4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYM

トム・グラビン ~Shooting Starter~

0923ハイスクールでは野球の他にアイスホッケーでも輝かしい成績を残し、1984年にNHLドラフト4巡目でロサンゼルス・キングスに指名されたグラビンだったが、同年アトランタ・ブレーブスから2巡目で指名を受け、ブレーブスに入団した。

ちなみに同年のNHLドラフトでは後に殿堂入りを果たすルク・ロビテイルとブレット・ハルが指名されているが、グラビンよりも指名順位は低かった。

1987年にメジャーデビューを果たしたが、しばらく不安定なピッチングが続き、1988年にはローテーション入りを果たしたものの、7勝17敗で最多敗を喫してしまった。

しかし翌シーズンには14勝8敗と見られる成績になり、1991年には20勝11敗、防御率2.55の成績を残し、オールスターとシルバースラッガー賞に選出され、サイヤング賞を獲得。一躍MLBを代表する左腕となった。

このシーズンから3年連続で20勝を記録。3年連続20勝は今のところグラビンが最後である。

ジョン・スモルツと並ぶブレーブスの二枚看板であったが、1993年にはさらにグレッグ・マダックスが加入。ブレーブス黄金時代を象徴する三本柱がここに完成した。

球速は140キロを超える程度だったが、多彩な変化球を精密機械のようなコントロールで外角に決め、打たせて取る技巧派であった。

さらに牽制やフィールディングにも優れ、シルバースラッガ賞を4回受賞するなど、打撃も投手としてはかなりのもので、選球眼もよく、やすやす打ち取ることができない厄介な存在であった。

1994年の労使交渉ではブレーブスの代表として積極的に活動。結局シーズン途中にストライキに踏み切ったが、それでも13勝9敗を記録した。

三本柱を擁したブレーブスは14年連続で地区優勝を達成。1995年には世界一に輝き、ワールドシリーズで2勝を挙げたグラビンはMVPを受賞した。

特にワールドシリーズ第6戦は1安打完封の貫録のピッチングを見せ、胴上げ投手となった。

09241996年には15勝10敗を記録する傍らで打率.289を記録。一方で女房役のハビー・ロペスは打率.282であり、グラビンの打撃がいかに優れていたかがうかがえる。

1998年には20勝6敗の成績で2回目のサイヤング賞を受賞。2000年にも21勝を受賞し、5回目の最多勝に輝いた。

さらに2001年には17犠打で最多犠打に輝き、投打に存在感を見せたが、2002年のオフに契約交渉がこじれ、FA権を行使してニューヨーク・メッツに移籍した。

選手会の活動に熱心だったため"金に汚い"という批判もあったが、生え抜きのスターだったグラビンの移籍は惜しまれた。

しかしメッツでは1年目に9勝14敗に終わり、限界説もささやかれたが、オフにカーブを習得し、続く2004年には11勝14敗、防御率3.60と持ち直し、オールスターに選出された。

2007年には300勝を達成。9月の時点で首位のフィリーズと7ゲーム差あった中、連勝に次ぐ連勝でゲーム差なしまで追い詰め、天王山の最終戦でグラビンは先発したものの、1アウトを取っただけで7失点を喫し、プレーオフを逃した。

オフにブレーブスに復帰。しかし開幕直後に故障で人生初の故障者リスト入りし、そのままシーズンを終えた。

オフに再契約したものの、6月に戦力外通告を受けてFAとなり、2010年に引退を表明した。

通算682登板はすべて先発で、救援登板がない投手としては最多記録であり、304勝も最多勝となっている。

現在は解説者を務めており、背番号47はブレーブスの永久欠番である。

マイク・ピアザ ~掘り出し物~

0922中古車販売と不動産事業で財をなした裕福な家に生まれたピアザだったが、以外にも子供のころにはピッチャーで、キャッチャーは一番嫌いなポジションだったという。

ピアザの父親とトミー・ラソーダ監督は親友同士だったため、その伝手で1977年のドジャース世界一の際のシャンパンファイトに参加したり、ドジャースタジアムでバットボーイをやったりした。

野球に熱心に打ち込むピアザのために両親は広大な土地を買い、打撃練習場を作った。自家発電機を備え、プロ仕様のバッティングマシンと照明塔まである豪華な施設で、ピアザはそこで一日中バッティング練習を続けた。

ハイスクールでは捕手が不足したため、監督に強肩を活かして捕手転向を勧められたが、あくまでキャッチャーは嫌だったのでファーストに転向。通算打率6割を超える強打者に成長したが、無名校であったためドラフトで指名を受けず、マイアミ大学に進学した。

大学では出場機会を与えられず、ほどなく出場機会を求めてマイアミ・デード大学に転校した。

本来プロになれるような実績を残していなかったが、1988年にドラフト62巡目でドジャースに指名されて入団。この年1433年が指名され、ピアザは全体1389位であった。

指名されたことを本人が知ったのはドラフト会議から2ヶ月後のことで、半ば縁故入団のようなものであり、"ラソーダのペット"と陰口を叩かれた。

しかし、バットボーイ時代に球場で見せたバッティングはラソーダに強烈な印象を残しており、"ピアザは最高のキャッチャーになる"と言ってはばからなかった。

キャッチャーの守備に苦しみながらも打撃を成長させ、1992年についにメジャーデビューを果たし、21試合に出場。続く1993年には正捕手のマイク・ソーシアが放出され、ピアザが正捕手に定着した。

ラソーダのエコひいきと言う声も飛んだが、打率.318、35HR、112打点の成績でオールスターに選出され、シルバースラッガー賞と新人王を受賞。もうピアザをペット呼ばわりする人間はいなくなった。

守備は下手くそで肩もMLBでは特別強いわけではなかったが、キャッチャーとしてはあり得ない程の長打力の持ち主で、10年連続でオールスターとシルバースラッガー賞に選出。1997年には自己最高の40HRを記録した。

しかしシーズン終了後に契約交渉がこじれ、5月にフロリダ・マーリンズにトレード。しかし前年世界地に輝いたマーリンズは年俸圧縮のための名物、"ファイヤーセール"の最中で、ピアザはわずか8日でニューヨーク・メッツに放出された。

0921メッツではチームにしばらく順応できず、批判の的になったが、後半になって成績を上げ、最終的に打率.348、23HR、76打点を記録。メッツでも強打の捕手は健在であった。

2000年にはワールドシリーズに進出し、ヤンキースと"サブウェイ・シリーズ"で衝突。同年のインターリーグでロジャー・クレメンスに頭部死球を食らっていたため、遺恨のカードとして注目されたが、第2戦でクレメンスに抑え込まれ、メッツは敗退した。

その後もメジャー一の強打の捕手として君臨し、1995年以来30HRを放っていたが、2003年に肉体の衰えから11HRに終わって記録が8年で止まると、高年俸もあって再び批判にさらされるようになった。

長年独身だった他、同僚と同居していたことからことからゲイ疑惑まで起こり、ボビー・バレンタイン監督が"ゲイがカミングアウトできる時代が来たと思う"と発言したことが余計に事を荒立て、わざわざ記者会見を開いて疑惑を否定するほどであった。ちなみに現在は結婚している。

翌シーズンは20HRとやや持ち直したものの、物足りない成績になった感は否めず、2005年シーズン終了後にサンディエゴ・パドレスに移籍。この頃からキャッチャーでの出場が減り、インターリーグではもっぱらDHでの起用になった。

イタリア系だったことから同年はWBCにイタリア代表で出場。主軸を担った。

翌シーズンはオークランド・アスレチックスに移籍。フランク・トーマスの後釜として期待されていたが、83試合しか出場できず、同年限りでFAとなり、2008年に引退を表明した。

引退後イタリアを中心にヨーロッパで野球の普及活動に従事。2009年には第2回WBCでイタリア代表のコーチを務めている。

球団関係者の子息が下位指名で縁故入団するのはよくある話である。しかし、コネでは427本もHRは打てない。

ペドロ・マルチネス ~地上最高~

0901ドミニカで生まれたマルチネスは、1988年に兄のラモンがいるロサンゼルス・ドジャースに入団。1992年にメジャー初昇格を果たした。

当時すでにドジャースのエースとなっていたラモンをして自分以上と言わしめた素質の持ち主で、翌シーズンは主にリリーフで起用され、10勝5敗、防御率2.61を記録。新人王投票で9位に入った。

本人は先発での起用を熱望していたが、公称180センチ、80キロと小柄(実際はもっと小さいという)だったため、先発での起用は不安視されていた。

しかし、これは名将ラソーダの失敗であった。1994年にトレードでモントリオール・エクスポズに移籍すると先発で起用され、11勝5敗、防御率3.42を記録。一気に頭角を現した。

続く1995年には14勝10敗を記録。6月3日のパドレス戦では9回までパーフェクトピッチングを見せたものの、味方の援護なく延長戦に突入。10回先頭打者にツーベースを許し、快挙を逃した。

1996年にはオールスターに初選出。しかしまだマルチネスは底を見せてはいなかった。

09021997年、31先発でリーグトップの13完投、17勝8敗、防御率1.90で最優秀防御率とサイヤング賞を獲得。エクスポズのエースはMLBのエースに成長を遂げた。

小柄ながら100マイル近い剛速球と鋭く変化する多彩な変化球を自在に操る本物のパワーピッチャーであり、クレメンスやシーバー、コーファックスと比較される大投手であった。

1998年にボストン・レッドソックスに移籍し、1999年、2000年にもサイヤング賞を受賞。1999年には23勝4敗というとてつもない成績を残し、2000年に記録したWHIP0.737はMLBレコードとなっている。

アリーグに移籍したことで投球スタイルに変化が生じ、わざと頭を狙って打者を脅かして抑えるという戦術をとるようになった。

この作戦は効果てきめんであったが、言うまでもなく恨みを買い、レッドソックスのメンツが荒くれ揃いだったこともあり、しばしば起乱闘沙汰を起こした。

2001年には故障で7勝に終わったが、2002年には20勝を挙げて復活。2003年にはチームをリーグチャンピオンシップまで導いたが、ニューヨーク・ヤンキースとの第3戦に事件が起こった。

いつも通りビーンボールを打者に食らわせたところ、過去に死球で生死の境をさまよったことがあるヤンキースのドン・ジマーコーチが激高。取っ組み合いになり、ジマーはマルチネスに首をつかまれて地面にたたきつけられた。

当時ジマーは72歳の高齢で、両チームのライバル関係もあって大きな波紋を呼んだが、ジマーが謝罪会見を開いたことで事態は収束。しかし、チームはシリーズ敗退となった。

翌シーズン16勝9敗と今一つの成績ながらもプレーオフに進出。ヤンキースに雪辱し、ワールドシリーズでカージナルスを粉砕。ついにビリー・ゴードの呪いを打ち破った。

シーズン終了後にニューヨーク・メッツに移籍。ナリーグでは打席に立たねばならないため、報復を恐れてかビーンボールは封印した。

1年目こそ15勝8敗としたものの、その後は故障でフルシーズンプレーできず、2009年にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。5勝1敗と言う成績を残したものの、わずか9登板に終わり、ワールドシリーズに進出して6戦に先発したが、松井秀喜にHRを打たれ、2つ目のリングは手に入らなかった。

その後FAとなり、去就が注目されていたが、先日引退を表明。219勝100敗の成績を残して去っていった。

地上最高の投手の呼び声は本物である。生きているうちにマルチネスを見られた我々は幸運と言えよう。

レイ・オルドニエス ~Oz Ⅱ~

0771キューバで野球選手として才能を発揮し、若くして準公務員として国内リーグでプレーしていたオルドニエスだったが、1993年にアメリカのバッファローで行われた野球大会にキューバ代表として参加した際に亡命に成功。同年ニューヨーク・メッツとドラフト外で契約した。

1996年にメジャーデビュー。1年目から151試合に出場。新人王投票で5位に入った。

通算打率はわずか.246。出塁率も悪く、通算28盗塁と機動力があるわけでもなかったが、オルドニェスはファンに絶大な信頼を寄せられていた。

その信頼の秘密は芸術的なまでの守備であった。デビュー戦のセントルイス・カージナルス戦ではオジー・スミスをして"後継者"と言わしめたほどであった。

若いころは粗削りだがダイナミックないかにも中米的な選手であったが、徐々に洗練されて行き、1997年から3年連続でゴールドグラブ賞を獲得した。

特に1999年にはわずか4失策しかせず守備率は.994に達し、MLBの遊撃手記録を更新。同年から2000年にかけて101試合連続失策なしのMLB記録も受賞した。

0772しかし、2000年の前半戦に左腕を負傷してシーズンをリタイヤ。翌シーズンには復帰したが往時の芸術的守備は失われてしまった。

となるとオルドニェスは取り柄のない平凡な選手になってしまう。なんとかレギュラーは守っていたが、2002年シーズン終了後にタンパベイ・デビルレイズにトレードされた。

レイズでは34試合しか出場がなく、シーズン終了後にFAとなり、サンディエゴ・パドレスのキャンプに参加したものの、開幕直後に出場がないまま解雇された。

その後シカゴ・カブスと契約したものの出場は23試合に終わり、7月に解雇。その後再びパドレスのキャンプに参加したが、契約に至らず、2005、2006両シーズンはプレーしなかった。

その後2006年のオフにシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだが、開幕直前にサンフランシスコ・ジャイアンツにトレード。そのままプレーすることなく現役を引退した。

現在はマイアミで妻とともに暮らしている。

あの華麗な守備は一度見たら忘れられない。私にとってニューヨークのナンバーワンショートはジーターではなく、このオルドニェスである。

ジョージ・スコット ~Taters Hitter~

06891962年にボストン・レッドソックスと契約し、1965年にAAで三冠王を獲得したスコットは、1966年にメジャーデビューを果たした。

 

ホームランのことを”Taters(ジャガイモ)”と表現したり、愛用のファーストミットを”Black Beauty”と呼んだりと、ユーモアに長けたひょうきん者で、”2塁手の歯でできた(という触れ込みの)ネックレスを見せびらかしたりした。

 

とはいえ、スコットはコメディアンではなく、一流の野球選手である。彼にとってホームランはジャガイモのようにありふれたものだったし、実際グラブさばきは見事の一言であった。

 

1年目から打率.24527HR90打点を記録し、オールスターに選出。新人王投票では3位に入った。

 

翌シーズンから2年連続でゴールドグラブ賞を受賞するものの、自慢の長打力はなりを潜め、打率.1713HR25打点という散々な成績に終わり、ESPN”MLB史上最も打撃の悪い一塁手に認定されてしまった。

 

0690その後は復調し、1971年には24HRを記録し、ゴールドグラブ賞に帰り咲いたが、1972年に大型トレードでミルウォーキー・ブルワーズに移籍した。

 

ブルワーズでは主砲として頼りにされ、攻守ともに絶好調で、レッドソックス時代から数えて6年連続でゴールドグラブ賞を受賞。

 

1975年には打率.28536HR109打点でHR、打点の二冠王を獲得。ブルワーズに始めて打撃タイトルをもたらした。

 

1977年にレッドソックスに復帰し、移籍1年目は33HRを放ったものの、翌シーズンは12本に終わり、翌シーズン途中にカンザスシティ・ロイヤルズにトレード・さらにニューヨーク・メッツに移籍し、同年限りで現役を引退した。

 

ただ打つよりも、面白いことをやった上で打つ方が見ている分に面白い。スコットは優秀なエンターテイナーである。

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