・2000年夏選手権2回戦(6日目第3試合)
丹   原(愛媛)032 010 020 8
光星学院(青森)101 010 43× 10

 松山商、宇和島東、今治西、西条、新田、川之江等、強豪が多い愛媛県で、周桑郡という郡部にあった(現在は西条市)丹原高校は、県内では知られた存在であったが、なかなか甲子園までは届かなかった。しかしこの年、西条、今治西を二桁得点で連破し、とうとう初出場。甲子園に観に行ったのは、正直、もう二度とないかもしれないという思いもあったからである。

 序盤から打線が活発で、中盤までリード。しかし光星学院に着実に点を返され、最後までリードを保てる感じはしなかった。7回に投手交代直後に本塁打を浴び、とうとう逆転されこれまでかと思ったが、8回表に再逆転。しかし投手陣は限界で、その裏3点を入れられ、ここまでだった。しかし慣れない大舞台にもかかわらず、18安打と打線は十分に力を発揮し、関係者は納得いく敗戦だったのではないかと思う。

 光星学院はそれまで数回甲子園には出ていたものの、これが初勝利。この大会ではベスト8、翌年はベスト4に入り、強豪として知られるようになった。古くは智弁和歌山、近年では駒大苫小牧など、ひとつ勝つと一気に勝ち出す例が多い。選手、監督、関係者とも、やはり心理的な壁があるのだろう。

・1987年選手権2回戦(9日目第1試合)
池 田(徳島)000 000 010 0  1
中 京(愛知)000 000 001 1× 2

 お盆の最中に行われ、第1試合にもかかわらず超満員。外野席で観戦したが、全く身動きが取れなかった。子供ながら好カードであることは認識していたが、当然?黄色い声の応援が多い池田を応援した。中京は現在の中京大中京で、今でこそ浅田真央や安藤美姫のイメージも強いが、当時は男子校、ユニフォームも詰襟で今と全く異なるデザインだったことを知らない人も増えているかもしれない。
 池田と中京は79年、83年にも選手権で対戦し、この87年が3度目。短期間に全国大会で当たり続けるのは、この間両校とも力を維持していた証明だろう。同時代のPLと高知商、池田と広島商等も、その関係だろうか。

 試合は、やはりスクイズによるサヨナラの場面が一番印象に残っている。強豪どうしなので想定していたが、我慢比べが延々続いたため、いっそうコントラストが強かったのかもしれない。いかにもスクイズがありそうな場面で、実際に決行され成功したのだが、チームの特性上、競り合いでバントや相手への揺さぶり等の細かい技術の勝負になると、中京が一枚上だと感じた。


この試合のダイジェスト
http://www.youtube.com/watch?v=7rpfnMgRPEc

・1986年選手権2回戦(6日目第1試合)

 高知商(高知)000 000 020 02  4
 小  松(石川)000 000 020 01  3


 私は当時小学校1年生で、父の勤務の関係で、石川県小松市に住んでいた。
 地元の高校の春夏通じて甲子園初出場のうえ、チームにはエースの元雄(もとお)をはじめ、父の会社の社員の子弟も多数いたため、大阪への帰省時に父に連れられ、初めて甲子園で観戦した。ちなみにかなりの進学校だったそうで、地元では「90年に一度の奇跡」と言われていた。
 
 小松の応援席である1塁側アルプススタンドで観戦。8時開始の第1試合で、序盤は強い雨も降っていたが、途中からすっかり快晴に。当時の高知商といえば全国区の超強豪で、子供心にも勝てる気がしなかったが、元雄が踏ん張り、意外にも0-0のまま進行。高知商の投手は、あの岡林(元ヤクルト)であった。8回表にとうとう高知商が2点を先制し、これまでかと思ったが、その裏小松もすぐに同点に追いつき延長戦に。11回表ついに高知商が2点を勝ち越し、万事休すと思ったが、その裏小松も1点を返し、なお二死二塁、一打同点の場面だったが、次打者は遊ゴロで試合終了。この打者走者が一塁にヘッドスライディングした姿は、今でも目に焼き付いている。
 
 甲子園では、初出場校が球場の雰囲気や相手の名前に飲まれ、力を出し切れずに終わるケースも見られるが、この小松の戦いぶりは、強豪相手に力を出し切った内容であった。以降四半世紀を超え、甲子園で観戦し続けているが、最初がつまらない経験であれば、その後続かなかったかもしれず、素晴らしい試合を見せてくれた両チームの選手には、感謝の念に耐えない。
 
 なお当時「90年に一度」と言われた小松は、1999年の選手権にも出場している。

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