4大スポーツ選手列伝

MLB、NFL、NBA、NHLの4大スポーツの選手のエピソードを紹介していこうと思います

TEX

ジェイミー・モイヤー ~長老~

0900フィラデルフィア郊外で生まれ、大のフィリーズファンだったモイヤーは、ハイスクールでは野球のほかにバスケットとゴルフでも活躍。1980年にフィリーズが初の世界一に輝いた際には学校を抜け出して優勝パレードに参加したという。

その後セントヨゼフ大学に進学。同大学の投手の記録を軒並み塗り替え、背番号10は同大ベースボールチーム唯一の永久欠番に制定されている。

1984年にドラフト6巡目でシカゴ・カブスに入団。マイナーでオールスターに選ばれるなど順調に成長し、1986年に初昇格。16先発で7勝4敗を記録した。

翌シーズンには12勝15敗で初の2ケタ勝利を達成。しかし防御率は5点台で、実力のほどは怪しかった。

1989年シーズン終了後にテキサス・レンジャーズにトレード。しかし故障で15試合の登板に終わり、翌シーズンはリリーフをやらされるなど、依然二流の選手であった。

翌シーズンはセントルイス・カージナルスに移籍したが、マイナースタートとなり、シーズン終了後に解雇された。

翌シーズンカブスのキャンプに参加したが、ひじを故障。野球理論を生かしてコーチ転身を打診されたがモイヤーは拒否。その後解雇された。

その後タイガースとマイヤー契約を結んだもののメジャー昇格はならず、シーズン終了後にボルチモア・オリオールズとマイナー契約を結んだ。

5月に昇格を果たし、先発ローテーションに入って12勝9敗を記録。防御率も3.43まで改善され、30歳にしてようやく開花の兆しを見せ始めた。

1996年シーズンにボストン・レッドソックスに移籍。先発兼リリーフとして7勝1敗の好成績を残していたが、シーズン途中にシアトル・マリナーズにトレード。

0899マリナーズでも6勝2敗を記録し、2チームにまたがって13勝3敗で最高勝率のタイトルを獲得。ついにモイヤーは開花した。

翌シーズンは17勝5敗を記録。1999年には14勝8敗でサイヤング賞投票で6位につけた。

マックス80マイル強の球速ながら、多彩な変化球と抜群のコントロールを持ち、緩急をつけることで投球の幅を広げて対応。ティム・ウェイ区フィールドに次いでMLBで最も球速の遅い投手でありながらマリナーズのエースとして君臨した。

2001年には38歳にして初の20勝を達成。2003年にも21勝を記録し、オールスターに初選出された。

40歳を過ぎても第一線の素晴らしい投手であったが、若返りの方針を打ち出すマリナーズは2006年シーズン途中にフィリーズにモイヤーをトレード。43歳にして憧れのフィリーズのユニフォームに袖を通すこととなった。

MLB最年長の選手の一人であり、モイヤーの働きを疑問視する声もあったものの、2007年には防御率5点台ながら14勝12敗と活躍。翌シーズンには16勝7敗と素晴らしい活躍を見せ、チームの世界一に貢献した。

さらに史上6人目の30球団からの勝利を達成。ほかにもランディ・ジョンソンと投げ合い、2人合わせて88歳48日の投げ合いを演出。これはMLB記録である。

翌シーズンも12勝を挙げ、2010年には47歳で完封を達成し、MLB記録を樹立。息子のディロンがドラフトでツインズに指名されるなど話題の多いシーズンだったが、契約満了に伴いFAになった。

ウィンターリーグに参加したものの、そこで左腕に大けがを負い、トミー・ジョン手術を受け、いったん現役を引退した。

しかし本人は復帰する気満々で、現在は解説者を務めているが、2012年シーズンに復帰するとのうわさもある。

ジェフ・ネルソン ~骨を売る~

07761984年にドラフト22巡目でロサンゼルス・ドジャースに指名されたネルソンだったが、下位指名ゆえに台頭は遅く、メジャーデビューは1992年、シアトルマリナーズでのことだった。

ルーキーイヤーから66試合に登板して1勝7敗、防御率3.44と存在感を示すと、翌シーズン以降もマリナーズブルペンになくてはならないセットアッパーとして活躍した。

1996年にトレードでニューヨーク・ヤンキースに移籍。73試合に登板して4勝4敗、防御率4.36と活躍し、アトランタ・ブレーブスとのワールドシリーズでも3登板を1安打無失点に抑え、チームの世界一に大きく貢献した。

サイド気味のフォームからスライダーと90マイルのカットボールを投げ込み、右投手でありながら左打者に強いありがたい存在であった。

その後ヤンキースでの5年間で4回も世界一に輝き、2000年にFAでマリナーズに復帰した。

マリナーズでも69試合に登板し、監督推薦で同年オールスターに初選出。ヤンキースのジョー・トーリ監督からのちょっとしたプレゼントであった。

2003年シーズン途中にトレードでヤンキースに復帰。フロリダ・マーリンズとのワールドシリーズでは3試合を無得点に抑えたが、2勝4敗で敗れて5回目の世界一はならなかった。

0775シーズン終了後にFAでテキサス・レンジャースに移籍。しかし、手術のために2回も故障者リスト入りしたためにわずか29試合の登板に終わった。

シーズン終了後にFAになり、マリナーズに移籍。49試合に登板して防御率3.93と往時の力をやや取り戻し、シーズン終了後にセントルイス・カージナルスに移籍した。

しかし、開幕前にカージナルスを解雇され、シカゴ・ホワイトソックスと契約した。

ホワイトソックスでも6試合の登板にとどまり、6月に右肘の神経を手術で切除すると発表。これは事実上の引退宣言であった。

2007年1月にヤンキースとスポット契約を結び、それを最後に現役を引退した。

同年5月には手術の際に取り出した肘の骨のかけらをネットオークションにかけたが、問題になったため中止された。

文字通り腕も折れよと投げ続けたネルソン。ポストシーズン通算55登板はマリアーノ・リベラに次ぐ歴代2位の大記録である。

バート・フートン ~Happy~

0640テキサス大オースティン校で通算353敗、ノーヒッター2回を記録した剛腕フートンは、1971年に全体2位でシカゴ・カブスに入団した。

 

マイナーを経ずに直接メジャーデビューし、ルーキーイヤーから3先発で2勝無敗、防御率2.11を記録した。

 

翌シーズンには早くも1114敗で二桁勝利を記録。さらに416日のフィリーズ戦でノーヒッターを達成した。

 

その後もカブスのエースとして活躍を続けたが、当時のカブスは弱く、負け越すシーズンも多かった。

 

1975年シーズン開幕直後にロサンゼルス・ドジャースにトレード。名将ラソーダ率いるドジャースのエースとして生まれ変わり、189敗の大活躍を見せた。

 

常に笑っているように見えたことからラソーダはフートンのことを”Happy”と呼んだ。

 

1976年は1115敗と負け越してしまったが、ナックルカーブを習得して臨んだ1977年に127敗を記録して復活した。

 

0639珍しいナックルカーブの使い手として打たして捕るピッチングを完成させ、1987年には1910敗、防御率2.71を記録。サイヤング賞投票で2位に入った。

 

その後もドジャース投手陣の柱として7年連続2ケタ勝利を記録。1981年にはエクスポズとのリーグチャンピオンシップゲームで2勝を挙げ、MVPに。

 

ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでも1賞を上げ、世界一に輝いた。

 

しかし、その後は衰え始め、1985年にテキサス・レンジャーズに移籍。同年限りで現役を引退した。

 

当代一のナックルカーブの名人として、実に151勝を稼いだ。

 

引退後は2000年から2004年までヒューストン・アストロズのコーチを務め、現在は3Aのコーチを務めている。

ポール・リンドブラッド ~9人目~

0615ピッチャーはよく9人目の野手と呼ばれる。打撃について使われることが多い言葉だが、これは守備においてもそうである。ピッチャーはキャッチャーを除けば一番バッターに近い位置、それも真正面に居るのだ。

 

1962年にカンザスシティ・アスレチックスと契約した論度ブラッドは、1965年にメジャーデビュー。1年目は防御率11.05と散々だったが、翌1966年は14先発で510敗、防御率4.17とまずまずの成績を残した。

 

翌シーズンも10試合に先発したがしっくりこず、用シーズンからリリーフに配置転換。これが功を奏した。

 

いわゆる左殺しとして毎シーズン50試合前後の登板をこなす頑丈な投手であったが、その最大の売りは守備で、388試合連続失策なしのMLB記録を保持している。

 

1969年には60試合に登板し、防御率4.14ながら969セーブを記録した。

 

1972年にはリーグ最多の66試合に登板。1973年にはニューヨーク・メッツを迎え撃ってワールドシリーズに進出し、3試合に登板し世界一に貢献した。

 

特に第3戦ではリリーフとして910回をパーフェクトピットングで抑え込み、勝ち投手に。さらに同年限りでバットを置いたウィリー・メイズの最後の打席の相手を務めた。

 

06161971年シーズン途中にワシントン・セネターズにトレード。チームがテキサス・レmmジャーズに変わった翌シーズン終了後にアスレチックスに出戻った。

 

さらに1977年にレンジャーズに戻り、翌シーズン途中に今度はニューヨーク・ヤンキースに移籍。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズで1試合に登板し、2度目の世界一の栄誉を手に入れた。

 

これを花道に現役を引退。引退後はマイナーでコーチを務めていたが、2006年に64歳でこの世を去った。

 

左投手として歴代7位となる655試合に登板。しかしエラーは14年の現役生活でわずか6つだけであった。

ジョニー・グラブ ~マントルのように~

0603フロリダ州立大学で活躍し、1970年には同大学をカレッジワールドシリーズ決勝まで導いたグラブは、1971年に全体24位でサンディエゴ・パドレスに入団した。

 

大学時代は右打者だったが、ミッキー・マントルにあこがれて左打ちを練習し、見事左打者に転向を果たした。

 

マイナーで順調に成長し、19729月にはメジャーデビューを果たした。

 

1973年にセンターの定位置を獲得し、打率.3118HR,37打点を記録。新人王投票で6位につける活躍を見せた。

 

1974年には打率.2868HR,42打点ながらもオールスターに初選出。代打に出て三振に倒れたものの、パドレスの若き顔として全国に名を売った。

 

1976年シーズン終了後にクリーブランド・インディアンスにトレード。インディアンスではレフトを守り、シュアな打撃を披露した。

 

1977年シーズン途中に今度はテキサス・レンジャースにトレード。21試合で打率.394のハイアベレージを叩き出した。

 

レンジャースではやや成績を落としたものの、外野の両翼を埋める重要な存在であった。

 

1984年にFAでデトロイト・タイガースに移籍。初めてポストシーズンにコマを進め、古巣パドレスとのワールドシリーズも41敗で勝利。移籍1年目にして世界一の栄誉を手にした。

 

0606その後も控え外野手兼DHとして渋く活躍していたが、1986年、37歳にして再びブレイク。81試合で打率.33313HR,51打点をたたき出した。

 

1987年に現役を引退。1989年には日本のマスターズリーグに当たるSPBAに参加。打率.305を記録した。

 

その後はマイナーや女子野球チームでコーチを務め、現在はハイスクールのコーチを務めている。

 

マントル並みとはいかなかったが、なかなか立派な選手人生ではなかっただろうか。

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