バナナ・ヒロシの「はーい!バナナです」

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怨(うらみ)は、徳に因りて彰(あら)わる。故に人をして我を徳とせしむるは、徳と怨みの両(ふた)つながら忘るるに若かず。仇は、恩に因(よ)りて立つ。故に人をして恩を知(しら)しむるは、恩と仇との倶(とも)に泯(ほろ)ぼすに若かず。


恨みは、恩を施すことによって生じる。だから、人に徳を施しても、感謝を期待してはならない。徳も恨みも忘れてもらうのがいちばんだ。仇は、恩を施すことによって生じる。だから、人に恩を施しても感謝を期待してはならない。恩も仇も水に流してもらうのがいちばんだ。


菜根譚

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人の小過を責めず、人の陰私(いんし)を発(あば)かず、人の旧悪(きゅうあく)を念わず。 三者は、以て徳を養うべく、亦(また)以て害に遠ざかるべし。

小さな過失はとがめない。隠しごとはあばかない。古傷は忘れてやる。他人にたいしてこの三つのことを心がければ、自分の人格を高めるばかりでなく、人の恨みを買うこともない。

菜根譚

合唱という「文化的活動」を重視する全生研の背景には、毎年のメーデーで歌われる労働歌をはじめ、1950年代の「うたごえ運動」や、60年代の「反戦フォーク集会」に代表されるような、戦後左翼の政治活動に音楽を取り入れる一連の動きがあった。

しかし合唱を重視していたのは、戦前の初等教育も同じであった。紀元節や天長節といった祝祭日には、「君が代」とは別に、「紀元節」や「天長節」といった唱歌が歌われた。昭和天皇の行幸や親閲式などでは、万単位の「臣民」による「君が代」や奉迎歌の斉唱を通じて、「君臣一体」の光景が東京の宮城前広場をはじめ、全国各地で作り出された。そしていま、公立学校の入学式や卒業式で、戦前の天皇制の残滓というべき「君が代」の斉唱を強制する政治的圧力が、東京都を中心に再び強まりつつあるのは周知の通りである。

いや、戦前や戦後の日本だけではない。ナチス・ドイツもそうであった。ジョージ・L・モッセは、「国民的祝祭における合唱団の役割は第三帝国期に絶頂に達した」(『大衆の国民化』、佐藤卓己他訳、1994年)と述べている。

そもそも、儀礼や音楽には言葉よりももっと強い統合作用があるということは、古今東西の思想家や学者が気づいていた。荻生徂徠の『弁明』とC・E・メリアムの『政治権力』から、その代表的な箇所を引用しておこう。

それ人は、言(ものい)へばすなわち喩(さと)る。言はざればすなわち喩らず。礼楽は言はざるに、何を以て言語の人を教ふるに勝れるや。化するが故なり。習ひて以てこれに熟するときは、いまだ喩らずといへども、その心志身体、すでに潜(ひそ)かにこれと化す。つひに 喩らざらんや。
(「弁明」上、礼。原文は漢文)

儀礼というものが、理性的な観点からすればいかに馬鹿げたものであろうと、それに異をとなえることは明らかに困難である。お辞儀をする際に、右にすべきか左にすべきか、頭を下げるべきか膝を曲げるべきか、それとも全身を屈めるべきなのか、また進み出るべきか引き退るべきか、応答すべきか沈黙を守るべきか、さらには、慣例にしたがえばどういうことをいうべきなのか、などといったことは、習得し、順守すべきことなのであって、それについてあれこれ論ずべきことではないのである。現に行なわれている儀式については、だれも異を唱えることはできない。儀式にまつわる馬鹿馬鹿しさですら、それに長い間従ってきた人間の心のなかには、いつしか親愛の情を生じさせ、新参者の批判には免疫になっているのである。他の権力集団の躓稽蕕世韻滑稽に見えるのであって、自分が忠誠をつくしている権力集団の儀礼が滑稽に見えることはけっしてありえない。
(『政治権力』上 斉藤真・有賀弘訳 東京大学出版会 1973年)


原武史「滝山コミューン一九七四」

映画をみました。

市川雷蔵祭、「歌行灯」です。名作です。すごくいい映画です。監督の衣笠貞之助のみせかたは格調があり、さすがです。能にくわしくないわたしは映画冒頭の謎のバトルはいまだによくわかりません。ロックバンドの業界でいうタイバンというやつにちかいのでしょうか。この映画の山本富士子をみているとセルゲイ・パラジャーノフ「ざくろの色」の主演女優にみえてきます。基本、顔だちが西欧なのですね。
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富貴(ふうき)の叢中(そうちゅう)に生長(せいちょう)するは、嗜欲(しよく)、猛火のごとく、権勢は烈焔(れつえん)に似たり。若し些の清冷(せいれい)の気味を帯(おび)ざれば、その火焔、人を焚(や)くに至らざるも、必ず将に自ら爍(や)かんとす


富貴の家に育った者は、物欲も牽制よくも、猛火のように激しい。少しは水をかけて鎮静させておかないと、人を焼き殺すばかりか、自分まで焼き尽くしてしまう。


菜根譚

D_hmdQ8U4AEgS4H飾りじゃないのよ松屋はhaha− すき家といってるじゃないのhoho−。


こんにちは、バナナ・ヒロシです。


・君が歌の清き姿はまんまんとみどり湛ふる海の底の王 正岡子規

・「何度も回帰し、たえず現にあるもの、それが時間だ。われわれは不完全な生まれ方をするやいなや、時間の中をしばし歩んでいくにすぎない。われわれは時間の岸辺を彷徨う旅人であり、海底に沈んだ溺死者ではない。子供だったときのわたしを、昨夜のわたしと同じ人間だと、時間は知っている。わたしがあまたの姿を取って、たくさんの予感と記憶を胸に成長したことを、わたしは当時も今も知らない。わたしは連続する今の自分が本当の自分だと思っている――お前は過去から現在まで同じだと思っている。」(ハンス・ヘニーヤーン「岸辺なき流れ」)

・あるツイッターより“社会人になって分かったこと・何もわからん・財布にお金がいっぱいあると嬉しい・何もわからん”

・あるツイッターより“「根はいい人なんです」って言い訳もよくわかんなくて、「だったら茎もいい人であれよ」としか思えない。”

・あるツイッターより“「ただの性欲の強いババア」が自分を「エッチなお姉さん」と勘違いしている事例が散見されるな”

・あるツイッターより“「痴漢された」って言ったら・男の教師にニヤニヤされた・「ビッチw」と呼ばれた・そそるような服装をするからだと叱られた・「え?お前が?w」みたいな反応された・ちょっと触られたくらいで何だと叩かれた・女の魅力があるアピールだと捉えられたって話を見たんだけど、あんまり過ぎない?”

・原武史のツイッターより“ある新聞社から「原歴史様」というあて名が記された封筒が送られてきたが、私も「人文書館」を「人文書院」と記してしまったので、人のことは言えない。”

・原武史のツイッターより“神保町のギャラリー古瀬戸の向かい側に新装オープンした焼きそば店が気になっている。”

・あるツイッターより“ていうか、最近の「家にものが多すぎるのはよくない」みたいな風潮はなんなのか。好きなものを遠慮なく買って、捨てたくないなら取っといて、生活空間を圧迫されながら堂々と生きればいいんですよ。(積み本の山を見ながら)”

・あるツイッターより“高度成長期時代の人が考える「ふつう」ふつうに・・・・正社員で就職して・結婚して・車を買って・子供を2人くらい生み育てて・ローンで一軒家を建てて・1つの会社で昇給と昇進をしながら定年退職まで勤める・老後は子供や孫に囲まれ悠々自適  今考えるとすげーなー「ふつう」って”

・あるツイッターより“誰も悪くはないのに、関係性のもつれのなかで、保身はなにかに脅威を幻視させるし、正義はべつの正義と敵対するし、同質性ははからずも異質な要素を過小評価してしまう。そこには誰かの悪意も、誰かによる排除工作もなく、ただ、他者へのイマジネーションが欠落しているだけなのである。”

・あるツイッターより“日本人は「他人に迷惑をかけてはいけない」と刷り込み過ぎた。この教育が引きこもりを育て、デモやストを排除し、人として成熟に必要な反抗期の無い人間ばかりになった。”

・あるツイッターより“「人文的知識なんていらない」という企業人たちが、思い切り非人道的な扱いを社員にしているのを見ると、やはり人文的な素養や価値観というのは大切なんだなあ、と思う。”

・あるツイッターより“「どんな理屈でも検索でわかる」は退行議論になる。検索した時にその理屈が理解できる知識が必要になるが、その知識は検索され、さらにその検索先の理屈を理解するにはそれなりの知識が必要になり、検索が無限に続く。ある時点で検索やめて学習したら退行は止まるが、従来の学習だしな。それ。”

・あるツイッターより“Just left が「左翼」だという明らかな誤訳。でも誤訳してる方が色々自己主張してるうちにに「論争」があるような外形が作られる。歴史の改竄も似てる。まず、火のないところにケムをたてて「論争」があるような外形を作って、「真偽不明」という人たちを大量に生み出した。”

・あるツイッターより“人材派遣会社の数がアメリカの5倍になってんだけど、要はピンハネが日本の基幹産業になっているわけだよ。何もせずにハケンの給料の25%位が転がり込んでくるんだから、こんなボロイ商売はないよね。でもこれによる内需の減少で経済が縮小して先進国の地位から転落してんだからやっぱバカの国だよ。”

・あるツイッターより“要介護1,2って本当に大変ですよ。介護は自分たちには一生無縁と思ってる財務省とか審議会のエライ人たちは、3か月でも現場で手伝ってみてからエラそうに言って欲しい。”

・あるツイッターより“「メルトダウンの真の原因は地震だった」としたら、地震に対する絶対的安全対策の取りようがないため再稼働は出来なかったはず。そこで安倍政権は「原因を津波のせい」にし、莫大な税金を注いで「安全対策は取った」とし原発再稼働を強行した。この大罪を看過してはいけない。”

・あるツイッターより“なんか、日本国民が英語を身につけることが急務だとかいう言い方がすでに思考停止しててダメだと思うんだよね。急務じゃない人も、もちろんたくさんいる。急務かどうかは各個人が状況に応じて判断することでは?”

・あるツイッターより“日本人は英語に対するコンプレックスが異常に強いけど、英語よりも数学や自然科学に対する無理解をもっと恥じた方がいい。”

・あるツイッターより“先程、僕と同じ中学2年生の自殺のニュースを見て、気持ちが落ち着かないです。「(学校に)行きなくないと言えばいいのに」「行かなきゃいいのに」と思う人がいるかもしれない。でも、行き場がないし、言える相手もいないから、未来に絶望して死にたくなるのだと思う。”

・あるツイッターより“コストダウンについて声高に主張する人はいても、「コストダウンのコスト」ましてや、そのコストがコストダウンに見合っているのかということを検討する人はほとんどいない。「合理化の合理性」「改革の改革性」についてもしかり。”

・あるツイッターより“日本が深刻なところは、法や制度、慣習で決まっているのだから、従えないヤツ、逸脱するヤツは排除するという意識が強すぎること。いかなる理由があろうとも原則として考慮しない。だからかなりの人々が暮らしにくく生きにくい。逃げ場も何もない社会。”

・あるツイッターより“そもそも大学が教育・研究の場であるというなら入学年齢を限る必然性はない。従って、大学入試を通じて高校教育を変える発想が生まれるはずもない。大学入試と高校教育を結びつけるということは、大学を例えば選抜のフィルターとしか捉えられていないのではないか。”

・地下鉄に乗っていた、すぐそばの女子高生が会話をしていた。あ、あたしもきゅうり好き。いいよね。きゅうり。おいしいよね。きゅうり。今年の夏のアユ食べた?アユ、おいしいんだよね。・・・そんな会話。

・これまでのタモリ俱楽部の規格のなかでもっともよかったとおもうのはハムカツ人気店の企画。

・夏休み明けで自殺する中学生がたくさんでてくるというニュースをみたが、そういうものなのか。そんなに学校がいやなのか。わたしだって学校はいやだった。でも学校にいきたくないからと自殺を選択しようとおもったことはなかった。学校がいやな場所だったという点では自殺するかれらとわたしは共通している。ちがいはなんなのか。学校がいやだからという原因のほかになにかあるからではないか。じつは家族のほうに原因がある可能性があるとかんがえられる。

・うすうすとぼんやりと漠然と「こうなんだろうな」とじぶんでも整理のつかない未分化の気持ちがこころの奥底にあって、ある日あるとき、ひとと話していて、なにかをきっかけにとたんにそれがまとまったかたちになったものとして口にだすことがある。いった本人もなんでここでいう必要がある、ここでいうことではないのに、と口にしたあともおもう。とつぜんそんなことをきかされた相手もおどろく。でもつい、それをいいたかった。そんなこと。

・この世で目にするもののおおかたは現実から切り取ったものでしかない。切り取る前を、後をわたしたちは知らない。すべて連なってながれているじぶんの人生をかえりみよ。因果関係もあれば、そんなものはなにもない運命のいたずらとしかいいようがない支離滅裂な悲劇をふりかえれ。

・テレビ番組のスポーツ中継がむかしから苦手。勝ち負けそのものもみていていやなものだが、なにより勝者への共感をあたりまえのようにあつかう前提がわたしはなによりいや。一方的におしきせてくる共感はほんとにいや。さあ、次はスポーツです!とスポーツの話題になるとおまえらうれしいんだろ、と決めつける満面の笑顔のアナウンサーがいや。スポーツがきらいなひとはけっこういるんだぜ。

・非生産的ななれあいよりも生産的な孤独を。

・かれらは煙草は健康にわるいとおもっているのではない。タバコを吸う人がゆるせないのだ。いったん世間の良識に是認された意識を獲得すると徹底的に均質化する。戦争に勝つために日本ががんばっているのに、おまえは勝手なことをするんじゃないという是認がとりつけられる。

・経験を重ねると、こなれてしまう、器用にやってしまう、そつなくこなしてしまう。終わりがみえる。目的までの距離を読める。ちゃんとできてしまう。それを成長という。成長するとたいくつなことがおおくなってくる。なれない、へたのままのほうが人生はたのしめる。

・インボイスとかセクハラとかDVとかエイズとか、カタカナ、英語に表記しようとする。これは日本人の気質のふかいところのあらわれでしょう。真正面に問題を据えたくないという。

・体育の時間にかならずやらされた体育座り。あれは内臓を圧迫してからだによくない座り方らしい。軍隊の思想に由来する姿勢です。

・学校って。勝手なことをひとりでやってはいけないことが原則の場所だから、社会に出てから勝手にひとりで好きなことをやっているひとをみると、そんなことをしてはいけないはずだ、という意識が反射的にはたらくように洗脳されているんですよ。

・ひとがドッキリにはめられたりするのみて不愉快な気持ちになる、これは共感性羞恥と学術用語ということだけど、用語として表現の型式におとしこむ、固定化する、収斂することそのものにわたしは不快をかんじる。言葉にかたちづくることで気持ちに整理がつくような錯覚におちいる。気分のわるさ、不愉快さを未分化なままにしておいたほうがいい領域がある。

・マスコミは「この人物は地獄に墜ちた」ということは喜々として報道するけど、墜ちたあとは用はないので、地獄に落ちた存在はなかったことになる。バイトテロで莫大な損害賠償を請求された青年の家庭事情などだれも知らない。

・人間、さいごに胸にのこるものは理性ではなく気質に埋もれた記憶だけかもしれない。しかし理性と知性で現実をのりきらなければいけない。

・あるときいろいろわからなくなってくる。わからなくなってくるものだから、昨日はそういっただけど、今日はなんかちがうとおもう、というのはありふれたこと。このありふれたことをゆるさない存在っておおいよね。でもふつうにあることです。

・しあわせそうにみえるひとがほんとにしあわせかどうかはわからない。わたしをみてしあわせそうじゃないとみえるひとがいてもまとはずれなことだ。なぜならあとになってわたしはしあわせだったとわたしも気づくことがおおいから。

・デュルケーム「自殺論」に、古代ギリシアのアテナイででは評議会に自殺の許可を申し立てて、それが認められと自殺をしてもよいという社会であったとある。「モハヤこれ以上生きながらえてることを欲しない者は、その理由を評議会に申し出、許可を得たのち生からのがれよ。もしなんじに生がいとわしいものとなれば、死ぬがいい。もしなんじが運命に敗れたならば、生を捨てるがよい。不幸に泣く者はその不運を述べよ。長官はこれに薬を与えよ。しからば苦悩は終わりを告げるであろう」

・スティーヴン・ミルハウザー「イン・ザ・ペニー・アーケード」所収「湖畔の一日」はすばらしい作品である。すばらしいのだが、柴田元幸は「すべからく」の使い方を誤用している。この一点が残念。

・「いつの頃からか「言いよどむ」「答えに窮する」「難問の前に絶句する」というふるまいが無能の記号であるかのように扱われるようになりました。違います。逆です。どんな難問にも一刀両断的に即答できる人間は「マニュアル」に沿って自動的に反応しているだけで、頭の中では何も考えていないのです。マニュアル通りにしていれば即答できます。それを「賢そう」と見る人もいるかも知れません。でも、原理的に言えばすべての出来事は「前代未聞」です。だから、ほんとうのリアリストは即答を控えます。ぺらぺら即答する人は「前代未聞の出来事」というものがこの世にあることをおそらく知らないのです。」(内田樹のツイッターより 8月28日付)

・「青春時代は突然、好き勝手に語られた物語のように、出現する。それは脈絡がなく、わざとらしい危険に満ち、不自然で、偽りの感傷だらけで、でっち上げた悪のように見える。おそろしいのは、あの重圧が、若いころの圧倒的な重圧が、もはやないということだ。落ちつきのない希望、無分別な血が囁く暗い声はもはやない。わたしには自分の内部に新たな悪が腰を据えつつあることしか感じられない。老いの始まりというこの新たな悪は、わたしの知らない、これからも決して知ることがない、わたしとは何年もの時間によって隔てられた、かろうじて予感できる感覚の力によって隔てられた何者かの手にわが身を委ねることなのである。」(ハンス・ヘニーヤーン「岸辺なき流れ」)

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