ずっと後世まで語り継がれるアニメは「新世紀エヴァンゲリオン」までだろうなあ、これから先も。

エヴァの最大の魅力は何か、といえばかんたんにいえば、どこからみてもおもしろい、ということ。
そのどこからみても、というのは、現実と意味を押しこめるだけ押し込むことによって惹き起こされる意味の空洞化、無力化にあるんじゃないかと最近私は思える。だからどこをみても意味があるようで実はどこにも、ひとつのところに収斂されていく意味がないのである。過剰な意味が無意味に逆転していくのである。
意味の砂の上に、頑として浮遊する無意味の楼閣がエヴァの舞台なのだ。

そう考えればこのアニメのテレビ版の最終回も納得できるのである。

その押し込めるだけ押し込めた氾濫の中だからこそ、その意味不明の霧に隠れた情報群のなかでどこまでも過激に、残酷に、その世界で好き放題できたアニメがエヴァなのだ。黒の背景にやたらとゴシック調の白抜きの言葉がキャラの周囲に埋め尽くされているのはそういう理由である。戦闘描写のディテールに執拗にこだわるのは、到底一般人には理解できない専門用語で埋め尽くして、「理解できない意味」の壁をどこまでも厚くするためである。そこで希望も絶望も好きなように踊ることができるのである。
エヴァファンを熱狂させた理由はそういう基盤があったからこそである。それも実にうまいことやった。

映画「End of Evangelion」を私は当時、浅草の薄汚い映画館で観た。昭和の匂いがしみついた館内の中で観たエヴァはなかなか妙味なものだった。
この映画の中で使われた曲「Komm,su[:]sser Tod 甘き死よ,来たれ」を私はえらく気に入った。この曲をほしいためにエヴァのサントラを買った。また、このシーンもよかった。地球が綾波レイの化身に破滅に追いやられるなか、気楽にリラックスにこの曲が流れるシーンが一番好きだ。

動画は「Komm,su[:]sser Tod 甘き死よ,来たれ」 「THE END OF EVANGELION」より