4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYR

ジェームス・パトリック ~The Canadian~

0727ウクライナ系カナダ人のいうに生まれ、1981年ん全体9位でニューヨーク・レンジャーズに指名されたパトリックだったが、ノースダコタ大学に進学し、1982年にはNCAAチャンピオンに輝いた。

1983-1984シーズン後半からレンジャーズに加入。12試合で8ポイントを記録した。

翌シーズンは75試合に出場してNHLに定着。36ポイントを記録した。

1987年にはカナダ代表としてカナダカップに出場。6試合に出場し、チームの優勝に貢献した。

40ポイント以上を確実に稼ぐ得点力と素晴らしいディフェンスを兼ね備え、レンジャーズの中心選手として活躍。1991-1992シーズンには自己最高の71ポイントを記録した。

0728しばしば代表にも呼ばれる優秀なディフェンスマンだったが、1993-1994シーズン途中にハートフォード・ホエーラーズにトレード。さらに同年カルガリー・フレームズにトレードされた。

フレームズでは故障がちになったが、1998-1999シーズンにFAでバッファロー・セイバーズに移籍すると安定して出場できるようになり、経験を活かして渋くチームに貢献した。

2001-2002シーズンには38歳にして世界選手権代表に召集され、7試合でプレー。チーム・カナダとして40試合出場という当時の最多記録を打ち立てた。

2002-2003シーズンにはセイバーズのキャプテンに就任。69試合で16ポイントながら、いぶし銀のディフェンスでチームに貢献した。

ロックアウトが明けた2005年9月に引退を表明し、セイバーズのコーチに就任することが決定したが、現役復帰し、ドイツでプレー。セイバーズに戻ったのは2006年11月のことであった。

オールスターには出場できなかったが、21年のキャリアで1280試合に出場。まぎれもないカナダの顔である。

ルク・ロビテイル ~King Winger~

0679QMJHLでかなりの得点を稼いでいたロビテイルだったが、スケーティングに難があり、1984年に唯一目をかけてくれたロサンゼルス・キングスに指名されたものの、指名順位は9巡目171位であった。

 

ドラフト会場に足を運んだロビテイルは、指名された後、キングスのGMロガシアン・ヴァションに挨拶をした。ちなみにこの年のキングスが4巡目に指名したのが、MLB300勝投手となるトム・グラビンであった。

 

その後しばらくジュニアでプレーし、1985-1986シーズンには63試合で191ポイントを稼ぎ、MVPを獲得。翌1986-1987シーズンからキングスに加入した。

 

ルーキーイヤーから45ゴール、84ポイントを獲得し、カルダー賞を獲得。翌シーズンには53ゴール、11ポイントを獲得し、グレツキーに次ぐスコアラーとしての地位を獲得した。

 

なんといっても正確なシュートが持ち味で、1989-1990シーズンにはリーグ最高のシュート成功率24.8%を記録。一方でペナルティが少なく、同年はわずか38分しかない。

 

1992-1993シーズン、グレツキーが故障してしまったため、ロビテイルが代理のキャプテンに就任。いずれもLWの最高記録となる63ゴール、125ポイントを記録し、グレツキーの代わりを立派に務めあげた。

 

同年はプレーオフに進出し、24試合で9ゴール、22ポイントを記録したが、ファイナルでモントリオール・カナディアンズに敗れ、スタンレー・カップ獲得はならなかった。

 

翌シーズンは86ポイントと物足りない成績に終わり、シーズン終了後リック・トケットと指名権とのトレードでピッツバーグ・ペンギンズに移籍した。

 

マリオ・ルミューやヤロミール・ヤーガーを擁するペンギンズは強豪であり、当然ロビテイルは期待されたが、怪我でわずか46試合しか出場できず、デビュー以来最低の42ポイントしか記録できなかった。

 

翌シーズンニューヨーク・レンジャーズトレードされたが、ポイントが減ったばかりかペナルティが増え、69ポイントに対してペナルティ80分と初めてポイントがペナルティを下回った。

 

06801997年にトレードでキングスに復帰。若いころほどの得点力はないものの、2年連続で74ポイントを記録するなど活躍した。

 

2000年に年俸削減のためトレードを打診されたが拒否し、FAでデトロイト・レッドウィングスに移籍。同年始めてファイナルを制し、悲願のスタンレー・カップを獲得した。

 

2002年に再びキングスに復帰し、51ポイントを記録したが、ロックアウトが明けた2005-2006シーズンは24ポイントしか稼げず、同年限りで現役を引退した。

 

1394ポイントはLWとして歴代1位。全体171位指名での1000ポイント達成は、210位で達成したデーブ・テイラーに次ぐ歴代2位の記録である。

 

2009年に殿堂入り。背番号20はキングスの永久欠番となっている。

 

難癖のある選手を安く獲得し、上手く使うのはプロスポーツの理想の一つである。それを最高のレベルで成功させたキングスのフロントは優秀である。

ケリー・キシオ ~Swiss Hitman~

0637ジュニアで活躍したものの、ドラフトで指名されずにマイナーでプレーしていたキシオは、1982-1983シーズンにスイスに渡った。

 

そこで僅か35試合で73ポイントを叩き出したのがきっかけでNHLのスカウトに注目され、1983年にデトロイト・レッドウィングスとドラフト外で契約。スイスでのラストゲームでは8ゴール2アシストを記録した。

 

1983-1984シーズンからフルに出場し、23ゴール、60ポイントを記録。以後60ポイント前後を安定して稼ぐようになった。

 

1988-1989シーズンからニューヨーク・レンジャーズに移籍。ペナルティが少なく、安定して得点を稼ぐ便利な選手として重宝された。

 

しかし、1990-1991シーズンに35ポイントと不調に終わるとプロテクトから外れ、エキスパンションドラフトでミネソタ・ワイルドが指名。数日後にシェーン・チュラとの交換でサンノゼ・シャークスに移籍した。

 

シャークスでも1年目はふるわなかったが、続く1992-1993シーズンに復活を果たし、33歳にしてキャリアハイの78ポイントを記録。オールスターに選出された。

 

0638翌シーズンはカルガリー・フレームズに移籍。1994-1995シーズンを持って現役を引退した。

 

引退後はフレームズのスカウトを務めていたが、1998年からWHLのカルガリー・ヒットメンのGMに就任し、地区優勝2回を数える名門となっている。

シェーン・チュラ ~暴れ星2号~

0495ジュニア時代から威勢のいいエンフォーサーとして知られていたチュラは、1983年にドラフト6巡目でハートフォード・ホエーラーズに入団した。

 

当初はマイナーとNHLを往復し、1987-1988シーズン途中にカルガリー・フレームズに移籍。さらに1988-1989シーズン途中にミネソタ・ノーススターズに移籍した。

 

スターズではすでにバージル・マクレーがエンフォーサーとしてならしていたが、チュラも負けじと13試合で54分のペナルティを稼いだ。

 

二人はNHL最強のエンフォーサーコンビを組み、1989-1990シーズンにはチュラはペナルティ292分を記録。対してマクレーも351分を記録し、二人合わせて643分ものペナルティを稼いだ。

 

マクレーがチームを去り、チームがダラス・スターズに名をあらためてもチュラは闘い続けたが、1994年のプレーオフに事件は起こる。

 

バンクーバー・カナックスのパペル・ブレにボディーチェックを試みたところ、逆に肘打ちを食らい、気絶してしまった。

 

0496その影響もあってか前年333分あったペナルティが1994-1995シーズンには186分まで減り、1995-1996シーズン途中にロサンゼルス・キングス、ニューヨーク・レンジャーズと移籍を繰り返し、1996-1997シーズンをもって現役を引退した。

 

スターズでのペナルティ1883分はチーム歴代トップ。現在はスターズのスカウトを務めている。

 

ちなみに、ワシントン・レッドスキンズでスーパーボウルを制し、MVPにも輝いた名QB、マーク・リッピンとはいとこ同士である。

ティム・カー ~Unstoppable~

0604ジュニア時代はあまり目立つ存在ではなく、1980年にドラフト外でフィラデルフィア・フライヤーズに入団したカーだったが、これがとんでもない掘り出し物であった。

 

1年目から68試合に出場し、22ゴール、45ポイントを記録。シュート成功率は23.6%に及んだ。

 

1982-1983シーズンは怪我で24試合の出場に終わったものの、翌シーズン、カーは突如大化けした。

 

開幕から恐ろしい勢いでゴールを量産し、79試合で54ゴール、93ポイントを記録。オールスターに選出された。

 

ここまではごく普通のスコアラーにすぎない。しかし、翌シーズンからカーは特異性を発揮し始める。

 

55ゴール、93ポイントを稼いだが、パワープレーゴールはリーグ最多の21を記録。そのスピードとシュートは手がつけられず、鎖で手足を縛っても止められないとまで言われた。

 

それだけではとどまらず、翌シーズンは58ゴール、98ポイント、さらにNHL記録の34パワープレーゴールを記録。

 

翌シーズンも最多の26パワープレーゴールを記録。しかし、翌1987-1988シーズンは故障でわずか8試合の出場に終わった。

 

0605しかし、続く1988-1989シーズンに48ゴール、88ポイントを挙げて復活。忍耐とスポーツマンシップを発揮した選手に与えられるビル・マスタートン記念賞を受賞した。

 

しかし、その後もカーに故障が付きまとった。さらに1990-1991シーズン開幕前に妻が出産に耐えられず死去。カーは心身ともにボロボロになった。

 

結局その後は万全の状態でシーズンに臨むことができず、1991-1992シーズンはニューヨーク・レンジャーズ、1992-1993シーズンはハートフォード・ホエーラーズに移籍し、33歳の若さで現役を引退した。

 

通算370ゴールのうちパワープレーゴールはなんと150。不気味な魅力を持った選手であった。

 

引退後はニュージャージーに住み、独立リーグのチームオーナーを務めている。

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