとしてカレッジのキャリアをスタートさせた。

2年目の第3試合後半、二日酔いで練習中に吐いたにもかかわらず出場し、2TDを記録。以後先発に定着した。

4年時、1990年7月14日に交通事故に遭い、小腸を75センチも切除する大けがを負ったが、6週間後に復帰。アラバマ大学相手に勝利を挙げた。

1991年にドラフト2巡目でアトランタ・ファルコンズに入団したものの、ジェリー・グランビルHCに嫌われ、"飛行機事故でもない限り先発は無理"とまで言った。

当の本人も夜遊びばかりで素行が悪く、シーズン終了後にトレードでグリーンベイ・パッカーズに移籍した。

パッカーズでもさほど期待はされていなかったが、正QBドン・マコウスキーの故障で第3戦途中から出場。最初はブーイングが飛んだが、15試合で3227ヤード、18TDパスを投げ、レーティング85.3を記録し、歓声に変えた。

0722このシーズンから連続先発記録をスタートさせ、鉄人への道を歩み始めた。

コントロールを両立させた凄まじいまでの強肩、ディフェンダーをかわすクイックネス、サックを恐れない強心臓、どこを切っても超一流、非の打ちどころがないスーパーQBであった。

1995年には4413ヤード、38TDを投げてMVPを受賞。この年から3年連続でMVPを受賞した。これはファーヴが唯一の記録である。

1996年には第31回スーパーボウルを制し、実に31年ぶりにビンス・ロンバルディ・トロフィーをグリーンベイに取り戻した。

その後も復活した名門パッカーズのスーパースターとしてパスを投げまくり、2006年には400TDパスを達成。2007年にはダン・マリーノを抜いてNFL歴代トップとなる421TDパスを記録した。

しかし、歳とともに引退を口にするようになり、2002-2003シーズンのプレーオフでファルコンズに大敗して以来、引退は現実味を帯びてきた。

2005年には自己最低のレーティング70.9に終わり、チームはファーヴの先発定着以来初の負け越し。このシーズンは何とか思いとどまったものの、2007年シーズンに惜しいところでスーパーボウル進出を逃し、ついに引退を表明した。

しかし、キャンプイン直前に急きょ引退を撤回し、復帰を表明。すでにパッカーズはアーロン・ロジャースの育成を進めており、不要となったファーヴは8月にトレードでニューヨーク・ジェッツに移籍した。

しかし、新天地でファーヴは波に乗ることができず、9勝7敗と不本意な成績に終わり、2度目の引退を表明した。

復帰はないとのことだったが、8月にこれを撤回し、ミネソタ・ヴァイキングスと契約した。

移籍1年目は好調で、カンファレンスファイナルまで進出したが、翌シーズンは相次ぐ故障がファーヴを襲い、14週目でついに欠場。連続先発は297試合で止まった。

シーズン終了後に3度目の引退を表明。しかし、複数の球団が獲得を狙っているとの情報もあり、復帰も大いにあり得る状況である。

一フットボールファンとして、あらゆるパスの記録を持つファーヴのプレイはもっと見たい。ぜひ復帰してほしいものである。

アーロン・グレン ~Jet aircraft~

0674ナバロ大学とテキサスA&M大学でオールアメリカンを3回受賞したグレンは、1994年に全体12位でニューヨーク・ジェッツに入団した。

 

1年目からCBKRとして15試合に出場し、CBとして67タックル、2FF1FRを記録。さらにKRとして27リターンで582ヤードをリターンした。

 

翌シーズンは52タックル、1INT1FF1FRと今一つだったが、1996年は4INT44タックル、リーグ最多の2INTTDを記録。100ヤードの劇的リターンTDも決め、風格を見せた。

 

1997年はグレンの守る左サイドにほとんどパスが飛んでこず、1INT65タックルを記録。さらにKRとして28リターンで741ヤード、1TDを記録。プロボウルに選出された。

 

翌シーズンはなんと6INTを稼ぎ、リターナーとしても24リターンで585ヤードを記録。2年連続でプロボウルに選出された。

 

その後3INT4INT5INTと活躍を続けたが、2002年にエキスパンションドラフトでヒューストン・テキサンズに移籍。創設まもないテキサンズディフェンスの要として5INT67タックル、1.0サックを記録。DEのゲーリー・ウォーカーとともにチーム初のプロボウラーとなった。

 

06732005年にダラス・カウボーイズに移籍。ジェッツ時代のHC,ビル・パーセルズと再会し、7先発ながら4INTを記録した。

 

2006年以降は先発に復帰できず、2007年にジャクソンビル・ジャガーズ、2008年にニューオーリンズ・セインツに移籍。

 

セインツでもさしたる活躍はできず、シーズン終了後に解雇。2010728日にテキサンズと1日だけの契約を結び、これを最後に現役を引退した。

 

ジェッツで記録した24INTはチーム歴代3位。ジェッツのオールタイムチームに選出されている。

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