4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

NYY

バーニー・ウィリアムズ ~Guitarist~

0958プエルトリコで生まれ、少年時代から野球の他にもクラシックギターと陸上競技で才能を発揮。特に陸上競技では15歳にして世界大会で4個も金メダルを獲得するなど、同世代では世界最高の400メートルランナーであった。

1985年に17歳でニューヨーク・ヤンキースのマイナーと契約。1991年にメジャーデビューを果たし、1993年にセンターのレギュラーを獲得した。

しかし、打率は高いが長打力に乏しく、守備は上手いが肩が弱く、足は速いが盗塁はできない中途半端な選手で、扱いにくいためスタインブレイナーオーナーはトレードを画策した。

バック・ショーウォルター監督らの進言でトレードは阻止され、1995年には打率.307、18HR、82打点を打ち、173安打、93得点、8盗塁でそれぞれチームトップを記録。一皮むけて主力に躍り出た。

さらにプレーオフでは大暴れを見せ、シアトル・マリナーズとのディビジョンシリーズでは打率.429を記録した。

翌シーズンはさらに成績を伸ばし、打率.305、29HR、102打点を記録。テキサス・レンジャーズとのディビジョンシリーズでは打率.497を打ち、守備面でも勝利に貢献。

続くボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦の延長11回にサヨナラHRを放ち、MVPを獲得。

0957アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでは6試合で4安打に終わったが、4打点を記録。勝負強さを見せてチームの世界一に大きく貢献した。

1997年にはオールスターとゴールドグラブ賞に初選出。1998年にも両方に選出され、打率.339首位打者のタイトルも獲得。2回目の世界一を達成し、オフに7年8750万ドルの超大型契約を結んだ。

その後ゴールドグラブ賞は4年連続、オールスターは5年連続で選出され、2002年にはシルバースラッガー賞を獲得。チームは1年も欠かさずにプレーオフに進出し続け、ヤンキース外野陣の主役として君臨。イチローもウィリアムズには憧れを抱いていたという。

しかし、契約最終年の2005年には打率.249とキャリア最低の成績に終わり、オフの契約延長では単年150万ドルの契約しか結べなかった。

2006年にはWBCプエルトリコ代表に選出。しかしオフにFAとなり、その後はしばらくメジャーから遠ざかった。

2008年にはプエルトリコの国内リーグに参加。2009年には再びWBCに出場したものの、目立った成績は残せず、表舞台から姿を消した。

その後は引退を発表せずにギタリストとして活動。ジャズ、クラシック、ポップス、ボサノバと幅広い分野でその腕前を披露していたが、2011年、アンディ・ペティットの引退会見に同席し、自らも引退を表明した。

プレーオフでの成績は素晴らしく、121試合出場、80打点、83得点といった多くの通算記録を保持している。

ジェフ・ネルソン ~骨を売る~

07761984年にドラフト22巡目でロサンゼルス・ドジャースに指名されたネルソンだったが、下位指名ゆえに台頭は遅く、メジャーデビューは1992年、シアトルマリナーズでのことだった。

ルーキーイヤーから66試合に登板して1勝7敗、防御率3.44と存在感を示すと、翌シーズン以降もマリナーズブルペンになくてはならないセットアッパーとして活躍した。

1996年にトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。73試合に登板して4勝4敗、防御率4.36と活躍し、アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでも3登板を1安打無失点に抑え、チームの世界一に大きく貢献した。

サイド気味のフォームからスライダーと90マイルのカットボールを投げ込み、右投手でありながら左打者に強いありがたい存在であった。

その後ヤンキースでの5年間で4回も世界一に輝き、2000年にFAでマリナーズに復帰した。

マリナーズでも69試合に登板し、監督推薦で同年オールスターに初選出。ヤンキースのジョー・トーリ監督からのちょっとしたプレゼントであった。

2003年シーズン途中にトレードでヤンキースに復帰。フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズでは3試合を無得点に抑えたが、2勝4敗で敗れて5回目の世界一はならなかった。

0775シーズン終了後にFAでテキサス・レンジャースに移籍。しかし、手術のために2回も故障者リスト入りしたためにわずか29試合の登板に終わった。

シーズン終了後にFAになり、マリナーズに移籍。49試合に登板して防御率3.93と往時の力をやや取り戻し、シーズン終了後にセントルイス・カージナルスに移籍した。

しかし、開幕前にカージナルスを解雇され、シカゴ・ホワイトソックスと契約した。

ホワイトソックスでも6試合の登板にとどまり、6月に右肘の神経を手術で切除すると発表。これは事実上の引退宣言であった。

2007年1月にヤンキースとスポット契約を結び、それを最後に現役を引退した。

同年5月には手術の際に取り出した肘の骨のかけらをネットオークションにかけたが、問題になったため中止された。

文字通り腕も折れよと投げ続けたネルソン。ポストシーズン通算55登板はマリアーノ・リベラに次ぐ歴代2位の大記録である。

ディオン・サンダース ~Neon Deion~

0769子供のころから器用になんでもできたディオンは、ハイスクール時代から野球、フットボール、バスケットで活躍し、フロリダ州立大学でも野球とフットボールに加えて陸上競技でも活躍した。

野球のダブルヘッダーの間に陸上の400メートルリレーに出るなどの荒業を駆使して3競技をすべてで活躍し、1988年には最優秀DBに与えられるジム・ソープ賞を受賞した。

同年外野手としてドラフト30巡目でニューヨーク・ヤンキースに指名され、フットボールの合間にマイナーでプレーして1989年には21歳にして初昇格を果たしたが、同年は14試合の出場に終わった。

昇格にあたって背番号18について感想を求められ、"俺を満足させるのは200万(ドル)だ"と発言して騒動を起こしている。

さらに同年全体5位でアトランタ・ファルコンズに入団。れっずとNFLとMLBの二足のわらじをはく生活が始まった。

1年目からCB兼リターナーとして5INT、1PRTDを記録。TDを記録したのと同じ週にMLBでHRを打ち、1週間のうちにHRとTDの両方を記録した唯一の選手となった。

パワーに乏しいものの、驚異的ともいえるスピードと身体能力の持ち主で、CBをやればINTを連発。外野手をやれば守備範囲はMLBでも有数であった。

しかし自分勝手で生意気な性格で、しばしば首脳陣やチームメイトと衝突。1991年にはヤンキースからFAでアトランタ・ブレーブスに移籍した。

どちらの競技もアトランタに落ち着いたことで成績を伸ばし、フットボールでは6INT、1TD、1.0サック、1KRTDを記録してプロボウルに初選出。野球でも54試合で11盗塁を記録した。

さらに1992年には97試合の出場で打率.304、26盗塁、リーグ最多の14三塁打を記録。フットボールではリーグ最高の1067キックオフリターンヤード、2KRTD、3INT、1レシービングTDの大活躍でプロボウルに加えてオールプロにも選出された。

プロボウルではジム・ケリーが逆サイドに投じたパスを力ずくでインターセプトする荒業を見せ、周囲を唖然とさせた。

同年ブレーブスはプレーオフに進出し、ピッツバーグ・パイレーツと対戦。故障者が続出するブレーブスにサンダースは比露とされたが、NFLの試合にも出場しなければならないため、ヘリコプターを利用して球場を移動し、両方の試合に出場した。

07701993年にもキャリアハイの7INTを記録してプロボウルとオールプロに選出され、野球でもワールドシリーズに進出。しかし、周りと問題ばかり起こすトラブルメーカーぶりは相変わらずであった。

1994年はFAでサンフランシスコ・49ersに移籍。野球の方もシーズン途中にシンシナティ・レッズに移籍した。

フットボールでは超一流だが、野球では控え外野手の域を出ないため、この頃からフットボールにさらに重きを置くようになり、6INTでリーグ最多の303リターンヤード、3TDを記録。最優秀守備選手のタイトルを獲得し、スーパーボウル制覇に大きく貢献。スーパーボウルとワールドシリーズに進出した唯一の選手となった。

ジェリー・ライスと確執を作ってFAとなり、争奪戦の末にダラス・カウボーイズと契約。7年3500万ドル、契約ボーナス1300万ドルは当時の守備選手としての最高記録であった。

オークランド・レイダーズの方が好条件を提示したが、友人であるマイケル・アービンがいて、なおかつリングを狙えるカウボーイズを選んだ。

カウボーイズではディオンに恐れをなした相手QBがディオンの守る右サイドにパスを投げなかったせいでINTは増えなかったが、シャットアウトコーナーとしての地位を確立し、チームのスーパーボウル制覇に貢献。2年連続でリングを手にした。

このスーパーボウルではCBとしてINTを記録し、さらにWRとしてパスレシーブも記録。この両方をスーパーボウルで達成したのはサンダースだけである。

同年限りで一旦野球を引退し、フットボールに専念することを発表した。

その後もカウボーイズディフェンスの顔として活躍したが、チームはなかなかスーパーボウルに進出できず、そのことを気に病んで1997年には自殺未遂を起こしている。

その影響もあって1997年にレッズと再契約し、トニー・ウォーマックに次ぐリーグ2位の56盗塁を記録したが、その後は再び野球から離れた。

フットボールの方では4年連続でプロボウルに選ばれる活躍を見せたが、2000年にワシントン・レッドスキンズに移籍。4INTを記録したが、同年限りでフットボールを引退し、今度は野球に専念することを発表した。

マイナーでのプレーを経て2001年にレッズに昇格し、32試合でプレー。その後野球を引退した。

2004年にボルチモア・レイブンズと契約し、NFLに復帰。5INTを記録して同年限りでアスリートとから引退した。

野球では控え外野手のままで終わったが、フットボールでは90年代のオールディケードチームに選ばれ、2011年にはプロフットボール殿堂入りを果たしている。

現在はフットボールの解説者を務める稀代のマルチアスリート、サンダース。昨シーズンのスーパーボウルでコイントスに現れたのが記憶に新しい。

アンディ・ペティット ~黄金の左腕~

0765イタリア系とフランス系の両親を持ち、ロジャー・クレメンスに憧れていたペティットは、1990年にドラフト22巡目でニューヨーク・ヤンキースに指名されたものの、下位指名に不満を持ち、拒否して短大に進学した。

勉強が苦手だったので短大に進学したのだが、1年後にはドラフト外でヤンキースと契約。大リーガーへの道を踏み出した。

マイナーで51勝22敗の好成績を残し、1995年にメジャーデビュー。12勝9敗、防御率4.17を記録し、新人王投票では3位に入った。

続く1996年には21勝8敗、防御率3.87という圧倒的な成績で最多勝を獲得。オールスターにも選出され、サイ・ヤング賞投票もパット・ヘントゲンに次ぐ2位に入った。

195センチの長身からカーブ、スライダー、シンカー、チェンジアップ、カッターと多彩な変化球を投げ込み、それらを針の穴を通す制球力でコーナーに決めた。

ワールドシリーズでも2登板で1勝を挙げ、2年目にして世界一の栄冠を手にした。

翌シーズンも18勝7敗、キャリアハイの防御率2.88を記録。被本塁打率はリーグ最高の0.3であった。

1999年には少年時代のヒーローであったクレメンスがヤンキースに加入。弟子入りしてトレーニングを共にした。

ヤンキースで4回世界一に輝き、2004年に3年3150万ドルの大型契約でヒューストン・アストロズに移籍。同年引退を表明したクレメンスを説得し、復帰させ、アストロズに入団させた。

0766アストロズでは1年目こそ低迷したものの、クレメンスの代名詞である背番号"21"を着け、"22"を着けたクレメンスとともに左右のダブルエースとして活躍。2005年にはワールドシリーズに進出した。

2006年シーズン終了後に単年1600万ドルでヤンキースと契約。リーグ最多の34先発で15勝9敗、防御率4.05を記録し、契約延長を勝ち取った。

同年オフに"ミッチェルリポート"が公開され、ペティットも2002年に人成長ホルモンを使用したという疑いがかけられた。

ペティットはこの事実を潔く認め、ファンの好感を得ることに成功。シーズンも14勝14敗を記録した。

続く2009年にも14勝8敗を記録。ポストシーズンでも4勝を挙げ、5度目の世界一に大きく貢献した。

2010年も11勝3敗を記録し、プレーオフに進出。ミネソタ・ツインズとのディビションシリーズで1勝を挙げ、MLB記録となるポストシーズン通算19勝を挙げた。

その後テキサス・レンジャーズとのリーグチャンピオンシップゲームで敗退し、翌シーズン開幕前に気力の衰えから現役を引退した。

プレーオフ通算19勝だけではなく、通算263投球回もMLB記録となっている。

ジム・アボット ~Abbot Switch~

0657生まれつき右手首から先がなかったアボットだったが、彼の両親はアボットに好きなことをやらせることにした。

 

いじめられることもあったが、アボットは負けずにスポーツに熱中し、高校時代には同校のエースであると同時に、フットボールのQBとしても活躍し、チームを州チャンピオンに導いた。

 

1985年にドラフト36巡目でトロント・ブルージェイズに指名されたものの、ミシガン大学に進学。同大学で3年間プレーし、283敗という素晴らしい成績を残した。

 

1988年にはソウル・オリンピックのアメリカ代表に選出され、決勝戦の日本戦に先発。後に西武ライオンズで活躍する石井丈裕と投げ合って勝利投手となり、金メダルを獲得した。

 

手首のない右手に右利き用のグラブを乗せて投球し、ボールが来たらすかさず左手にグラブをはめて捕球し、さらにグラブを外して送球するアボット・スイッチは世界中に衝撃を与えた。ちなみに、ハンデがありながら守備力は平均以上に上手かった。

 

同年全体8位でカリフォルニア・エンゼルスに入団。マイナーを経ずにメジャーデビューし、1212敗、防御率3.92の成績を残し、新人王投票で5位に入った。

 

翌シーズンは1014敗も防御率4.51と不調だったが、翌シーズンは1811敗、防御率2.89の好成績を残し、サイヤング賞の投票で3位に入った。

 

翌シーズンは715敗に終わり、翌シーズンはニューヨーク・ヤンキースに移籍。94日のクリーブランド・インディアンズ戦でノーヒットノーランを達成。歴史に大貴君を刻んだ。

 

同年1114敗の成績を残したが、翌シーズンは98敗、防御率4.55に終わり、シーズン終了後にシカゴ・ホワイトソックスに移籍した。

 

0658ホワイトソックスで迎えた1995年シーズン途中にエンゼルスにトレードされたが、2球団にまたがって11勝を記録。ハッチ賞を受賞した。

 

しかし、翌シーズンは218敗で最多敗を喫し、同年限りで一旦現役を引退した。

 

しかし1998年にホワイトソックスで現役復帰。5登板で5勝を挙げた。

 

翌シーズンはミルウォーキー・ブルワーズに移籍したが、28敗に終わり、同年限りで本当に現役を引退した。

 

ちなみに始めてアメリカンリーグにやってきたことで打席に立つ機会が与えられ、21打数2安打を打った。マリアーノ・リベラによると、打撃練習でホームランを打つのを見たことがあるという。

 

87108敗という偉大な記録を残したアボット。自身が障害者だと思ったことはないという。

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