4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

SAK

ブライアン・グラント ~The General~

0911ザビエル大学で活躍し、2度のカンファレンスMVPを獲得したグラントは、1994年に全体8位でサクラメント・キングスに入団した。

1年目から巧みなディフェンスとリバウンドでフロントコートを支配し、平均13.2得点、7.5リバウンドを記録。オールルーキーに選ばれた。

1997年に大型補強を進めていたポートランド・トレイルブレイザーズに移籍。この頃からトレードマークであるドレッドヘアを伸ばし始めた。

当初はスターターとして起用されたものの、1999-2000シーズンには63試合の出場で14先発と控えに追いやられ、スターターの立場を求めてシーズン終了後にマイアミ・ヒートに移籍した。

控えとはいえ平均7.3得点、5.5リバウンドと成績は今一つであったが、7年8600万ドルの大型契約を結び、動議を醸し出した。しかし、パット・ライリーGMはグラントがヒートに必要と信じて疑わなかった。

結果としてこの契約は上手くいった。腎臓病でチームを離脱したアロンゾ・モーニングの代わりとして専門外のセンターでプレー。全試合に出場し79試合に先発した。

身長206センチとセンターにしては小柄だったが、このシーズンキャリアハイとなる平均15.2得点、8.8リバウンドを記録。信頼を得ることに成功した。

0912同郷で南北戦争の英雄であるグラント将軍にちなんで"The General"と呼ばれ、PFに復帰して以降も高い支配力を誇っていたが、故障で徐々に成績を悪化させ、2004年に他の3選手とともにシャキール・オニールとのトレードでロサンゼルス・レイカーズに移籍した。

レイカーズでは控えとして69試合に出場したものの、平均3.8得点、3.7リバウンドと自己最低の成績に終わり、シーズン終了後にフェニックス・サンズに移籍。しかし成績はさらに悪化し、同年を持って現役を引退した。

NBAでも有数の慈善家として知られ、引退後も熱心にチャリティー活動を行っていたが、2008年にパーキンソン病に罹っていることを告白。チャック・デイリーやウェイマン・ティスデイル、ケビン・ダックワースらの死をきっかけに公表に踏み切ったという。

他人の助けは受けたくないとのことで、食事管理を徹底し、現在は多少持ち直して闘病中とのことである。

今まで難病の子供を数知れず助けてきたのだから、グラントの病気が治らないわけがない。私は彼を心から応援したい。

ニック・アンダーソン ~Flying Illini~

0879シカゴで生まれ、1986年にはイリノイ州のMr.バスケットボールに選ばれ、イリノイ大学で活躍、NCAAトーナメントに出場したイリノイのスーパースター、アンダーソンは、1989年に全体11位でオーランド・マジックに入団した。

マジックはこのシーズンに新設されたチームで、アンダーソンはチーム史上初のドラフト指名選手となった。

1年目から控えとして積極的に起用され、81試合で平均11.5得点、3.9リバウンドを記録した。

エキスパンションチームの常でマジックは弱小チームだったが、デニス・スコット、シャキール・オニール、クリス・ウェバー、アンファニー・ハーダウェイとドラフトで優秀な選手を続々と指名し、徐々に力をつけていった。

それとともにアンダーソンは地味になっていった感があるが、平均15得点を割り込まないその得点力はチームに不可欠で、インサイドからもアウトサイドからも得点できるオフェンスのキーマンであった。

ドラフトの成功もあってチームは躍進を続け、1994-1995シーズンには早くもファイナルに進出。ヒューストン・ロケッツと激突した。

ホームのオーランド・アリーナで迎えた第1戦、アンダーソンはなんと4本連続でフリースローを外した。普段は成功率7割前後を堅持していたのに、である。

これが効いて試合はオーバータイムにもつれ込み、マジックはホームでの初戦を落とし、そのままスイープで敗退した。

0880ファンはアンダーソンを"Nick the Brick"と呼んで罵り、アンダーソン自身も気に病んで一時は成績を落とした。

特にフリースローは深刻で、1996-1997シーズンには成功率.404という悲惨な数字を残している。

その後持ち直したものの、1999年にサクラメント・キングスにトレード。マジック創設時のメンバーで最後まで残ったのがアンダーソンであった。

1年目は72試合に先発し、そこそこの成績を残したものの、翌シーズンは21試合の出場に終わり、続く2001-2002シーズンはメンフィス・グリズリーズに移籍。しかし成績は悪化する一方で、同年限りで現役を引退した。引退後はマジックのフロントで働いている。

アンダーソンのせいでファイナルに負けたという人もいるが、そもそもアンダーソン抜きでファイナルに進出できたとは思えない。マジックの通算得点記録を持っているのは、オニールでもハーダウェイでもない。ほかならぬアンダーソンなのだ。

スパッド・ウェブ ~小さかったら高く跳べ!~

0548ダラスの貧しい家に生まれた小さいウェブだったが、足の速さとジャンプ力は誰にも負けなかった。

 

高校では最初は二軍だったが、活躍を認められて一軍に抜擢され、通算平均26得点を記録。4年時には身長168センチにしてダンクを決められるようになった。

 

ミッドランド大学で1982年に全国短大選手権を制覇。その後ノースカロライナ州立大学に移り、1985年にドラフト4順目でデトロイト・ピストンズに指名されたが、数ヵ月後にカット。二日後にアトランタ・ホークスに入団した。

 



無名なうえ身長170センチと小柄だったのであまり期待はされていなかったが、1年目から控えながら積極的に起用され、平均7.8得点、4.3アシスト、1.0スティールを記録。さらにスラムダンクコンテストに出場した。

 

このスラムダンクコンテストがウェブのハイライトである。事前の練習はまったくしていなかったが、垂直飛び117センチの驚異の跳躍力を武器に芸術的ダンクを連発し、見事優勝。大きな話題を呼んだ。

 

その後もホークスのシックスマンとして活躍し、ホークス最終年の1990-1991シーズンには平均13.4得点、5.6アシスト、1.6スティールを記録している。

 

1991-1992シーズンにサクラメント・キングスに移籍。キングスではスターターに起用され、移籍1年目から自己最高の平均16.0得点、7.1アシスト、1.6スティールを記録した。

 

1994-1995シーズンにはリーグ最高のフリースロー成功率.934を記録したが、1995-1996シーズンにホークスにトレードで復帰。さらにシーズン途中にミネソタ・ティンバーウルブルズにトレード。

 

0546シーズン終了後に解雇され、1996-1997シーズンはプレーせず、1997-1998シーズンにオーランド・マジックと契約。4試合プレーして現役を引退した。

 

現在はDリーグ、テキサス・レジェンズの会長を務めている。

 

2006年には自分のダンク技術を身長175センチのネイト・ロビンソンに伝授。二人揃ってスラムダンクコンテストに出場し、ロビンソンはウェブがバウンドさせたボールを空中でキャッチし、そのままウェブを飛び越えてダンクを決め、優勝を勝ち取った。

 

さらに2010年のコンテストでは審査員を務めるなど、ダンクに関してはちょっとした権威である。

デリック・マーチン ~The Domino~

0500高校時代はオールアメリカンに選ばれ、UCLAではチーム史に残る選手だったマーチンだが、ドラフトで指名されることはなく、1994年にCBAのスーフォールズ・スカイフォースに入団した。

 

スカイフォースでリーグ10位となる平均20.1得点を記録。シーズン終盤にミネソタ・ティンバーウルブルズと10日間のトライアウト契約を結び活躍。契約延長を勝ち取り、32試合で平均7.5得点、3.9アシストを記録した。

 

しかし、シーズン終了後にウェーバーにかけられ、バンクーバー・グリズリーズに移籍。グリズリーズでも脇役として渋く活躍したものの、ウルブルズにトレードで戻された。

 

シーズン終了後に解雇され、ロサンゼルス・クリッパーズに移籍。クリッパーズではスターターの座を勝ち取り、移籍1年目からキャリアハイとなる平均10.9得点、4.1アシストを記録。翌シーズンも10.3得点を記録し、弱小クリッパーズになくてはならない戦力となった。

 

1999年にFAでサクラメント・キングスに移籍し、71試合で平均5.7得点を記録。シックスマンとしていぶし銀の活躍を見せた。

 

終盤戦に強く、それを証明する試合がこのシーズンにあった。

 

36日のダラス・マーベリックス戦でマーチンはラスト2分で11得点を挙げる大活躍で勝利に貢献。ひとたび乗ると止まらない”The Domino”というニックネームをチームメイトから授かった。

 

2001年にマーベリックスに移籍。しかしシーズン開幕後にウェーバーにかけられ、再びCBAに戻った。

 

2002年にデンバー・ナゲッツと契約するものの、出場がないまま解雇。CBAのヤカマ・サンキングスに移籍し、プレーオフではMVPを獲得した。

 

0499翌シーズンは古巣スカイフォースでプレーし、2004年にウルブルズにトライアウト契約で復帰。

 

翌シーズンはクリッパーズでプレーし、翌シーズンに創設まもないトロント・ラプターズに移籍した。

 

ラプターズでは出場機会は少なかったが、若手の見本としてチームに貢献。2007年にウェーバーとなり、現役を引退。そのままラプターズのコーチに就任した。

 

アマチュア時代の輝かしい実績からすると物足りないプロ生活だったかもしれない。しかし、何度も解雇されながらもあきらめなかったマーチンは立派である。

ローレンゼン・ライト ~謎の死~

0393メンフィスの近郊で生まれ、メンフィス大学で活躍したライトは、1996年、全体7位でロサンゼルス・クリッパーズに入団した。

 

1年目からスターターとして出場し、平均7.3得点、6.1リバウンドを記録した。

 

1997-1998シーズンにはさらに成績を伸ばし、平均9.0得点、8.8リバウンドを記録。弱小クリッパーズになくてはならない貴重な戦力となった。

 

1999年にアトランタ・ホークスにトレード。当初は環境の変化に戸惑って成績を落としたが、2年目には復帰。自己最高の平均12.4得点、7.5リバウンドを記録した。

 

2001年にメンフィス・グリズリーズにトレード。勝手知ったるメンフィスで水を得た魚のように働き、平均12.0得点、自己最高の9.4リバウンドを記録した。

 

その後もグリズリーズの主力として活躍をつづける傍ら、2003年には大学に戻って正式に卒業するなど人生を満喫していたが、2006年にFAでアトランタ・ホークスに移籍した。

 

03922007-2008シーズン途中にサクラメント・キングスにトレード。さらに2008-2009シーズンにはクリーブランド・キャバリアーズに移籍するものの、出場機会は少なく、そのまま同年限りで引退した。

 

その後は悠々自適の生活を送っていたが、2010年の718日に妻の実家から行方をくらました。

 

家族が警察に届け出て捜査が始められ、728日に近くの林で死体となって発見された。34歳の若さであった。

 

死体はひどく損傷しており、野生動物に襲われた可能性もあったが、銃で撃たれた痕跡が見つかり、殺人と判定された。

 

数年前に麻薬組織と車の売買があったことがわかっており、関係が指摘されているが、真相はわかっていない。

 

名の通ったNBAプレーヤーがなぜ殺されねばならなかったのか。真相の解明が待たれる。

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