4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

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タレント・ディルファー ~Super Buckup~

0808フレズノ州立大学で活躍し、3年連続でカンファレンスを制したディルファーは、1994年に全体6位でタンパベイ・バッカニアーズに入団した。

1年目は控えとして過ごしたが、2年目の1995年から先発に定着。7勝9敗を記録したが、2774ヤード、4TDに対して18INTと散々な数字であった。

続く1996年は12TDを記録したが19INTを喫し、依然不安定な成績で会った。

しかし、1997年に2555ヤードながら21TDを記録。INTは11に抑え、チームは10勝6敗と勝ち越し。同年バッカニアーズのQBとして初のプロボウルに選出された。

獲得ヤードは少ないが、その割にTDが多いクラッチなQBで、FBのマイク・オルストットとともにバッカニアーズオフェンスの中心であった。

しかし、1999年に故障で10試合の出場に終わると先発を追われ、シーズン終了後にFAでボルチモア・レイブンズに移籍した。

トニー・バンクスの控えとしての獲得であったが、開幕からバンクスは不調に陥り、レイブンズは5試合連続TDなしという泥沼状態に陥った。

結局バンクスに代わって後半からはディルファーが先発に定着。8先発で7勝1敗の好成績を残し、チームはスーパーボウルに進出。

ニューヨーク・ジャイアンツとの第35回スーパーボウルでは153ヤードを投げて1TDを記録。34-7で圧勝し、チャンピオンリングを手にした。

シーズン終了後にシアトル・シーホークスに移籍。マット・ハッセルベックの控えであった。

0807しかし、ハッセルベックが股関節の故障でリタイアすると後半から先発に転じ、4先発で全勝。ポテンシャルの高さを見せつけた。

2002年には開幕から先発したが、6先発で2勝4敗と負けが込み、ハッセルベックに先発を譲った。

そんな縁もあり、ディルファーとハッセルベックは今でも親友である。

その後はハッセルベックのバックアップとして過ごしていたが、2005年にトレードでクリーブランド・ブラウンズにトレードされた。

ブラウンズでは先発に復帰し、11試合に出場したが、4勝7敗と今一つで、シーズン終了後にトレードでサンフランシスコ・49ersに移籍した。

49ersではアレックス・スミスの控えであったが、スミスの故障に伴い先発に。6先発したものの1勝5敗と不振を極め、さらにディルファー自身も故障してしまい、先発を降りた。

同年限りで現役を引退。オフに妻とバスケットボールをしていてアキレス腱を切ったのが決め手であった。

控えから先発にのし上がること実に4回。控えQBの鏡、ディルファーは現在解説者を務めている。

レイ・オルドニエス ~Oz Ⅱ~

0771キューバで野球選手として才能を発揮し、若くして準公務員として国内リーグでプレーしていたオルドニエスだったが、1993年にアメリカのバッファローで行われた野球大会にキューバ代表として参加した際に亡命に成功。同年ニューヨーク・メッツとドラフト外で契約した。

1996年にメジャーデビュー。1年目から151試合に出場。新人王投票で5位に入った。

通算打率はわずか.246。出塁率も悪く、通算28盗塁と機動力があるわけでもなかったが、オルドニェスはファンに絶大な信頼を寄せられていた。

その信頼の秘密は芸術的なまでの守備であった。デビュー戦のセントルイス・カージナルス戦ではオジー・スミスをして"後継者"と言わしめたほどであった。

若いころは粗削りだがダイナミックないかにも中米的な選手であったが、徐々に洗練されて行き、1997年から3年連続でゴールドグラブ賞を獲得した。

特に1999年にはわずか4失策しかせず守備率は.994に達し、MLBの遊撃手記録を更新。同年から2000年にかけて101試合連続失策なしのMLB記録も受賞した。

0772しかし、2000年の前半戦に左腕を負傷してシーズンをリタイヤ。翌シーズンには復帰したが往時の芸術的守備は失われてしまった。

となるとオルドニェスは取り柄のない平凡な選手になってしまう。なんとかレギュラーは守っていたが、2002年シーズン終了後にタンパベイ・デビルレイズにトレードされた。

レイズでは34試合しか出場がなく、シーズン終了後にFAとなり、サンディエゴ・パドレスのキャンプに参加したものの、開幕直後に出場がないまま解雇された。

その後シカゴ・カブスと契約したものの出場は23試合に終わり、7月に解雇。その後再びパドレスのキャンプに参加したが、契約に至らず、2005、2006両シーズンはプレーしなかった。

その後2006年のオフにシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだが、開幕直前にサンフランシスコ・ジャイアンツにトレード。そのままプレーすることなく現役を引退した。

現在はマイアミで妻とともに暮らしている。

あの華麗な守備は一度見たら忘れられない。私にとってニューヨークのナンバーワンショートはジーターではなく、このオルドニェスである。

ジョーイ・ブラウナー ~Anchor~

0768ハイスクールではフットボールのDLの他、バスケットや陸上競技でも活躍したブラウナーは、USCで4回もオールアメリカンに選ばれ、1983年に全体19位でミネソタ・バイキングスに入団した。

ルーキーイヤーははCBとして起用され、2.0サック、2INT、4FRを記録した。

続く1984年もLCBとして8試合に先発し、1.0サック、1INT、3FR、1FRTDを記録。バイキングス期待の若手として名を売った。

しかし、ブラウナーが本領を発揮するのは1985年であった。セーフティーにコンバートされて16試合にフル出場し、1.0サック、2INT、1INTT、3FRを記録。プロボウルに選出された。

身長187センチと大きくはなかったが、DL出身ならではのハードヒットが持ち味で、陸上出身だけあってスピードもあり、バイキングスディフェンスを最後尾から支える精神的支柱でもあった。

その後さらに成績を伸ばし、1987年にンは1.0サック、6INTを記録してプロボウルに加えオールプロにも初選出。NFL最高のセーフティーとなった。

この頃にはNFLの海外普及活動の一環として世界各地を回り、イギリス、フランス、中国などを訪れている。

0767歳を増すごとに衰えるどころか円熟味を増し、30歳となった1990円には3.0サック、7INT、1INTTDと自己最高の成績を記録。6回目のプロボウルと3回目のオールプロに選出された。

翌シーズンも14試合に先発し、5INTを記録したものの、プロボウルの選から漏れ、シーズン終了後にタンパベイ・バッカニアーズに移籍。

バッカニアーズではついに衰え始め、わずか7試合の出場で2先発に終わり、同年限りで現役を引退した。

引退後はミネソタで解説者を務めており、2010年にはミネソタ州イーガン市長選挙に立候補申請を行っている。

バイキングスのディフェンスに関する9つのレコードを持つブラウナー。殿堂入り間近の存在である。

ダレン・プッパ ~重騎兵~

06841983年にドラフト4巡目でバッファロー・セイバーズに指名され、1985-1986シーズンにNHLデビューを果たしたプッパだったが、最初は控えゴーリーであった。

 

しかし、1988-1989シーズン途中に正ゴーリーのトム・バラッソが移籍すると正ゴーリーとなり、37試合で1710敗、防御率3.36を記録した。

 

続く1989-1990シーズンには不動の正ゴーリーとなり、身長193センチの巨体を活かして3116敗、防御率2.89でリーグ最多勝を記録。ヴェジーナ賞の投票では惜しくもパトリック・ロワに次ぐ2位に終わった。

 

その後もセイバーズの正ゴーリーとして活躍を続けた、1992-1993シーズン途中にトロント・メープルリーフスにトレード。8試合で62敗、防御率2.25の好成績を残し、チームのプレーオフ進出を後押しした。

 

しかしプレーオフでは1試合の出場に終わり、プロテクトを外れてしまい、エキスパンションドラフトで創設されたばかりのタンパベイ・ライトニングに入団した。

 

ライトニングでも正ゴーリーとなり、1年目から2233敗を記録した。

 

06831995-1996シーズンには2916敗、防御率2.68を記録し、チーム初のプレーオフ進出に大きく貢献した。

 

その後は控えゴーリーとしてチームに貢献。1999-2000シーズンを持って現役を引退した。

 

ライトニングでの通算77勝はチーム歴代2位。ロワとヴェジーナ賞を争った巨漢の姿はさぞや頼もしかったに違いない。

ゲイリー・ロバーツ ~不屈のシューター~

06431984年に全体12位でカルガリー・フレームズに指名されたロバーツは、AHLで英才教育を受け、1986-1987シーズンにNHLデビュー。32試合で5ゴール、10アシストを記録した。

 

1988-1989シーズンにはプレーオフに進出し、22試合で12ポイントを記録。スタンレーカップを獲得した。

 

シュートの精度が非常に高く、1991-1992シーズンには自己最高の53ゴール、90ポイントを記録してオールスターに初選出。シュート成功率はリーグ最高の27%であった。

 

その後もスコアラーとして活躍したが、1994-1995シーズンに首を故障し、僅か8試合に出場に終わった。

 

翌シーズンの途中に復帰し、35試合で42ポイントを荒稼ぎ。リーグ最高のシュート成功率26.2%を記録し、カムバック賞にあたるビル・マスタートン祈念賞を受賞した。

 

しかし、首の故障を理由に引退を宣言。1996-1997シーズンはプレーしなかった。

 

しかし、シーズン終了後に復帰を宣言。まだフレームズが保有権を持っていたが、トレードでカロライナ・ハリケーンズに移籍した。

 

移籍後のポイントは50前後で推移するようになったが、シュートの精度は健在で、なんとしても得点がほしい場面では重宝された。

 

2000-2001シーズンからトロント・メープルリーフスに移籍。親友のジョー・ニューエンダイクとともに活躍したが、2002-2003シーズンに再び故障。14試合の出場に終わった。

 

しかし、翌シーズンには復活し、72試合で48ポイントを記録。37歳にして3回目のオールスターに選出された。

 

0644ロックアウト中は休養を取っていたが、ラクロスのプロリーグNLLからドラフト全体88位で指名を受けたが、プレーはしなかった。

 

ロックアウトが明けてからはフロリダ・パンサーズに移籍。さらに翌シーズン途中にピッツバーグ・ペンギンズに移籍。

 

この頃からついに衰え始め、2008-2009シーズンはタンパベイ・ライトニングに移籍し、同年限りで現役を引退した。

 

度重なる故障にもめげずに這いあがり、42歳になるまでプレーを続けたロバーツ。通算シュート成功率は18.4%に達する。

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