4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYK

バック・ウィリアムズ ~Come Buck~

0910メリーランド大学で活躍したウィリアムズは、1980年にはモスクワ五輪のアメリカ代表に選ばれたものの、アメリカのボイコットで出場することはなく、1981年に全体3位でポートランド・トレイルブレイザーズに入団した。

1年目から先発し、平均15.5得点、12.3リバウンドを記録。堂々の新人王に選出された。

得点力もさることながら、ディフェンスとリバウンド技術はNBAでも指折りで、毎シーズン平均10リバウンドは稼いだ。

1983-1984シーズンにはチームをプレーオフに導き、ファーストラウンド突破に大きく貢献。これはチームがABAから移籍して以来初の快挙であった。

弱小ネッツの貴重なスターであったが、1989年にサム・ボウイと指名権とのトレードでポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。

ブレイザーズでもクライド・ドレクスラーとともに圧倒的支配力でフロントコートに君臨。低迷していたチームを見事に立ち直らせた。

移籍初年度にいきなりファイナルに進出。しかしデトロイト・ピストンズに敗れ、チャンピオンリング獲得はならなかった。

1991-1992シーズンにもファイナルに進出。しかし今度はシカゴ・ブルズに敗れ、ついにリングは獲得できなかった。

09091994年からは選手会長を務め、選手側のリーダーとして活動。引退後もしばらく務めた。

1996年にニューヨーク・ニックスに移籍。主にパトリック・ユーイングやチャールズ・オークリーの控えとして起用されたが、1997-1998シーズンにひざを手術し、41試合の出場に終わるとこのシーズンを最後に現役を引退した。

ついにリングは手に入らなかったが、背番号52はネッツの永久欠番となり、通算4526オフェンシブリバウンドは歴代4位、16000得点と13000リバウンドを両方達成しているのはNBA史上ウィリアムズだけである。

引退後は会社を経営していたが、2010-2011シーズンからアトランタ・ホークスのコーチに就任。現在まで勤めている。

グレン・ライス ~さすらいのシューター~

0835ミシガン大学で輝かしい活躍を見せ、1989年にはNCAAトーナメントを制覇してMVPを獲得。スポーツイラストレイテッドの表紙を飾ったライスは、同年全体4位で創設まもないマイアミ・ヒートに入団した。

1年目からスイングマンとして先発し、平均13.6得点、4.6リバウンドを記録。オールルーキーセカンドに選ばれた。

カレッジのスターだけあって人気は高く、ヒートの初代スターとして活躍。1991-1992シーズンには平均22.3得点を記録。これは球団史上初の快挙であった。

なんといっても精度の高いスリーポイントが持ち味で、成功率は3割台後半を割り込むことはなかった。

1994-1995シーズンにはスリーポイントコンテストに出場。スティーブ・カーやダン・マーリー、レジー・ミラーら強豪を押しのけて見事優勝した。

しかし、シーズン終了後にアロンゾ・モーニングとの交換でシャーロット・ホーネッツに放出された。

ホーネッツではさらに成績を伸ばし、1996-1997シーズンにはキャリアハイの平均26.8得点、リートップのスリーポイントシュート成功率.470を記録。オールスターに選出された。

0836オールスターでは第3クォーターに出場。1クォーターで20得点を荒稼ぎし、MVPを獲得した。

1998-1999シーズンはロサンゼルス・レイカーズに移籍。1999-2000シーズンにはチームのファイナル制覇に大きく貢献し、チャンピオンリングを手にした。

シーズン終了後にニューヨーク・ニックスにトレード。シックスマンとして1シーズンプレーし、シーズン終了後にヒューストン・ロケッツに移籍。さらに2003-2004シーズンはロサンゼルス・クリッパーズに移籍し、同年限りで現役を引退した。

ちょうど1000試合に出場。スリーポイント成功率はちょうど.400を記録。1559スリーポイントゴールは歴代11位の大記録である。

ステフォン・マーブリー ~Starbury~

0804ニューヨークのブルックリンで生まれ、ハイスクール時代にはケビン・ガーネット、シャリーフ・アブドゥル・ラヒーム、アントワン・ジェイミソンらとともにオールアメリカンに選ばれたマーブリーは、ジョージア工科大学に進学した。

大学では1年プレーしただけでアーリーエントリーし、1996年に全体4位でミルウォーキー・バックスが指名。すぐにミネソタ・ティンバー・ウルブルズにトレードされた。

奇しくもガーネットとチームメイトとなり、1年目から64試合に先発し、平均15.8得点、7.8アシスト、1.0スティールを記録。オールルーキーファーストに選ばれた。

PGだがディフェンスを嫌い、自分勝手なところがあったが、得点力はかなりのものがあった。

1997-1998シーズンも活躍し、チームをプレーオフに導いたが、ガーネットの年俸に嫉妬し、さらにプレーをめぐって首脳陣と対立。トレードを要求し、1998-1999シーズン途中にニュージャージー・ネッツに放出された。

ネッツでも安定して20得点以上を稼ぎ続け、2000-2001シーズンにはキャリアハイとなる平均23.9得点を記録し、オールスターに選出されたが、チームはプレーオフに進出できず、シーズン終了後にジェイソン・キッドとのトレードでフェニックス・サンズに移籍した。

サンズでも2003年にオールスターに選出されるなど活躍したが、チームは相変わらずプレーオフに弱く、2003-2004シーズン途中にニューヨーク・ニックスに移籍した。

地元とあってファンの期待は大きかったが、シューズのプロデュースやタレント活動などの副業に精を出してポテンシャルを落とし、成績は悪化。それにもかかわらず自分のことを最高のPGと言い張るなど、トラブルばかり起こし、2004-2005シーズンにはチームは負け越した。

08032005-2006シーズンはラリー・ブラウンHCが就任したが、マーブリーと衝突し、チームは崩壊。ニックスじゃ地区最下位に沈み、HCはアイザイア・トーマスに後退した。

しかし、翌シーズンはチームケミストリーはさらに悪化し、ニックスはどん底にまで落ち込んだ。

翌シーズンは左足の故障で24試合の出場に終わり、トレードもうわさされたが、2年4200万ドルと言う巨額の契約を結んでいたため、なかなか引き取り手は見つからなかった。

翌2008-2009シーズン、新HCのマイク・ダントーニはマーブリーを一切起用せず、バイアウト交渉を有利に進め、シーズン終盤ににようやくバイアウトに応じさせた。

その後ボストン・セルティックスと契約。ガーネットと再会したものの、往時の輝きは戻らず、シーズン終了後にFAになった。

その後1年は浪人して過ごし、24時間の生活をインターネットで生中継し、引退宣言をしたり、ワセリンを一気飲みするなどの奇行を繰り返して失笑を買った。

その後去就が注目されたが、2010年に中国の山西ドラゴンズと契約。時差ボケが直らないうちに試合に出場し、28分で15得点、4リバウンド、8アシスト、4スティールを記録した。

さらに2010-2011シーズンは陝西キリンズに移籍し、オールスターではMVPを獲得。シーズン終了後に北京ダックスに移籍し、現在に至る。

一見とんでもない悪童に見えるが、ハリケーン・カトリーナの被災者のために熱心に寄付活動を行い、ジャマール・クロフォードが故障した際には涙を流し、プロデュースするシューズ、"Starbury One"は貧しい子ども達のために15ドルという破格値である。自分勝手だが根は良い奴なのだ。

ニックスファンにはマーブリーに恨みがある人も多いだろう。しかし、マーブリーにもこういう一面があるということを知っていてほしい。

ラリー・ジョンソン ~LJ~

0796ネバダ大学ラスベガス校で1990年にNCAAトーナメントを制し、ネイスミス賞とウッデン賞を受賞したジョンソンは、1991年に全体1位でシャーロット・ホーネッツに入団した。

ルーキーイヤーから77試合に先発し、平均19.2得点、11.0リバウンド、3.6アシストを記録。堂々の新人王を受賞した。

201センチとPFとしては小柄ながら、タフさでそれを補い、スリーポイントも沈められるシュート能力と高いパスセンスも併せ持ったオールラウンダーであった。

続く1992-1993シーズンはリーグトップの平均40.5分の出場で22.1得点、10.5リバウンド、4.3アシストを記録。オールスターに選出された。

シーズン終了後に12年総額8400万ドルの超大型契約を結んだが、キャンプで故障してしまい、1993-1994シーズンは31試合を欠場した。

しかし、1994年にはドリームチームⅡに選ばれて金メダルを獲得するなど、"フューチャー・ブルズ"と呼ばれた若いホーネッツの中心として活躍を続けた。

0795だが、その後ホーネッツのメンバーは相次いで放出されるようになり、ジョンソンもそのあおりで1996年にニューヨーク・ニックスに放出された。

ニックスでは移籍1年目こそ成績を落としたものの、その後持ち直し、1998-1999シーズンにはチームのファイナル進出に大きく貢献した。

特にインディアナ・ペイサーズとのカンファレンスファイナル第3戦では、ラスト11秒でスリーポイントを決めた直後にファールからフリースローをもらい、これをを決めてチームは92-91で勝利した。

1999年にはイスラム教に改宗し、ラマダン(断食月)を行ってシーズンに臨んだものの、慢性的な腰の故障から衰え始め、チーム批判をしてトラブルを起こすなどし、2000-2001シーズンにわずか31歳の若さで現役を引退した。

引退後の2007年にはリーダーシップをとる選手としてニックスでの現役復帰を目指したが、流石にこれは失敗に終わっている。

アンソニー・メイソン ~Head Line~

0786テネシー大学で活躍し、1988年にドラフト3巡目でポートランド・トレイルブレイザーズに指名されたメイソンだったが、すぐにカットされてブレイザーズでプレーすることはなかった。

その後トルコやベネズエラ、CBAやUSBLを転々とし、1989年にニュージャージー・ネッツと契約した。

ネッツでは21試合しか出場できずウェーバーになり、デンバー・ナゲッツと10日間契約を結んだが、3試合出場しただけで解雇された。

このままNBAを去ってもおかしくなかったが、ニューヨーク・ニックスがメイソンに興味を示して契約。これはニックス布団との慧眼であった。

パット・ライリーHCに見出され、シックスマンとして82試合に出場し、平均7.0得点、7.0リバウンド、1.3アシストを記録。ユーイング、オークリーらのバックアップとしてニックスのフロントコートを固めた。

206センチとPFにしては小さいが、NFLプレイヤー並みの筋肉を身にまとい、恐ろしくタフでハードなディフェンスを見せ、パスセンスも兼ね備えた実に使い勝手のいい選手であった。

また、坊主頭を刈り込んで絵や文字を描く選手がNBAでは珍しくないが、その走りはこのメイソンである。

その後もシックスマンとして活躍し、1993-1994シーズンには平均7.2得点、5.8リバウンドでチームのファイナル進出に貢献。1994-1995シーズンには平均9.9得点、8.4リバウンドでシックスマン賞を受賞した。

続く1995-1996シーズンはスターターとして起用され、タフさを活かしてリーグ最高の平均42.2分、3457分出場。これは現在もニックスの球団記録である。

シーズン終了後にシャーロット・ホーネッツにトレード。リーグ最高の平均43.1分出場し、キャリアハイとなる16.2得点、11.4リバウンド、5.7アシストを記録。さらにトリプルダブルを4回も達成した。

0785翌1997-1998シーズンは腕の故障で精彩を欠き、続く1998-1999シーズンは全休した。

1999-2000シーズンは復帰したものの今一つで、シーズン終了後に9選手の絡む大型トレードでマイアミ・ヒートに移籍した。

控えでの起用が予想されていたが、アロンゾ・モーニングが腎臓病で離脱したためチームリーダーとして活躍。平均16.1得点、7.9リバウンド、4.2アシストを記録し、オールスターに選出。チームのプレーオフ進出の原動力となった。

シーズン終了後にFAでミルウォーキー・バックスに移籍。しかし、体重の増加やチーム批判などのトラブルを起こしてチームに不和を生み、2002-2003シーズンに解雇され、そのまま現役を引退した。

現役時代からファンの人気は高く、何本かの映画に出演している。
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