ベーシストたけっちブログ

都内と横浜で活動するウッドベーシスト“たけっち”のブログです
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May 01, 2016

鳥の鳴き声が空に絵を描く

メロディは誰かの心の原風景。懐かしい場所からのメッセージ。リズムは死へ向かう生命の行進の音。歌は祈り、願い、誓い。音楽は慈悲。

「諦め」という屍を苗床に、「願い」と「祈り」という雑草が、どんどんわたしの心を覆い尽くしていった。絶望が深くなればなるほどこの雑草もたくましさを増すようで、掴んでも掴んでもまた生えてくる。

なんかこう、歌おうとして歌っているんじゃなくて、もう歌わざるを得ないみたいな、身体中からそれが出てきてる感じの、なんかその人の魂がすごく出てる音楽が好きなんですね。

砂時計みたいに、わたしが真ん中の細いところ、一番キュッとなっているところにいて、で、まぁ、上とか下とか関係ないんだけど、たとえば上から、広い空の上とか神とか生命とか、もっと自然の世界のものからなんか拾ってきて、それが一旦キュッてわたしっていうちっちゃい一点を通って、そっからまたふわ〜って広い入り口のほうにまた広がっていって、そこには他の人たちがいる、と。

                                      宇多田ヒカル


GW1日目は町ジャズだった。ここ数年天候に悩まされてきたが、見事な快晴。
今回は演奏の出番が無かったので、スタッフ業務に集中することができた。気持ち的にはこちらの方が楽。
道端でチラシ配ったり、写真撮ったり、普段の仕事とは全く違うことをやったので、良いストレス解消になった。
楽器も無く身軽だったので、打ち上げにも参戦。関係者の方達でいっぱいで、何だか盛り上がり呑み過ぎた。
楽しい1日だった。


翌日はミカコさんのお誘いで、丹沢の山の麓で演奏。
丹沢アートフェスティバルが行われていて、田中現代美術研究所(研究所とはいっても、実際は自然に囲まれた古民家の素敵なアトリエ)のお庭が会場だった。
前日の町ジャズの頃から症状が出てたが、ううう、花粉症が辛い。。。
目は常に涙目。鼻はズルズル。くしゃみ連発。2,3月と4月の初めの頃は大丈夫だったんだけどなぁ。どうにかならないものか。

会場の詳細がわからず、楽器をアップライトにしようかコントラバスにしようか迷ったが、コントラバスを持って行った。最寄駅から秋山さんに車で送迎していただいた。
移動の車中で秋山さんがフォルクローレのリズムの話をしてくれて、ギターでの親指のアップダウンのストロークは我々で言うところのボーイングの話にも通じるなと思ったし「ここでの親指のストロークはこう!」っていうのがギターにはあるみたい。
後はリズム毎の楽器編成が重要だったり。例えばチャマメだとギター、アコーディオン、ヴァイオリンとか。
そういったリズムの音楽をする時に、本場のアルゼンチンの人でも、例えば「自分を通したチャマメ」という言い方をするみたい。

メンバーはミカコさん、もりぶさん、秋山さんと僕の4人。
セッティングをして、早々に本番、2ステージ。
結果的にはコントラバスでやってよかった。
音があたたかく自然に響く。楽器の震動が直に身体に伝わるから、自分が出している音に自分が癒される。何だか自然と楽器にありがとうと言えるような感覚。前回の本番からチューニングはソロ用に戻さず、オケチューニングのままにしておいたから、楽器がその弦の張力に慣れたのか、鳴り方が安定していた。そして、自分自身もこの楽器の鳴らし方のコツみたいなものを感覚的に掴めてきた。


私のガット弦へのこだわりはどこから来ている?
コントラバスというものは「倍音」と「雑音」が最大の特徴だ、という私のコントラバス観は、かなり変わっていると言わざるを得ません。(リッチモンドでのISBコンヴェンションでテッポ・アホさんに「熱でもあるんじゃない?」と言われ、おでこを触られました。)

それは楽器の「発達」と逆行し、謂わば、民族楽器に戻る方向です。現代日本の民族楽器たるには何が求められるのか?そうすれば邦楽器と対抗できるのか?

                                      齋藤徹

高度に機能化、平均化、(近代的意味で)理想化されたモダン楽器でも、その遺伝子の中には民族楽器や古楽器の血統が含まれているはずで、それが何かのきっかけで突然吹き出したりするのが面白いと思います。
古楽器による歴史的奏法の研究は、そのきっかけの最たるものでしょう。

一度古楽器演奏、歴史的演奏実践で意識が変わった人は、現代楽器を手にしても、その楽器を「先祖返り」させて、そこに潜む「野生」、楽器の本能を引き出しているような気がします。

山枡信明

構築性と即興性と非言語性
途中、ボーカルの方の飛び入りがあったけど、その時のもりぶさんと秋山さんの演奏は職人のようで、これまた面白かった。そんな光景を見て、うーん、「私を聴いて」「私を見て見て」という自我が強烈に出てしまう演奏は自分の感覚的に苦手なんだなと思った。でも、プロを目指したり、活動範囲を広げたい演奏家は、そういった自己アピールは大切だし、ビジネス的な事が時には必要なんだろうけど。。。そして、サロンで演奏されるような調整・調律された音楽には身体に違和感が走りつつも、その場では繕って演奏しなきゃいけない。

ミカコさん達の音楽は、そうじゃなくて、自分の目指す自然や音楽がまずあって、そういった壮大なものを背負って、自分の身体を通して音を奏でているというか。とにかく自然体なんだな。
Afro Blueでは、気付いたら演奏に入り込み、周りとの距離感も感じつつも自分の内へ内へと掘り進んでいた。心地良い集中力だったと思う。気付いたら楽器をパーカッションのように叩いていた。叩くのは楽器にとっては良くないんだけど。。。
クラシックのように構築性があり、ヴィブラートをたっぷりかけて綺麗な音色で奏でる音楽よりも、身の回りの物を叩いたり、擦ったり、引っ掻いたり、あえて時代に逆行するような、自然に還る非言語性と即興に満ちた音楽の方に自分の身体が自然と反応することを感じた。
やっぱりミカコさん、もりぶさん、秋山さんとの演奏は自由で楽しい!

風がなびいて葉っぱや木の実がヒラヒラポトポト落ちていく、虫がカサカサ動いて空気をわずかに揺らす、唐突な鳥の鳴き声が空に絵を描く。そういった自然現象の音の数々を調律したのが、人間の奏でる音楽なのかな。山の麓で、そうした自然の奏でる音と自分の音を共有しながら演奏して、そんなことを考えた。
自分が奏でるんじゃなくて、自然から「いただく」もの。自分で「探して」「見つける」もの。既にあるんだね。
自分は筒の中にある通過点みたいなものなんだろう。風を一身に浴びて葉や枝を揺らして歌う樹のような。
宇多田ヒカルの話にも通じてくる。


ベーシストの飯田さんが薦めてくださったけど途中で読むのを挫折してしまった大橋力著の「音と文明」を、今の時期だったら読めそうな気がしてきた。

bamboobass at 09:51│Comments(0) ムジモン | ムラバン

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